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暗闇に抗う部費

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翌朝、旧校舎の暗室に漂う空気は、いつも以上に重く沈んでいた。換気扇の低い駆動音だけが、現像液特有のツンとした酢酸の匂いをかき混ぜている。


 宮本瞬は、自作PCの前に猫背の体を丸め、ブルーライトカット眼鏡の奥からモニターを凝視していた。画面の端に表示された真っ赤な警告バナーが、彼の視神経を苛立たせるように明滅している。


『Adobe Creative Cloudのライセンス有効期限が残り24時間で切れます。更新手続きを行ってください』


 月額の利用料金。それは、アルバイトすらしていない一人の高校生が維持するには、あまりにも重いデジタルな通行税だった。これまでは、かつて前部長の中村が残していった部費の端数や、瞬が個人的に貯めていたなけなしの小遣いで支払いを繋いできたが、それも完全に底を突いた。


 カチャ、と二重の遮光カーテンが揺れ、有村あかりが暗室に入ってきた。その顔を見て、瞬はキーボードを叩く手を止めた。


 あかりの大きな瞳の周りは、痛々しいほど赤く腫れていた。昨夜、自宅で継母の美紀に「沢田敏郎」の顔写真を突きつけた結果がどうなったのか、瞬は聞いていない。聞くつもりもなかった。他人の家庭の泥沼に踏み込むことは、自分の胸の奥に眠る「顔を切り取られた母親」のトラウマを呼び覚ますことに他ならないからだ。


 だが、あかりは震える声を押し殺し、努めて明るく振る舞おうとしていた。


「宮本先輩……お母さんの写真のレタッチ、今日はどこから進めますか?」


「進められない」


 瞬は淡々と、しかし冷酷な事実を口にした。モニターの警告画面を指し示す。


「あと数時間で、画像処理ソフトのライセンスが切れる。そうなれば、レイヤーの編集も、パースの微調整もすべてロックされる。君のお母さんの写真の右半分を復元する作業は、ここで強制終了だ」


「そんな……!」あかりが息を呑む。「どうしてですか? 学校の部費とか、そういうのは使えないんですか?」


「僕たちは『写真部』じゃない。部員が僕一人になって、実績もないから『同好会』に降格された。非公認の団体に、学校は一円の予算も出さない。それがルールだ」


 あかりは唇をきつく噛み締めた。彼女のスマートフォンの中には、美紀をパニックに陥れた敏郎の顔写真がある。あと少しで、実母の志保がなぜあの写真を切り裂かなければならなかったのか、その「最後の嘘」の真実に手が届くところまで来ているのだ。ここで諦めるわけにはいかなかった。


「私、生徒会に行ってきます」


 あかりの瞳に、強い意志の光が宿った。


「予算の申請書、私が黒川先輩に出してきます。直談判すれば、少しは話を聞いてくれるはずです」


「無駄だ」と瞬は言ったが、あかりはすでに暗室を飛び出していた。


 木造の旧校舎から新校舎への渡り廊下を渡ると、空気が一変した。コンクリート造りの冷たい壁、無機質なLEDの白い光、そしてカーストの頂点に立つ生徒たちの賑やかな声。不登校気味だったあかりにとって、新校舎はそれだけで呼吸が苦しくなる場所だった。だが、彼女は胸元に抱えた「予算申請書」をきつく握りしめ、二階の奥にある生徒会室のドアをノックした。


「失礼します」


 冷房が効きすぎた静かな部屋の奥、スチール製のデスクに向かってタブレットPCを叩いていた少年が、ゆっくりと顔を上げた。メタルフレームの眼鏡の奥から、冷淡な眼光があかりを射抜く。生徒会会計、黒川拓海だった。


「何の用だ。非公認の『写真修復同好会』が、生徒会室に何の用件がある」


 黒川の声には、歓迎の意など微塵も含まれていない。あかりは一歩前に進み、デスクの上に申請書を丁寧に置いた。


「宮本先輩のレタッチソフトのライセンス更新費用、六千四百八十円の部費申請です。お願いします、これがないと、私たちの修復作業が続けられなくなります」


 黒川は申請書を一瞥すらせず、タブレットの画面に視線を戻した。キーボードを叩くカチカチという規則的な音が、あかりの焦燥感を煽る。


「却下だ。持ち帰れ」


「どうしてですか! わずか数千円です。写真修復同好会は、ただの趣味で集まっているわけじゃありません。地域の古い歴史や、生徒たちの思い出を修復する、意味のある活動を――」


「意味があるかどうかを決めるのは、お前の主観ではない。数字と規則だ」


 黒川は冷酷に言い放ち、タブレットをあかりの方へ向けた。そこには、学校の内規がびっしりと表示されていた。


「北陵高校生徒会細則、第四条第十二項。前年度の公式活動実績がゼロ、かつ地域社会への目に見える貢献数値が証明できない非公認団体に対し、生徒会は予算の配分権を持たない。お前たちの同好会は、ただの幽霊部員が暗室を不法占有しているだけの『お遊び』だ。そんなものに、全校生徒から集めた公金を一円でも出すわけにいかない」


「お遊びなんかじゃありません!」あかりの声が響いた。「宮本先輩は、本気で写真を直しています。昨日だって、私の家の……」


「個人の家庭のプライベートな写真を直すことが、どうして『地域貢献』になる?」


 黒川の正論が、あかりの言葉を鋭く遮った。


「それはただの、個人的な便利屋だ。学校のブランド価値を向上させるための公式実績にはならない。もし予算が欲しいなら、三ヶ月以内に、市の図書館や商店街から公式に感謝状でも貰って、数字で実績を示せ。それができないなら、予定通り一ヶ月後には暗室を強制解体する」


 黒川は冷たく申請書をあかりの手元に押し戻した。その指先には、一瞬の容赦もなかった。


「終わりだ。授業が始まる。新校舎に長居するな、幽霊同好会」


 あかりは、冷たいスチール製のドアが閉まる音を背中で聞きながら、廊下に立ち尽くした。手の中の申請書は、彼女の握力で無惨にクシャクシャに歪んでいた。規則という名の巨大な壁の前に、自分たちの「居場所」がいかに脆く、無力であるかを、彼女は骨の髄まで思い知らされた。


 放課後。夕暮れのオレンジ色の光が旧校舎の歪んだ窓ガラスから差し込み、暗室の前に長い影を作っていた。


 あかりが重い足取りで暗室のドアを開けると、中はすでにパソコンの電源が切られ、完全な暗闇に包まれていた。赤い安全灯すら点いていない。ただ、モニターの前に座る瞬の、痩せた背中の輪郭だけが、窓からの微かな光に浮かび上がっていた。


「先輩……ごめんなさい。予算、駄目でした……」


 あかりは俯き、絞り出すような声で謝った。自分のせいで、瞬の唯一のシェルターである暗室の息の根が止められようとしている。その罪悪感が、彼女の胸をきつく締め付けた。


 瞬は振り返らなかった。ただ、静かな声が暗闇の中に落ちる。


「分かっていたことだ。黒川はルールに従っているだけだ」


「でも、これじゃお母さんの写真が……」


「写真は、ここで終わりだ」


 瞬の言葉は、冷淡というよりは、諦念に満ちていた。彼はゆっくりと立ち上がり、机の上に置かれた、志保の写真の左半分を見つめた。カビに侵され、真ん中から切り裂かれた、不完全な思い出の紙片。


「デジタルツールが使えなければ、僕には何もできない。結局、僕は過去を焼き直しているだけで、現実の何一つ変えられないんだ」


 その言葉の裏にある、瞬自身の深い無力感と、失踪した母親への消えない傷跡。あかりは、瞬の背中がこれ以上ないほど小さく、孤独に見えた。彼は誰とも関わろうとしないのではない。他者に関わることで、自分の無力さを突きつけられるのを恐れているのだ。


 あかりは暗室を後にした。旧校舎の冷たい廊下を歩きながら、彼女の頭の中には、瞬がこれまで自分のために見せてくれた「手」の動きが、走馬灯のように蘇っていた。


 一ピクセル単位のゴミを消すための、息を止めるようなストイックな指先。ボケた背景から、悪魔のような敏郎の顔を力強く引きずり出してくれた、あの執念のレタッチ。瞬の技術は、ただの「お遊び」なんかじゃない。自分の凍りついた家族の時間を、確かに動かしてくれた「本物の魔法」だったのだ。


「……私にできること」


 あかりは立ち止まり、自分のスマートフォンを開いた。銀行口座のアプリに表示された、なけなしの残高。それは、彼女が不登校になる前に少しずつ貯めていた、お小遣いとアルバイト代の残りだった。わずか五千円強。


 あかりは新校舎の靴箱を飛び出し、夕暮れのひばりヶ丘商店街へと走り出した。


 錆びついたアーケードを抜け、彼女が向かったのは、商店街の一角にある「ツカハラカメラ」だった。ガラス張りの古い店舗のドアを開けると、チリンとレトロなベルの音が響いた。奥のカウンターには、拡大鏡を額にかけた店主の塚原源三が、気難しそうな顔で座っていた。


「……なんだ、北陵の小娘か。源さんは今忙しいんだよ」


「源さん、お願いがあります!」


 あかりは息を切らしながら、カウンターに五千円札を叩きつけた。


「これで買えるだけの、一番いい写真用紙をください。宮本先輩が、写真をプリントするための、高品質なやつを!」


 源三は拡大鏡を外し、あかりの泥だらけの靴と、必死な眼差しをじっと見つめた。それから、ふんと鼻を鳴らし、奥の暗い倉庫へと消えた。数分後、彼が持ってきたのは、黒いパッケージに包まれた、ずっしりと重い一束だった。


「富士フイルム製、最高品質印画紙だ。デッドストックだが、湿度管理は完璧だ。……お前らの小遣いじゃ、本来なら到底足りんが、今回はお釣りをくれてやる。その代わり、あのクソ生意気なレタッチャーの小僧に伝えておけ。『紙をケチる奴の写真に、魂は宿らん』とな」


「ありがとうございます!」


 あかりは、ずっしりとした重みを持つ黒いパッケージを胸に抱きしめ、再び夜の帳が下り始めた学校へと走り出した。


 夜の旧校舎は、不気味なほど静まり返っていた。立ち入り制限時間を過ぎた廊下は暗く、あかりの足音だけが木造の床に響く。生活指導の志村教諭に見つかれば、一発で特別指導だ。だが、彼女の心にあるのは、暗室の暗闇の中に一人で取り残されている瞬の姿だけだった。


 暗室のドアの前に辿り着く。中は完全に静まり返っていた。ドアノブを回そうとしたが、鍵が閉まっている。瞬はまだ中にいるのだろうか、それとも、もう帰ってしまったのだろうか。


 あかりは、胸に抱えていた高品質印画紙のパッケージをそっと床に置いた。そして、カバンから取り出したノートの切れ端に、震える手でメッセージを書き込んだ。


『私の母の写真を救ってくれて、ありがとうございました。先輩の手を、私は信じています。 有村あかり』


 あかりは、印画紙のパッケージと手紙を、暗室のドアの下にある、わずか数センチメートルの隙間から、暗闇の向こうへとそっと差し入れた。シュー、と紙がコンクリートの床を滑る音が、静寂の中に響いた。


 彼女はしばらくその場に立ち尽くし、ドアの向こうの気配を窺った。だが、何の音も聞こえない。あかりは小さく息を吐き、静かにその場を立ち去った。


 暗室の中。


 完全な暗闇の中で、瞬は壁に背を預けて座り込んでいた。彼の目は、モニターの電源が切れた自作PCの、黒い画面を見つめていた。まるで、自分の未来そのものを映し出しているかのように、そこには何も写っていなかった。


 その時、暗闇の床を滑るようにして、黒い影が滑り込んできた。


 瞬は眉をひそめ、手探りでスマホのライトを点けた。白い光が床を照らし出す。そこには、ずっしりとした厚みを持つ黒いパッケージと、一枚の白い紙切れが落ちていた。


 瞬はゆっくりと近づき、それを拾い上げた。紙切れに書かれた、あかりの必死な、しかし温かい手書きの文字が、スマホの光に浮かび上がる。


『先輩の手を、私は信じています』


 瞬の胸の奥で、何かが小さく、しかし確かに音を立てて軋んだ。他者の信頼。それは彼がずっと避け、切り捨ててきた、最も重い「負債」のはずだった。だが、この高品質な印画紙の重みと、あかりの不器用なメッセージは、彼の頑なな心を激しく揺さぶっていた。


「……馬鹿な奴だ」


 瞬は呟いたが、その声は震えていた。彼は印画紙をデスクの上に丁寧に置いた。だが、いくら最高級の紙があっても、デジタルソフトのライセンスが切れれば、すべてはただの白いゴミになってしまう。タイムリミットは、明日の朝だ。


 瞬は自作PCの電源を落とし、重い足取りで暗室の鍵を閉めて帰路に就いた。夜の風は冷たく、彼のブルーライトカット眼鏡のレンズを白く曇らせていた。


 翌朝。


 瞬は、いつもより一時間早く学校に登校した。旧校舎の暗室のドアを開けると、朝の微かな光が遮光カーテンの隙間から細い線となって差し込んでいた。


 彼はデスクの前に座り、自作PCの電源ボタンを押した。ファンが静かに回り始め、高色域モニターが青い光を放ちながら起動する。瞬は、ライセンスが完全に失効し、画面がロックされているであろう「警告画面」を覚悟して、Adobe Creative Cloudのアイコンをクリックした。


 だが、モニターに映し出されたのは、予想していた赤い警告画面ではなかった。


 ポン、と軽い通知音が鳴り、画面の中央に緑色のチェックマークが表示された。


『サブスクリプションの更新が完了しました。次回の決済日は2027年6月3日です。ご利用ありがとうございます』


「……え?」


 瞬は思わず眼鏡を外し、目をこすった。画面の表示は変わらない。ライセンスは、確かに「更新完了」になっていた。期間は、一年間。


 瞬は混乱しながら、アカウントの支払い管理画面を開いた。そこには、瞬が登録した覚えのない、別の口座からの振込履歴が記載されていた。


『決済方法:口座振替(宮本 拓海)』


 父親の名前。


 瞬の息が、一瞬だけ止まった。無口で、母親の失踪以来、自分と目を合わせることすら避けていたシステムエンジニアの父親。家庭内で冷え切った沈黙を守り続けていたあの男が、なぜ、自分の知らないところで、この高額なライセンス費用を黙って支払い続けていたのか。


 暗室の静寂の中で、瞬はただ、青く光るモニターを呆然と見つめ続けることしかできなかった。父子の間の、冷たく、しかし確かに繋がっている「沈黙の温度」が、彼の胸の奥を激しく締め付けていた。

HẾT CHƯƠNG

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