Nhạc nềnHarvest

影の中に潜む男

Audio truyện
Chưa có audio. Bấm để tự tạo audio cho tập này.

旧校舎の片隅にある暗室は、放課後の喧騒から切り離された唯一のシェルターだった。天井から吊り下げられた赤色安全灯が、コンクリートの壁と木製の作業台を血のような深い赤に染め上げている。その狭い空間の中で、宮本瞬の自作PCの冷却ファンだけが、静かに、しかし執拗に低音を響かせていた。


 瞬はブルーライトカット眼鏡のブリッジを押し上げ、ペンタブレットの前に背を丸めた。高色域モニターの冷たい青い光が、彼の前髪を白く照らし出している。画面に表示されているのは、昨日あかりが持ち込んできた亡き実母・志保の写真だ。千二百dpiという超高解像度で取り込まれたRAWデータは、紙の繊維の一本一本までを露悪的なまでに暴き出していた。


「……さて、ここからだ」


 瞬はスタイラスペンを握り直した。彼の任務は、この写真の失われた右半分を復元すること。そして、あかりの家族をバラバラに引き裂いた「嘘」の正体を、この印画紙の奥から引きずり出すことだった。


 写真は真ん中から刃物で意図的に切り分けられていた。切り取られた右半分――そこには父親である有村大介が写っていたはずだ。だが、瞬の関心はそこだけには留まらなかった。志保のひまわり柄のワンピースの右端、ちょうど切り取り線の境界近くに、ピントが大きく外れた「不自然な影」が写り込んでいたのだ。


 瞬は拡大率を八百パーセントに引き上げた。画面に現れたのは、光学的ボケ(錯乱円)の塊だ。撮影されたレンズの特性、絞り値、そして被写体との距離。それらの情報が、ボケの形状の中にコードのように暗号化されている。


 瞬の瞳孔が微かに収縮した。彼の特殊知覚能力「フォーカス・アイ」が起動する。


 脳内で、この写真を撮影した古いコンパクトカメラのレンズ収差が逆算されていく。ピントが合っている志保の瞳の位置から被写界深度を逆算し、背景のボケ具合をシャープな輪郭へと再構成していく。瞬の指先が、Wacomのペンタブレットの上でミリ単位の精密さで動き始めた。彼の手つきは、まるで砂に埋もれた古代の遺物を、極細の筆で慎重に掘り起こしていく考古学者のようだった。


「スタンプツールだけじゃ、このボケの奥にあるテクスチャは再現できない……」


 瞬は独りごちた。彼が目指すのは、単なる機械的なコピペではない。彼は「構図復元士」としての階梯に足をかけつつあった。同じ大正・昭和期のひばりヶ丘商店街の旧アーケードで撮影された、複数の古い写真データを脳内のデータベースから引き出す。そして、パースペクティブの消失点を重ね合わせる「タイム・レイヤリング」を実行した。失われた右側の背景、錆びついたアーケードの鉄骨の角度、そして光の差し込む方向が、ジグソーパズルのように噛み合っていく。


 そして、作業開始から三時間が経過した頃。


 ピントが大きく外れていた写真の左端、志保の背後に広がる暗がりの奥に、一つの「輪郭」が結像し始めた。ボケたピクセルのノイズが再整列し、人間の顔のパーツへと収束していく。


 瞬は呼吸を止めた。心拍の合間の静寂を狙って、最後の一撫でをタブレットに刻む。


 モニターの上に浮かび上がったのは、一人の男の顔だった。


 四十代前半。だらしなく伸びた無精髭に、ボサボサの不潔な髪。よれよれのブルゾンの襟元が見える。そして何よりも印象的なのは、その口元に浮かんだ、卑屈で、他者を値踏みするような薄汚い笑みだった。


 その男は、志保のすぐ後ろ、カメラの死角から覗き込むようにして、だらしなく笑っていた。ただの通行人ではない。明らかに、撮影者や被写体である有村家に対して、不穏な悪意を持ってそこに存在していた。


「……こいつは、誰だ?」


 瞬の背中に、冷たい汗が伝った。彼がその男の顔を見つめていると、暗室のドアが控えめにノックされた。入ってきたのは、あかりだった。彼女は制服の上に大きめのカーディガンを羽織り、不安げな目で瞬を見つめた。


「宮本先輩……進捗は、どうですか?」


 瞬は無言でモニターを指し示した。あかりが恐る恐る近づき、画面を見つめる。そして、復元された男の顔が目に入った瞬間、彼女は小さく息を呑んで後退りした。


「この人……誰?」


「僕が聞きたい」瞬は冷静に、しかし鋭く言った。「ピント補正とパース逆算で、ここまで復元した。この男は、君のお母さんのすぐ後ろに立っていた。君のお父さんとも、美紀さんとも、何らかの関わりがあるはずだ。見覚えはないか?」


 あかりは青ざめた顔で首を振った。「わからない……。私、こんな人、見たことない。でも……なんだか、すごく嫌な感じがする」


「このデータを君のスマートフォンに送る」瞬は淡々と作業を進め、ファイルを転送した。「家で、美紀さんに見せてみるといい。もしこの男が、君たちの過去に関わっているなら、何らかの反応があるはずだ」


 あかりはスマホの画面に映る男の卑屈な笑みを見つめ、ゴクリと唾を呑み込んだ。「……わかった。やってみる」


 その夜、有村家のアパートのダイニング。テーブルの上には、美紀が作った温かいカボチャのシチューとハンバーグが並んでいた。父親の大介は工務店の残業でまだ帰宅しておらず、幼い異母弟の健二はリビングのソファで既に眠り込んでいた。


 美紀はエプロンをつけたまま、あかりの前に温かいココアの入ったマグカップを置いた。その顔には、あかりに歩み寄ろうとする、いつもの緊張を孕んだ微かな笑みが浮かんでいた。


「あかりちゃん、今日のシチュー、お口に合うといいんだけど……」


 あかりは箸を持ったまま、美紀の顔を見つめた。美紀のボブヘア、丁寧に整えられた爪、そして有村家に馴染もうと必死に努力している佇まい。そのすべてが、どこか脆いガラス細工のように見えた。


 あかりは意を決して、ポケットからスマートフォンを取り出した。画面には、瞬が復元したあの「だらしなく笑う男の顔」が表示されている。


「美紀さん」


 あかりの声は、静かだが、ダイニングの空気を一瞬で凍りつかせるだけの冷たさを持っていた。


「……これ、誰だか分かりますか?」


 あかりはスマホの画面を、美紀の目の前に突きつけた。


 美紀が何気なく画面に目を落とした。次の瞬間、彼女の動きが完全に停止した。


 美紀の大きな瞳が、これ以上ないほどに見開かれる。彼女の顔から、みるみるうちに血の気が引いていくのが分かった。唇が微かに震え、呼吸が浅く、速くなる。


 カタ、カタカタカタ……。


 美紀の手が激しく震え、彼女が持っていたマグカップがソーサーとぶつかって、不快な高い金属音を響かせた。ココアの茶色い液体が、白いテーブルクロスの上に数滴こぼれ、泥のようなシミを作る。


「あ……あ、あ……」


 美紀の喉から、言葉にならない掠れた声が漏れた。彼女の視線は、スマホの画面に写る男の顔に釘付けになり、恐怖で凍りついていた。


「美紀さん?」あかりは追及の手を緩めなかった。「知っている人なんですね。お母さんの古い写真の背景に、この人が写っていたんです。ピントがボケていたのを、写真部の先輩が直してくれた。……この人は、誰ですか?」


「ただの……通行人よ」


 美紀は引きつった笑みを浮かべ、震える手でマグカップをテーブルに置いた。しかし、その嘘はあまりにもお粗末だった。彼女の額には、冷たい汗が滲んでいる。


「通行人が、そんなに都合よくお母さんの真後ろに写りますか? 瞬先輩の解析データでは、この人はあなたたちのすぐ近くに立っていた。嘘をつかないでください」


「違うの……本当に、知らない人よ……」


 美紀の声は悲鳴に近かった。彼女はあかりから目を背け、自分の胸元をきつく抱きしめた。その姿は、まるで目に見えない暴力から身を守ろうとする被害者のようだった。


「美紀さん、お母さんは死ぬ前に、あなたと秘密で会っていた。その時、この人も一緒にいたの? お父さんが写真を切ったのは、この男を消すためだったの?」


 あかりの言葉が、美紀の心の最も深い傷口を抉った。


「やめて!」


 美紀は突然、頭を抱えて叫んだ。その大声に、ソファで眠っていた健二がビクリと身体を震わせる。


「お願いだから……もうやめて、あかりちゃん……」


 美紀は涙を流しながら、あかりの前に膝を突くようにして懇願した。彼女の綺麗なボブヘアが乱れ、必死に築き上げようとしていた「優しい母親」の仮面は完全に剥がれ落ちていた。


「この人には……沢田敏郎には、絶対に関わらないで。あの人は……あの男は、関わる人すべてを不幸にする悪魔なの。お願いだから、これ以上調べないで……」


 沢田敏郎――美紀の口から、男の本名が漏れ出た瞬間だった。


 美紀はそのまま立ち上がり、涙を拭うこともせず、自分の寝室へと駆け込んでドアを激しく閉めた。カチャリ、と内側から鍵がかかる冷たい音が、静まり返ったダイニングに響き渡った。


 テーブルの上には、半分冷めかけたシチューと、こぼれたココアのシミだけが残されていた。有村家の仮初めの平和は、一枚の写真の真実によって、完全に崩壊したのだ。


 あかりは一人、ダイニングテーブルの前に立ち尽くしていた。スマートフォンの画面の中では、沢田敏郎が、今も卑屈な笑みを浮かべて彼女を見つめ返していた。

HẾT CHƯƠNG

Chưa có bình luận nào. Hãy là người đầu tiên!