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破断面の少女

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生徒会会計の黒川拓海が去った後も、暗室を満たす酢酸の匂いは変わらずにそこにあった。天井から吊り下げられた赤色安全灯が、コンクリートの壁と木製の作業台を血のような赤に染め上げている。自作PCの冷却ファンが、静かに、しかし執拗に熱を吐き出し続けていた。


 宮本瞬は、制服のポケットに突っ込んだ真鍮製の予備キーを指先で弄んでいた。冷たい金属の感触だけが、彼の焦燥感を辛うじて繋ぎ止めている。


「三ヶ月、か……」


 声は、赤い闇に吸い込まれて消えた。実績を作らなければ、このシェルターは解体される。だが、他者と関わることを拒んでこの暗闇に逃げ込んできた自分に、一体何ができるというのか。モニターに映し出された、見ず知らずの他人の色褪せた家族写真を見つめながら、瞬は深く息を吐き出した。


 その時だった。


 ――トントン。


 防音性の低い木製のドアを、遠慮がちに叩く音がした。瞬は息を止め、身体を硬直させる。無視していれば、そのうち諦めて去るだろう。そう思った。だが、ノックの音は一度止んだものの、すぐに引き戸が小さくきしむ音へと変わった。


 二重の遮光用ブラックアウトカーテンが乱暴に押し分けられ、廊下の白々しい蛍光灯の光が暗室になだれ込んでくる。


「あの……すいません」


 入ってきたのは、小柄な女子生徒だった。少し癖のある黒髪をショートボブにし、身体のサイズに合っていない大きめの制服を着ている。スカートの裾は泥で汚れ、肩は小刻みに震えていた。一年生の有村あかりだった。彼女の瞳は赤く腫れ上がり、頬には涙の跡が白く浮き出ている。


 瞬は反射的にモニターの電源を切り、暗闇の中へと身を引いた。前髪の隙間から、侵入者の様子を油断なく観察する。


「ここは……写真部、ですか?」


 あかりの声は震えていた。彼女の手は、胸元で何かを壊れ物を扱うようにきつく抱きしめている。瞬は低い、感情の起伏を削ぎ落とした声で応じた。


「……部員はいない。ここはただの倉庫だ。用がないなら出て行ってくれ」


「お願い、です」


 あかりは瞬の拒絶を聞かなかったかのように、一歩前に踏み出した。彼女が胸元から差し出したのは、一枚の古びた写真だった。だが、それは無惨にも真ん中から激しく引きちぎられており、右半分が完全に失われていた。残された左半分には、ひまわり柄のワンピースを着た、明るい笑顔の女性が写っている。あかりの亡き実母、有村志保だった。


「この写真を……直してほしいんです。あなた、写真を綺麗にできるって、先輩から聞いて……」


 あかりの大きな瞳から、再び大粒の涙がこぼれ落ち、床のコンクリートに小さなシミを作った。


 瞬は、差し出された写真に視線を落とした。印画紙の表面は湿気で波打ち、破断面からは白い紙の繊維が毛羽立っている。典型的な、物理的破損だ。だが、瞬の心に湧き上がったのは、同情ではなく強い警戒心だった。


「断る」


 瞬は冷淡に言い放ち、ペンタブレットのペンをデスクに置いた。


「ここは便利屋じゃない。それに、破れた写真を元に戻すなんて、ただの同好会にできるわけがないだろう。他を当たってくれ」


「そんな……!」


 あかりは絶望に目を見開いた。


「これしかないんです! お母さんの写真、これ一枚しか残ってないのに……お父さんが、新しいお母さんを家に連れてきてから、お母さんの思い出がどんどん消されていって……。私、お母さんの顔まで忘れちゃいそうで、怖くて……!」


 新しいお母さん――継母の美紀。あかりの言葉の端々ににじむ、家庭内での孤立と、過去にしがみつこうとする悲痛な叫び。それは、瞬の脳裏にある、十年前の忌まわしい記憶を呼び覚まそうとした。顔を切り取られた、あの母親の写真。


 瞬は奥歯を噛み締め、感情を押し殺した。他人の痛みに深入りすれば、自分の傷口が開く。それは彼が最も恐れることだった。


「写真はただの記録だ」


 瞬の声は、暗室の空気よりも冷たかった。


「ただの、銀塩と紙の塊だ。それをいくら綺麗に繋ぎ合わせたところで、過去は戻らないし、君の現実も変わらない。そんな感傷のために、僕の時間を使いたくない」


 暗室の3箇条――その3「依頼者の痛みに寄り添う」。今の瞬には、その言葉の真意を理解する余地など微塵もなかった。彼はただ、自分のシェルターを守るため、目の前の「ノイズ」を排除したかったのだ。


 あかりは言葉を失い、唇を噛み締めた。瞬の冷酷な瞳の奥に、一切の妥協がないことを悟ったのだろう。彼女の手から力が抜け、握りしめられていた写真の破片が、ひらりと床に落ちた。


「……冷たい人ですね」


 あかりは掠れた声でそう呟くと、顔を覆い、泣きながら暗室を走り去っていった。旧校舎のきしむ床板を叩く彼女の足音が、遠ざかっていく。遮光カーテンが揺れ、再び暗室は赤い静寂に包まれた。


 瞬は一人、デスクの前に立ち尽くしていた。耳の奥で、自分の心臓の鼓動がうるさいほどに響いている。他者を拒絶した後の、不快な沈黙。


 彼は足元を見下ろした。赤い安全灯の下、床に落ちた有村志保の写真の左半分が、寂しげに横たわっている。ひまわりのワンピースを着た女性が、赤い闇の中で歪んで微笑んでいた。


「……ゴミを残していくなよ」


 瞬は毒づきながら、腰を屈めて写真を拾い上げた。ゴミ箱に捨てようと、その破断面に指が触れた、その瞬間だった。


 瞬の指先が、奇妙な違和感を感知した。


 彼は写真を顔の前に引き寄せ、ブルーライトカット眼鏡を外した。彼の「フォーカス・アイ」が、極限まで覚醒していく。拡大鏡を覗き込むまでもなく、彼の脳内で、破断面のミクロな構造がシャープに結像した。


「これは……」


 瞬の瞳が、驚愕に細められた。


 写真の破断面。引きちぎられたはずのその境界線は、不自然なほどに直線的だった。紙の繊維が引き裂かれた際のランダムな毛羽立ちの奥に、極めて微細な、しかし確実に一本の「直線の圧痕」が残されている。それは、鋭利な刃物――カッターナイフかハサミによって、一度正確に切り込みを入れられた痕跡だった。


 つまり、この写真は、怒りや悲しみに任せて「引きちぎられた」のではない。誰かが意図的に、定規を当てて、あるいは慎重に刃物を滑らせて「切り分けた」のだ。そしてその後に、あたかも破られたかのように見せるため、断面の繊維をわざと引っ張って偽装している。


 なぜ、そんな手の込んだ真似をした?


 誰が、何のために、この母親の写真を切り裂いたのか。


 瞬の頭の中で、修復師としての、そして技術者としての知的好奇心が、静かに、しかし激しく燃え上がり始めた。写真が語る、物理的な嘘。その奥に隠された、人間の歪んだ意志の気配が、彼の防壁を内側から叩いていた。


 瞬は拾い上げた写真を、デスクの自作PCの横にそっと置いた。赤い安全灯の光の下、切り裂かれたひまわりの笑顔が、彼に無言の問いを突きつけているようだった。

HẾT CHƯƠNG

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