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赤い光のシェルター

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酸っぱい匂いが、肺の奥をちりちりと刺激する。


 私立北陵高校の旧校舎最奥。かつて写真部が使用し、今では完全に忘れ去られた暗室の空気は、現像液と定着液、そして酢酸の匂いで満ちていた。窓を塞ぐ重厚な遮光用ブラックアウトカーテンは、経年劣化でラバーの一部が剥げ、昼間だというのに外界の光を完璧に遮断している。


 この部屋を満たす唯一の光は、天井から吊り下げられた古めかしい電球が放つ、赤色の安全灯だけだった。


 その血のような赤い光の中に、もう一つの異質な光が浮かび上がっている。宮本瞬が自作した、プロ仕様の高色域モニターが放つ、鋭い青色の光だ。


「……あと、三割」


 瞬は低く掠れた声で呟き、ペンタブレットを握る右手に力を込めた。前髪が長く、ブルーライトカット眼鏡の奥にある瞳は、ディスプレイに映し出された画像の一点だけを凝視している。


 画面に表示されているのは、どこかの古い家族写真のスキャンデータだ。湿気で印画紙の表面がふやけ、無数の白いひび割れが走っている。瞬は拡大率を八〇〇パーセントに設定し、一ピクセル単位のゴミや折れ目を、手動で消去していく。コピースタンプツールを動かすペン先のストロークは、ミリ単位の狂いもなく、驚異的な速度で盤面を滑っていた。


 この瞬間、瞬の意識は完全に外界から隔絶されていた。


 学校の喧騒、新校舎から聞こえる吹奏楽部の音、クラスメイトたちの冷ややかな視線。そのすべてがフェードアウトし、脳内には画像の階調と銀粒子の配置だけがクリアに再構成されていく。それは彼が「暗室のセルフ・ハイ」と呼ぶ、極限の集中状態だった。


 この赤い光のシェルターだけが、他者との関わりを極端に避ける彼にとって、自分が自分でいられる唯一の居場所だった。


 ――ガタタッ。


 突然、静寂が暴力的に切り裂かれた。


 暗室の重い木製ドアが、ノックもなしに乱暴に開けられたのだ。遮光カーテンが大きく捲り上げられ、旧校舎の廊下から冷たい空気と、蛍光灯の白々しい光が容赦なく流れ込んでくる。


「うわっ……なんだ、この酷い匂いは。化学薬品の化学兵器か?」


 不快そうに鼻を覆いながら入ってきたのは、メタルフレームの眼鏡をかけた少年だった。きっちりと着こなした制服の胸元には、生徒会役員のバッジが光っている。二年生の生徒会会計、黒川拓海だった。


 瞬はペンを握ったまま硬直した。しかし、視線はモニターから外さない。無視を決め込もうと、再びペン先を動かし始めた。


「おい、宮本瞬。聞こえているだろ」


 黒川は土足のまま暗室の床を踏み鳴らし、瞬のデスクの脇まで歩み寄ってきた。手元のアクティブなタブレットPCを厳かにタップしながら、冷淡な声を響かせる。


「生徒会会計として、正式な通達に来た。旧写真部――いや、現在はお前一人が名籍を置いているだけの、この『幽霊同好会』についての監査結果だ」


 黒川はタブレットの画面を瞬の目の前に突きつけた。そこには、赤字で書かれた予算管理表と、「実績:過去三年間ゼロ」という冷酷な数字が並んでいた。


「過去三年間、活動報告書は一枚も提出されていない。暗室の水道光熱費だけは毎月計上されているが、これは部費の不適切支出、あるいはスペースの不法占有に該当する。大河内教頭からの直接の指示だ。この暗室を本日をもって解体し、空きスペースにする。来期からは、隣の放送部が全国大会用の第二防音スタジオとして改築することが決定している」


 解体。


 その言葉が、瞬の耳の奥で不気味に反響した。


 ここを奪われれば、自分はどこへ行けばいい。新校舎のあの息が詰まるような、カーストと視線の渦の中に放り出されるのか。瞬は奥歯を噛み締め、沈黙を貫いた。言葉を発すれば、自分の声が震えてしまうことを知っていたからだ。彼はただ、ペンを握る手に血がにじむほどの力を込め、レタッチ作業を続けようとした。


 その頑なな態度が、黒川の神経を逆撫でした。


「無視するなと言っている。規則は絶対だ。実績のない者に、学校の公共スペースを占有する権利はない」


 黒川は冷酷な笑みを浮かべ、瞬のデスクに手を伸ばした。そして、自作PCのメインモニターの電源ボタンに、その指先をかけようとした。


 その瞬間、瞬の身体が動いた。


 ――バシッ、と乾いた音が暗室に響く。


 瞬はペンを置き、黒川の手首を驚異的な反応速度で掴み取っていた。その指先は驚くほど冷たく、しかし万力のような力で黒川の動きを完全に封じ込めていた。


「……触るな」


 前髪の隙間から、ブルーライトカット眼鏡の奥の瞳が、黒川を射抜くように睨みつけていた。普段の猫背で陰気な少年のものとは思えない、獣のような鋭い眼光だった。黒川は一瞬、息を呑み、身体を硬直させた。


「な、なんだその目は……。暴力を振るう気か? 生徒会に対する反逆は、即時退学処分に値するんだぞ」


 瞬は無言で黒川の手首を放した。そして、デスクの端に置かれていた、真鍮製のくすんだ鍵――「旧写真部暗室の予備キー」を素早く掴み取ると、自らの制服のポケットの奥深くに滑り込ませた。物理的な防衛。この部屋の鍵は、まだ自分が握っているという無言の意思表示だった。


 黒川は乱れた袖口を整え、動揺を隠すように眼鏡の位置を直した。そして、タブレットを抱え直しながら、教頭の威光を背景にした最終通告を突きつけた。


「……鍵を隠したところで無駄だ。教頭先生はすでに、マスターキーを用いた強制解体の手続きを進めている。だが、大河内教頭も鬼ではない。教育的な配慮として、お前たちに『最後の機会』を与えるとおっしゃっている」


 黒川は冷たく言い放った。


「本日より、三ヶ月の執行猶予をやる。その間に、学校のブランド向上、あるいは地域社会への目に見える『貢献実績』を数字で示せ。もし期限内に実績が提出できなければ、その時はこの暗室を強制的に解体する。水道と電気の使用制限も、明日から実施される。薬品の匂いに対する苦情も出ているからな」


 三ヶ月。


 それが、瞬のシェルターに課された命の期限だった。


「精々、無駄な抵抗を続けることだな、宮本瞬」


 黒川はそれだけを言い残し、冷たい廊下へと去っていった。ドアが閉まり、遮光用ブラックアウトカーテンが元の位置に戻ると、再び暗室は赤い安全灯の光に包まれた。


 しかし、先ほどまでの静寂はもう戻らなかった。自作PCのファンの駆動音だけが、まるで砂時計が落ちる音のように、重苦しく響き続けていた。


 瞬はポケットの中の真鍮の鍵を強く握りしめた。金属の冷たさが、手のひらに痛いほど伝わってくる。実績を出すための「最初の修復依頼」を、この閉ざされた暗室の中で、一体どこから見つければいいのか。圧倒的なリソース不足と、迫り来るカウントダウンの気配に、瞬はただ、赤い闇を見つめることしかできなかった。

HẾT CHƯƠNG

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