正道という名の偽善
ぬかるんだ黒い酸性泥が、皮膚のただれた生肉に触れるたび、じくじくと焼けるような痛みが脳髄を刺した。
南蛮黒沼谷の最深部、紫冥花の密生林。蜈丸との死闘を終えた黒崎蓮二は、腐りかけた巨木の陰に背を預け、荒い呼吸を押し殺していた。嵐の前の静寂が沼地を包む中、彼の左腕は不自然な角度でだらりと垂れ下がっている。骨関節着脱「蛇身」の代償――完全なる左肩の脱臼だった。
「が、はっ……」
低く、獣のような呻きが蓮二の喉から漏れた。右腕の痛覚を「氷脈封」で強制的に凍結させているものの、冷気の麻酔効果が薄れつつある。皮膚の内側で主経絡を物理的に繋ぎ止めている『経絡縫合の鋼糸』が、指先をわずかに動かすたびに肉を削り、神経を直に針で突き刺すような激痛を容赦なく呼び覚まそうとしていた。右腕全体の皮膚は病的に白く凍りつき、感覚が死んでいる。
(まずは……腕だ。動かなければ、次の瞬間には死ぬ)
蓮二は冷徹に自身の肉体スペックを計算した。彼は残された右手の凍りついた指先で、だらりと垂れ下がった左手首を掴んだ。そして、左肩の関節を巨木の硬い樹皮に押し当てる。息を大きく吸い込み、一気に体重をかけた。
グチャリ――。
肉の奥で骨と靭帯が強引に噛み合わされる、生々しく不快な音が響いた。凄まじい激痛が全身の毛穴から冷や汗となって噴き出す。蓮二は奥歯が砕けんばかりに噛み締め、絶叫を喉の奥で押し潰した。視界が白濁し、肺の空気がすべて吐き出される。だが、その瞳から復讐の光が消えることはなかった。
蓮二はだらりと垂れていた左腕をゆっくりと持ち上げ、指先を握り締めた。靭帯は微細に断裂し、まともな防御力は期待できない。だが、骨は嵌まった。最低限、兄の形見である『黒崎真司の折れた愛刀』を逆手に握ることはできる。
その時、湿った風の匂いが劇的に変わった。
南蛮特有の腐敗臭と硫黄の悪臭の中に、場違いなほど清らかな、雪と氷の匂いが混ざり込んできたのだ。その冷気は、黒沼谷の澱んだ冷気とは根本的に異なる。中原の霊峰に積もる、汚れなき万年雪の匂いだ。
ドクンッ!
蓮二の心臓が、かつてないほど激しく跳ね上がった。胸元の皮膚の下で、怪しく脈打つ紫色の血管が沸騰したように膨張する。体内に宿る「血蠱」が、その清らかな冷気の気配を感知し、飢えた獣のように狂暴な脈動を開始したのだ。心臓の内側から熱毒が噴出し、蓮二の喉元まで焦熱の炎がせり上がってくる。
「ぐっ、がはっ……!」
蓮二は口元を押さえたが、指の隙間から赤黒い、沸騰した毒血が泥濘へと滴り落ちた。血蠱が宿主の心臓を内側から突き破ろうとする「初期暴走」の兆候。莉奈の熱毒吸着翡翠はすでに崩壊寸前の深い亀裂が刻まれており、これ以上の熱を吸収する余裕はない。他人の内力を喰らわねば、数刻と持たずに肉体が内側から融解する。
(あの冷気……あれこそが、俺の心臓を救う、極上の餌だ)
蓮二は血の滲む唇を歪め、冷徹な狩人の目で霧の向こうを見据えた。彼は気配を完全に消し、一族の無念が眠る『朽ち果てた墓所』の崩れた墓石の影へと滑り込んだ。
霧を切り裂いて現れたのは、白と青の美しい剣士服を纏った集団だった。泥に塗れた沼地にあって、彼らの衣服には塵一つ付着していない。中原五大門派の一つ、寒氷宗の外門弟子たちで構成された『中原正道同盟・南蛮征伐隊』。
その先頭に立つ男――白木は、端正な顔立ちに傲慢な笑みを浮かべ、青く輝く『氷晶の長剣』を誇らしげに提げていた。彼が歩くたびに、足元の泥濘がパリパリと音を立てて白く凍りついていく。凝真境・中期の圧倒的な寒氷真気。
「ふん、汚らしい邪派の巣窟め。この沼地の空気自体が、我ら正道の真気を汚すかのようだ」
白木は鼻を鳴らし、目の前に広がる『黒沼の流民街』の外縁を見下ろした。そこは、五毒教の奴隷労働から逃れてきた無関係な流民たちが、腐った木材を繋ぎ合わせて作った粗末な高床式のスラム街だった。
「白木兄貴、流民たちが怯えてこちらを見ておりますが……」
気の弱そうな若い剣士、白木の従弟である青木が、剣を握る手を震わせながら囁いた。
「愚か者め」白木は冷酷に言い放った。「邪派の支配下にある沼地で生きる者は、すべて妖魔の残党だ。彼らをこの地ごと『浄化』することこそ、我ら寒氷宗が掲げる正義。手加減など不要だ。我が剣の錆にできることを光栄に思え」
白木が氷晶の長剣を無造作に一振りした。放たれた極寒の剣気『寒氷疾風剣』が、吹雪となって流民街を襲う。一瞬にして、数棟の高床式住宅が物理的に凍りつき、次の瞬間にはガラスのように粉々に砕け散った。
「ぎゃあああああああ!」
「助けてくれ! 俺たちは五毒教徒じゃない、ただの流民だ!」
悲鳴と絶叫が吹雪の中に響き渡る。凍りついた我が家から逃げ出してきた流民たちに向け、正道の弟子たちは「悪を滅ぼす」という大義名分を叫びながら、容赦なく剣を突き刺していった。清廉潔白を謳う彼らの青い剣士服が、流民たちの赤い血で汚れていく。
墓石の影からその光景を見つめる蓮二の瞳は、絶対的な零度へと冷え切っていた。正義、正道、大義。彼らが口にする美名など、邪派の残虐さと何ら変わりはない。ただ、己の欲望と虐殺を「白」で塗り潰しているだけだ。激しい嫌悪と憎悪が、蓮二の胸を焦がす。
だが、それ以上に血蠱が暴走していた。白木が放つ純粋な冷気波動を感じるたび、心臓の虫が狂ったように蠢き、蓮二の経絡を内側から焼き尽くそうとする。体温が急激に上昇し、全身の皮膚が赤く染まり始める。
(静まれ……まだだ。今飛び出せば、あの数に押し潰される)
蓮二は「毒血同化の呼吸法」を使い、周囲の冷気の気流に潜む毒素の揺らぎを分析した。白木の剣気は強力だが、その足捌きには傲慢ゆえの油断がある。部隊の陣形を崩し、各個撃破するための隙は必ずある。
「白木兄貴、お待ちください」
部隊の後方から、冷静な目つきをした弟子、柳沢が声をかけた。彼は周囲の霧の動きを鋭く観察していた。
「毒霧の濃度変化が不自然です。冷気が広がっているはずなのに、特定のエリアだけ霧が渦巻いている。邪派の達人が影に潜んでいる可能性があります。一度、陣形を整え直すべきです」
「ふん、柳沢、お前は相変わらず臆病だな」
白木は柳沢の警告を傲慢に一蹴した。
「この程度の汚らしい沼地に、我が寒氷真気に対抗できる者などいるはずがない。妖魔の残党どもが怯えて逃げ惑っているだけだ。青木! お前もいつまで震えている。そこの茂みに逃げ込んだ奴を仕留めて、己の正義を証明してみせよ!」
「は、はい! 白木兄貴!」
青木は功名心と恐怖に突き動かされ、剣を構えて走り出した。彼の視線の先には、怯えて逃げる流民の少女がいた。少女は泥に足を取られながら、蓮二が潜伏する茂みの方向へと必死に這いずり寄ってくる。
青木の荒い息遣いと、泥を跳ね上げる足音が、蓮二の潜伏する茂みのすぐ近くまで迫る。
蓮二は泥の中に身を沈めたまま、左手を静かに懐へと滑らせた。指先が、兄の形見である『黒崎真司の折れた愛刀』の、錆びついた冷たい柄に触れる。血蠱が、すぐ近くまで迫った「冷気」の持ち主に反応し、胸の奥でドクン、と怪しく、激しく脈打ち始めた。
青木のブーツが、蓮二の目の前の泥を踏みしめた。茂みが不自然に揺れ、青木の怯えた双眸が、泥の中に潜む「死神」の影を捉えようとした、まさにその瞬間――。
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