蛇身の抜刀、断ち切る無念
闇夜の湿り気を帯びた風が、紫冥花の放つ妖しい青紫の霧を狂わせるように吹き抜ける。南蛮黒沼谷の泥濘の中、黒崎蓮二は呼吸すらも殺して伏せていた。全身に塗りたくった強酸性の泥が傷口を焼き、皮膚を苛むが、その苦痛すら今の蓮二にとっては、意識を繋ぎ止めるための細い糸に過ぎなかった。
数歩先。松明の赤黒い炎に照らされた蜈丸の指先が、真鍮製の信号弾の引き金に食い込んでいく。引き金が引き絞られる金属の不快な擦れ音が、蓮二の「血蠱の殺気警告」を通じて心臓へ直接、針を刺すような激痛となって伝わった。
(放たせれば、死ぬ)
極めて単純で、冷酷なサバイバルの数式。信号弾が夜空に火花を散らせば、数分以内に蠍魔の本隊と、あの右腕を破壊した風刃の達人・烈風がこの密生林を包囲する。狂血の反動によって全身の筋肉が鉛のように硬直し、内力回復速度が極限まで低下している今の蓮二には、それを迎え撃つ力など残されていない。右腕は鋼糸の食い込みによって黒ずみ、完全に麻痺している。
残された時間は、蜈丸の指先が引き金をあと一分(いちぶ)引き絞るだけの、一呼吸にも満たない刹那。
蓮二の左目に、底知れぬ漆黒の光が宿った。動かない右腕ではなく、泥にまみれた左腕へ、わずかに残された真気をかき集める。だが、彼の位置から蜈丸の立つ場所までは、左腕をどれだけ伸ばしても届かない。距離にして半歩。この半歩の壁が、生と死を分ける奈落の溝だった。
(届かないならば――骨を引きちぎってでも伸ばす)
かつて関節の魔術師「骨削(ほねしり)」から叩き込まれた、人体の限界を超える凄惨な身体操作。蓮二は泥の中で、左肩の経絡に逆流する真気を強引に叩き込んだ。自己の骨格を破壊し、関節を外す禁忌の技術――骨関節着脱「蛇身(じゃしん)」。
グチャリ、と肉の奥で骨と靭帯が引き剥がされる、生々しく不快な音が響いた。常人であれば激痛で失神するはずの衝撃。だが、蓮二の凍てついた精神は、その痛みを単なる「物理的な数値」として処理した。左肩の関節が完全に脱臼し、彼の左腕は骨のない蛇のように、異常な角度で前方にのたうち回りながら、そのリーチを半歩分、強引に拡張した。
その指先が握りしめているのは、兄の形見である『黒崎真司の折れた愛刀』。半分から先が失われた、錆びついた鉄塊。
シュッ、と無音の軌道が闇を裂いた。脱臼し、鞭のようにしなる左腕の先から放たれた折れた愛刀は、蜈丸が信号弾を天空に掲げた、まさにその手首に向けて真っ直ぐに突き出された。
「な――!?」
蜈丸が驚愕の声を上げた時には、すでに遅かった。暗黒の泥の中から突如として伸びてきた、関節のねじ曲がった不気味な腕。その先端にある折れた刃が、蜈丸の左手首を正確に貫いた。骨が断裂する鈍い音が響き、手首から先が、真鍮の信号弾を握りしめたまま泥濘へと転がり落ちる。引き金が引かれることはなかった。真紅の火花を散らすはずだった火薬は、酸性の黒い泥の中に沈み、静かに窒息した。
「あ、ぎゃああああああああッ!!」
手首を失った腕を抱え、蜈丸が絶叫しながら後退する。断面から鮮血が噴き出し、泥を赤く染めていく。手柄への狂信的な欲望に満ちていた彼の双眸は、一瞬にして底知れぬ恐怖へと塗り替えられた。目の前に横たわるのは、全身に泥を塗った、死神のような男。関節を外され、だらりと地面に垂れ下がった左腕を持ちながら、蓮二は泥の中からゆっくりと立ち上がった。
「化け物……! 本当に、烈風様の真空刃を喰らって生きていやがったのか……!」
蜈丸は残された右手で『双頭短剣』を狂ったように握りしめた。部下を全滅させられ、手首を切り落とされた絶望。それが、彼の脳内で狂暴な生存本能へと変換される。蜈丸の全身から、凝真境・中期の強力な「風百足真気」が爆発的に噴出した。周囲の泥濘が、彼の放つ鋭い風の刃によって細かく切り刻まれ、大気が悲鳴を上げる。
「死ね! 死ね! 一緒に泥の底へ沈めッ!」
蜈丸の双短剣が、百足の多段攻撃を模した『百足多段斬』の連撃となって蓮二を襲う。シュシュシュと空気を引き裂く風の刃の嵐。蓮二は左腕が完全に脱臼して使い物にならず、右腕は麻痺している。回避するだけの軽功の真気も、今の肉体には残されていない。
迫り来る鋭い刃の嵐を前に、蓮二の心臓が激しく脈打った。血蠱が宿主の死の危機を感知し、体内で熱毒を強制活性化させようとする。心臓が沸騰するような熱さが、壊死しかけた右腕へと逆流し、縫合部分の『経絡縫合の鋼糸』が肉を引き裂いて再出血を促す。
(ここで右腕が崩壊すれば、二度と蠍魔には届かない。ならば――凍らせろ)
蓮二は、これまでの戦闘で血蠱の奥底に微かに蓄積されていた氷系の冷気真気を、右腕の特定の経穴「氷門穴(ひょうもんあん)」に向けて強引に逆流させた。自己麻酔能力――右腕強制麻酔「氷脈封(ひょうみゃくふう)」。
ピキピキと、蓮二の右腕の皮膚が不気味に白く凍りつき始めた。縫合された傷口の生肉が凍り、滴る黒い毒血が霜となって刃の表面を覆う。右腕全体の痛覚と神経が、絶対零度の冷気によって完全に凍結され、感覚が消滅する。激痛にのたうち回っていた経絡が、死んだように静まり返った。それは肉体の一部を物理的に「死滅」させるに等しい自傷行為だったが、今の蓮二にとっては、右腕を強引に駆動するための唯一の手段だった。
感覚の消えた右腕が、凍りついた鋼のように硬く、真っ直ぐに持ち上がる。蓮二はその手で、地面に突き刺さっていた愛刀の柄を掴んだ。
血蠱の飢餓感が最高潮に達する。心臓の肉と一体化しつつある虫が、蜈丸の宿す「凝真境・中期」の純粋な真気を求めて、喉の奥から黒い触手を伸ばすかのように咆哮する。
「天毒……一閃」
凍りついた右腕から、血蠱の分泌する強酸性の腐食毒が太刀の刃へと一気に巡った。漆黒の刀身が、怪しく脈打つ紫と黒の霧に包まれ、周囲の雨粒が一瞬にして蒸発していく。蓮二は一歩を踏み込み、最速の直線軌道で太刀を振り下ろした。
蜈丸の『百足多段斬』の風刃と、蓮二の放った『天毒一閃』の腐食刃が、正面から激突した。
キィィィィン――!!
鼓膜を突き破るような高音の金属摩擦音が響いたのも束の間、次の瞬間には、蜈丸の握る『双頭短剣』の強固な鋼が、ジュウジュウと音を立てて物理的に融解し始めた。天毒の腐食毒は、敵の真気の障壁(護体真気)を容易に侵食し、その武器の分子構造すらも内側から破壊していく。百足の毒が塗られた鋭利な刃は、黒い液体の塊となって泥へと滴り落ちた。
「な、俺の剣が……融けて……!?」
蜈丸の驚愕が完成する前に、蓮二の凍りついた刃が、彼の胸元を深く切り裂いた。防具の鉄板がバターのように融け、生肉が黒く焼けただれる。蓮二は太刀を突き刺したまま、右手の掌を蜈丸の胸口に直接押し当てた。
「血蠱喰(けつこしょく)――」
蓮二の胸元の紫色の血管が、怪しく発光した。心臓の血蠱が狂暴な吸引の渦を形成し、蜈丸の経絡から、彼の生命の根源である「風百足真気」を根こそぎ引きずり出し始める。
「あああ、真気が……俺の内力が……吸い出されるッ! やめろ、離せ! 化け物、化け物めえええ!」
蜈丸は白目を剥き、全身を激しく痙攣させた。彼の頑強だった肉体は、真気と水分を同時に奪われ、みるみるうちに萎び、干からびていく。彼の経絡の中に流れていた、凝真境・中期の濃厚なエネルギーが、蓮二の右腕を通じて心臓へと流れ込んでいく。
蓮二の体内で、劇的な変化が起きた。
吸い取られた風の真気が、血蠱の熱毒と衝突し、一瞬だけ激しい吐血を誘発する。だが、その風の冷たさが、血蠱の異常な沸騰を物理的に抑え込み、体内の温度を急速に低下させていった。焦熱の地獄だった心臓が、まるで冷泉に浸されたかのように静まり返る。熱と冷気が、体内で奇跡的な「冷熱の均衡」を一時的に作り出したのだ。右腕の凍傷の進行が止まり、蓮二の呼吸が、劇的に深く、静かなものへと変わっていく。
ドサリ、と泥の上に崩れ落ちたのは、完全に干からび、骨と皮だけになった蜈丸の骸だった。彼の目は光を失い、泥の底へと静かに沈んでいく。五毒教の若き天才暗殺者は、自らの功力を全て蓮二の延命のための「餌」として捧げ、無惨な死を遂げた。
「はぁ……はぁ……」
蓮二は崩れ落ちそうになる膝を強引に支え、太刀を杖代わりにして泥の上に立った。左肩は脱臼したまま垂れ下がり、右腕は凍りついたように白い。満身創痍。だが、彼の心臓の血蠱は、これまでにない「満足」を得て、穏やかに脈打っていた。死のタイマーは、一時的に巻き戻されたのだ。
嵐の前の静寂が、再び密生林を支配する。蓮二は兄の折れた愛刀を左足の泥の中から拾い上げ、懐に収めた。復讐の旅路は、まだ始まったばかりだ。
その時だった。
蓮二の胸元の血蠱が、不意にピクリと震えた。それは「殺気」の警告ではなかった。もっと本能的な、肉体の深層に響くような奇妙な共鳴。
南蛮黒沼谷の境界線。遥か北方、中原へと続く関所の向こう側から、冷たい風が吹き込んできた。その風の中に、蓮二はこれまでに感じたことのない、極めて「清らかで、骨の髄まで凍りつくような冷たい真気」の気配を微かに感知した。
それは、五毒教の濁った毒の冷気とは根本的に異なる、天上の氷雪のような純粋な冷気だった。
蓮二の心臓の血蠱が、その冷気の気配を察知した瞬間、まるで極上の獲物を見つけた飢えた獣のように、胸の奥でドクン、と怪しく、激しく脈打ち始めた。その清らかな冷気こそが、自らの肉体を永続的に救う唯一の鍵であると、本能が告げていた。
暗黒の霧の向こう。何かが、こちらへ向けて動き出している――。
Chưa có bình luận nào. Hãy là người đầu tiên!