紫冥花の罠師
鍾乳洞の奥底から響く、鎖が岩肌を這う冷たい金属音。それは、死神の足音に他ならなかった。五毒教の追跡隊が、秘密温室のすぐ近くまで迫っている。
「……チッ、嗅覚の鋭い猟犬どもめ」
黒崎蓮二は、自らの胸に深く突き刺さった『毒骨の小刀』の柄を掴み、一気に引き抜いた。狂血穴から赤黒い毒血が吹き出すが、彼は眉一つ動かさず、泥を押し当てて止血する。自己強化禁術――経穴自突「狂血」の持続時間は、残り二分もない。このまま温室で迎え撃てば、戦闘の衝撃で独孤緑の薬草園は完全に破壊され、蓮二の命を繋ぐ唯一の外科医である彼女も巻き添えになるだろう。
「緑、ここを閉鎖しろ。奴らの狙いは俺だ。俺が外へ誘い出す」
「勝手にしなさい。ただし、私の紫冥花を無駄に散らしたら、二度とあなたの右腕を縫い直してあげないわよ」
緑は冷淡に告げ、百毒蒸留釜のバルブを操作して、温室の入り口に有毒胞子の防壁を急激に膨張させた。蓮二は彼女の言葉に背を向け、温室の裏手にある極小の排水口へと身を滑らせた。
一歩、外へ踏み出した瞬間、南蛮黒沼谷の酸性雨が蓮二の満身創痍の肉体を叩いた。縫合したばかりの右腕に、針で刺されるような激痛が走る。皮膚の下で、屍人用の『経絡縫合の鋼糸』が、裂けた肉と断裂した神経をギリギリと締め上げ、物理的に削り取っていく。蓮二は奥歯が砕けるほど噛み締め、絶叫を喉の奥で押し潰した。右腕の機能は辛うじて三割。まともに太刀を振るえば、その衝撃で金属の糸が肉を引き裂き、経絡は再び物理的に崩壊するだろう。
(右腕は使えない。狂血の反動が来れば、俺の肉体は数分間、完全に動かなくなる。ならば――戦う前に、奴らを仕留める)
蓮二が向かったのは、温室の裏手に広がる『紫冥花の密生林』だった。そこは、怪しく青紫色の光を放つ花が咲き乱れる湿地帯であり、吸い込めば常人の精神を狂わせる高濃度の幻覚香が永久に滞留する、黒沼谷で最も美しく最も危険な死の森だった。
蓮二は、かつて叔父・左近の手記から学んだ知識を頼りに、視覚を完全に遮断し、嗅覚と皮膚の感覚だけで進路を選んだ。そして、沼地の底から強酸性の泥をすくい上げ、全身にくまなく塗りたくった。自傷禁術によって沸騰する体温と、血の匂いを完全に消し去る極限の隠密術――泥流隠密「影潜」である。
泥の中に身を沈め、呼吸を極限まで遅らせる。冷たい強酸の泥が傷口を焼き、全身の皮膚がただれていくが、蓮二は心拍数すらも血蠱の支配によって制御し、完全な「死体」になりすました。その直上を、松明を持った影たちが泥を跳ね上げながら通過していく。
「おい、確実にこの辺りに逃げ込んだはずだ! 烈風様が奴の右腕を完全に破壊したと言っていたが、これだけの血痕を残して動けるはずがない!」
捜索隊を率いていたのは、全身に不気味な百足の刺青を施した若い男――蜈丸だった。彼の両手には、百足の神経毒が妖しく塗られた『双頭短剣』が握られ、泥の上を滑るように走る『滑泥軽功』によって、不整地を恐るべき速度で縦横無尽に駆け回っていた。
「蜈丸兄貴、本当にあの化け物が生きているんですか? 烈風様の真空刃を喰らって生き延びる人間なんて……」
「黙れ! 蠍魔様は奴の心臓の血蠱を何としても回収しろと仰せだ。息の根を止め、心臓を毟り取れば、俺たちが教団の幹部に這い上がれるんだよ!」
蜈丸の目は、手柄への狂信的な欲望で血走っていた。彼の周りを取り囲むのは、初気境・後期の一般教徒たち。奴らは、蓮二の右腕が完全に壊死していると確信し、完全に油断していた。
(獲物が来たな。まずは、猟犬の目を潰す)
蓮二は泥の中から、懐に隠し持っていた『百毒煙』の小瓶を取り出した。百年樹の胞子と、自身の毒血を配合した即席の煙幕。彼はそれを、吹雪のような風が吹き抜ける密生林の風上に向けて、左手で静かに放り投げた。
パリン、と微かな割れ音が響いた瞬間、周囲数十メートルが完全な暗黒の有毒胞子で覆い尽くされた。紫冥花の幻覚香と、百毒煙の赤黒い霧が混ざり合い、捜索隊の視界は一瞬にしてゼロになった。
「な、何だこの霧は!? 目が、目が焼けるように熱い!」
「落ち着け! 陣形を崩すな!」
蜈丸が怒鳴るが、幻覚香を吸い込んだ部下たちは、霧の中に自分を襲う毒虫の幻影を見て、狂ったように剣を振り回し始めた。自滅の始まりだった。
泥の中から、蓮二が音もなく這い上がった。その気配は、霧の揺らぎと同化しており、誰にも感知できない。彼は左手に、兄の形見である『黒崎真司の折れた愛刀』を逆手で握りしめていた。
背後から、パニックに陥った教徒の一人に接近する。相手が幻影に向かって叫んだ瞬間、蓮二の左手が、その喉元を電光石火の速さで横一文字に裂いた。骨が断裂する音すらも、吹き荒れる風の音にかき消される。教徒は悲鳴を上げることすらできず、噴き出す血を泥に染めながら、底なし沼へと沈んでいった。
「一人……」
蓮二は再び泥の中へと姿を消した。彼の脳裏には、かつて一族が五毒教に惨殺された夜の光景が、狂血の幻覚となって鮮明に浮かび上がっていた。だが、彼の心は氷のように冷えていた。これは復讐ではない。生き延びるための、冷徹な間引きだ。
その時、霧の奥から、低く不気味な唸り声が響いた。蓮二に懐柔され、影から付き従っていた変異毒狼『牙』が、蓮二の殺気に同調して行動を開始したのだ。牙は霧に紛れて教徒の一人の背後に飛びかかり、その強靭な腐食牙で喉笛を一噛みにして引きちぎった。激しい肉の裂ける音と、短い断末魔が響き渡る。
「おい! どこから襲われている!? 姿を見せろ、この臆病者め!」
蜈丸は、霧の中で次々と部下の気配が消えていく恐怖に、ついに冷静さを失い始めた。彼は『双頭短剣』を盲目的に振り回し、周囲の紫冥花の茎を狂ったように薙ぎ払った。風百足心法の鋭い剣気が泥を爆破し、蓮二の潜伏する至近距離まで迫る。
蓮二は「血蠱の殺気警告」の脈動を皮膚で感知し、刃の軌道を完全に先読みしていた。泥の中から一歩も動かず、首を一寸だけ傾けて剣気を紙一重で回避する。だが、その時、無理にバランスを保とうとした右腕に、強烈な負荷がかかった。皮膚の内側で鋼糸が肉を削り、縫合部分から赤黒い血がじわりと滲み出る。
「が、はっ……」
喉元まで競り上がった血の塊を、蓮二は強引に飲み下した。狂血の効果時間が、完全に切れたのだ。全身の筋肉が急激に鉛のように重くなり、強烈な虚脱感と寒気が彼を襲う。指先一つ動かすのすら、万斤の重荷を引き上げるような絶望的な疲労。右腕は激痛で完全に麻痺し、左腕の握力も半減していた。
だが、蜈丸の部下はすでに全滅していた。残されたのは、恐怖で完全に狂気に陥った蜈丸一人。
蜈丸は、泥の上に散らばる部下たちの冷たい骸と、暗闇から自分を見つめる無数の「赤い狼の目」に包囲されていることに気づき、ガチガチと奥歯を鳴らした。この霧の中に、目に見えない死神が潜んでいる。
「蠍魔様の言う通りだ……奴は、死んでなんかいない。烈風様の目を盗んで、沼底から這い上がってきた化け物だ……!」
蜈丸は、自身の『双頭短剣』ではこの見えない恐怖に対抗できないと直感した。彼は狂ったように叫びながら、血塗られた左手を自らの衣服の内側へと突っ込んだ。その指先が掴み出したのは、真鍮で作られた一本の筒状の暗器――谷全体に侵入者の位置を知らせる、教団の『緊急連絡用の信号弾』だった。
それを使わせれば、数分以内に蠍魔の本隊と、あの右腕を破壊した烈風がこの森を包囲する。そうなれば、現在の動けない肉体では、確実に骨まで融かされて死ぬだろう。
泥の中で、蓮二の血蠱が、かつてない激しい警告の鼓動を心臓に刻みつけた。残された時間は、わずか数呼吸しかなかった。
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