裂かれた右腕、泥底の仮死
闇夜を引き裂く凄まじい風切り音が、耳を劈(つんざ)く。南蛮黒沼谷の最深部、猛毒の霧が立ち込める泥濘(でいねい)のただ中で、黒崎蓮二は自らの終焉を予感していた。
背後から迫る真空の風刃。それはかつて、蓮二が所属していた邪派「五毒教」の精鋭であり、風刃脚の達人である「烈風(れっぷう)」の放った一撃に他ならなかった。かつて蓮二の右腕を急襲し、その主経絡をズタズタに切り裂いた宿敵の技が、再び同じ標的を狙って飛来したのだ。
「――ッ!」
蓮二は回避しようと地を蹴ろうとした。しかし、肉体が言うことを聞かない。先ほど蜈丸(むかでまる)から強奪した「凝真境」の濃厚な地属性真気が、蓮二自身の体内に流れる濁った毒真気と激しく衝突し、全身の経絡を内側から麻痺させていたのだ。不純な真気の激突は、内臓を沸騰させるような焦熱をもたらし、蓮二の口から赤黒い血がどっと噴き出した。
「遅い、遅すぎるぞ蓮二! その腐りかけた右腕、今度こそ完全に根元から切り落としてやる!」
霧を切り裂いて現れた烈風が、狂気的な笑みを浮かべながら宙を舞う。彼の足元に仕込まれた真空の刃靴が、周囲の猛毒の霧を渦巻かせ、さらに鋭い風の刃を形成していく。烈風の境界は「凝真境・極峰(ぎょうしんきょう・ごくほう)」。満身創痍の蓮二とは、天と地ほどの武力の差があった。
蓮二は左手で衰弱した蜈丸の首を掴んだまま、右手で『黒崎真司の折れた愛刀』を強引に構えようとした。しかし、右腕に内力を巡らせようとした瞬間、かつて烈風に破壊され、辛うじて繋がっていた主経絡が、物理的な限界を迎えて激しく軋んだ。
ギチ、ギチリ……!
骨が軋み、肉の繊維が引きちぎれる凄惨な音が、蓮二の右腕の内部から響き渡る。断裂しかけていた経絡に、暴走する真気の圧力が直接かかったのだ。激しい痛みに右手の握力が完全に消失し、折れた愛刀が泥濘の中へと滑り落ちていく。
そこへ、烈風の放った目に見えない真空の風刃が、無慈悲に直撃した。
肉が裂け、黒ずんだ血が四方に飛び散る。風刃は蓮二の右腕の肉を深く抉り、その奥に眠る主経絡を物理的に完全に切断した。これこそが、武芸者としての死を意味する「右腕経絡断裂限界(うわんけいらくだんれつげんかい)」だった。右腕は一瞬にして生気を失って黒ずみ、だらりと垂れ下がった。二度と剣を握ることも、真気を巡らせることも不可能な、完全な壊死状態。
「が、はっ……!」
激痛のあまり、蓮二の視界が真っ白に染まる。さらに最悪なことに、肉体の崩壊と激痛を感知した心臓の「血蠱(けつこ)」が、宿主の死を恐れて狂暴な熱毒を噴出させ始めた。心臓が破裂せんばかりにドクンドクンと脈打ち、全身の血管が紫色に浮き上がる。熱暴走の焦熱が蓮二の脳を焼き、狂気へと引きずり込もうとする。
その瞬間、蓮二の胸元で、パキリと乾いた硬い音が響いた。
亡き従妹・莉奈の形見である「莉奈の熱毒吸着翡翠」が、血蠱の放つ異常な熱毒を吸いきれず、その美しい緑色の表面に深く、残酷な亀裂を刻み込んだのだ。ひび割れはみるみるうちに広がり、翡翠は崩壊の一歩手前まで劣化していた。もう、この命綱は持たない。
右腕は完全に崩壊。真気は暴走。目の前には凝真境極峰の宿敵。正面から戦えば、一秒後には首を撥ねられて泥の塵と消えるだろう。小太(こた)は巨木の根元に隠したままだが、自分が死ねばあの少年も生きては帰れない。
(ここまで、か……いや、まだだ。俺は、あの男(御堂邪仙)に復讐を果たすまでは、泥水を啜ってでも生き延びる……!)
絶望の深淵にあっても、蓮二の冷徹なサバイバル本能は死に物狂いで生存の確率を計算していた。勝つことは不可能。逃げることも不可能。ならば、残された唯一の選択肢は――「確実に死んだ」と敵に誤認させることだけだった。
蓮二は左手で掴んでいた蜈丸の身体を突き放し、同時に自らの襟元に隠していた黒い丸薬――独孤緑が調合した極限の保命薬『偽死用の薬殻(カプセル)』を、残された左手で強引に口の中へねじ込み、奥歯で噛み砕いた。
冷たく、苦い薬液が喉を伝って胃へと流れ落ちる。それと同時に、蓮二は脳裏に独孤博の手記に記されていた「臓器休眠」の図を思い描き、自身の喉と心臓の経絡を一時的に真気で完全封鎖する禁術『偽死の法(ぎしのほう)』を起動した。
ドクン……。
蓮二の心臓が、最後の一撃を重く刻み、完全に停止した。肺の呼吸が止まり、全身の血液循環が瞬時に凍結する。体温は氷点下へと急降下し、顔面からは血の気が引いて蒼白な「死体」へと変貌していく。心臓の血蠱もまた、薬液の強力な麻痺効果によって強制的な休眠状態へと追い込まれ、その脈動を完全に停止させた。
それは、医学的にも武芸的にも、完全な「死」だった。生命の波動も、内力の気配も、一切が消失した「偽死仮死状態(ぎしかしじょうたい)」の肉体が、力なく後ろへと倒れ込む。
ズブズブと、底なし沼の強酸性の泥が、冷たくなった蓮二の肉体をゆっくりと呑み込んでいく。衣服が泥に塗れ、黒い沼水が彼の顔を覆っていく。
烈風がゆっくりと泥濘の淵まで歩み寄り、冷酷な双眸で蓮二が沈んでいく様子を見下ろした。彼は指先から風の真気を放ち、泥の底を探ったが、そこからは一切の心音も、真気の揺らぎも感知できなかった。ただの、冷たくなりゆく肉塊の気配があるのみだった。
「ふん、死んだか。蜈丸の真気を吸い取った化け物かと思ったが、所詮は右腕を失った廃棄物。呆気ないものだな」
烈風は忌々しげに唾を吐き捨てると、蓮二の生存を蠍魔に報告するため、その場から「風神軽功」を使って一瞬で霧の向こうへと去っていった。
嵐の風が激しく吹き荒れる中、静寂が泥濘を支配する。心音も呼吸も完全に消えた蓮二の肉体は、底なし沼のさらに深く、暗黒の深淵へと沈み続けていた。泥の圧力が全身を締め付ける中、沼の底に隠された大地の亀裂――「地下鍾乳洞の隠れ道」の激流が、冷たくなった彼の肉体を容赦なく吸い込み、暗闇の奥深くへと流し去っていった。
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