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支配の劇薬と飢えた牙

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泥濘の底、強酸性の泥が皮膚をじりじりと焼き焦がす地獄の中で、黒崎蓮二の時間は凝縮されていた。


 直上、わずか三歩の距離。五毒教の巡回兵である三吉の、泥まみれのブーツがぬかるみを踏みしめる。その横で、嗅覚を麻痺させられたはずの変異毒狼「牙」が、野生の直感のままに蓮二の潜伏する泥の影を睨みつけ、喉を鳴らしていた。


 グルルル……。


 牙の裂けた顎から、粘り気のある毒涎が滴り落ち、蓮二のすぐ目の前の泥をジュウと音を立てて融解させる。牙が咆哮を上げ、三吉が槍を突き刺そうとする――その刹那、蓮二の胸中で血蠱が爆発的な殺気警告を告げた。脳裏を貫く白熱の激痛と同時に、蓮二の肉体はすでに泥の底から弾け飛んでいた。


「――ッ!?」


 水飛沫と酸性の泥が闇夜に炸裂する。泥の中から突如として現れた黒い影に、三吉は悲鳴を上げることすらできなかった。蓮二は「骨関節着脱「蛇身」」の応用により、右肩の関節を物理的に外して腕のリーチを強引に伸ばし、泥から這い出た勢いのままに、三吉の喉元を左手で鷲掴みにした。


 グシャリ、と湿った肉の音が響く。蓮二の指先が三吉の気管を正確に圧迫し、その叫び声を肺の奥へ押し戻す。三吉の目が恐怖に丸くなり、手にした槍が泥濘へと滑り落ちた。その横で、嗅覚の狂った牙が蓮二の放つ強烈な「黒崎一族」の毒血の匂いに怯み、一瞬だけ動きを止める。


 その一瞬で十分だった。蓮二は懐から、紫冥花の残り滓を混ぜて自作した、不気味な赤黒い丸薬を取り出した。独孤博の遺した処方箋を基に精製したマインドコントロール用の劇薬――『三途丸(さんずがん)』である。


「生き残りたければ、これを呑め」


 蓮二の凍りついた声が、三吉の耳元で囁かれる。喉を締め上げられた三吉が必死に拒絶しようと口を開けた瞬間、蓮二はその顎を強引にこじ開け、指先で三途丸を喉の奥へとねじ込んだ。強制的に丸薬を嚥下させられた三吉は、泥の上にへたり込み、激しく咳き込みながら自らの喉を掻きむしった。


「ごほっ、ごほっ! あ、お前……何を、何を呑ませた……!」

「三途丸だ」


 蓮二は冷酷な眼差しで見下ろし、右手の火傷の痛みを押し殺しながら告げた。


「五毒教の医術でも解毒できん劇薬だ。これから三日ごとに、俺の持つ解毒剤を服用しなければ、お前の内臓は内側から融解し、生きたまま泥の塊に変わる。死にたくなければ、教団の哨戒スケジュールを偽装し、俺の捜索ルートに空白を作れ」


 三吉の顔から血の気が完全に引き、土気色に変わった。自らの心臓の鼓動が、すでに微かな毒素の結晶によって蝕まれ始めている感覚を、彼は本能的に察知していた。もはや裏切りは死を意味する。三吉は絶望に濡れた目で蓮二を見上げ、小さく首を縦に振るしかなかった。


 だが、安堵の時間は一瞬すら与えられなかった。湿った霧の奥から、無数の細い影が泥の上を滑るようにして、高速で接近してくる不気味な音が響いたのだ。シャリシャリと、何百本もの足が泥を引っ掻くような、耳障りな不協和音。


「――見つけたぞ、裏切り者の残党め。三吉の奴、やはり妙な動きをしていたな」


 霧を切り裂いて現れたのは、全身に百足の模様の刺青を施した異様な若い男――蠍魔の直系弟子にして、若き天才と恐れられる『蜈丸(むかでまる)』だった。その両手には、百足の神経毒が塗られた不気味な双頭短剣『双頭短剣』が握られている。


「蜈丸……!」


 三吉が恐怖に悲鳴を上げた。蜈丸は凝真境・初期の強者であり、泥の上を滑るように走る『滑泥軽功』によって、不整地であるはずの黒沼谷を音速に近い速度で移動する。蓮二の負傷した太ももとただれた右手では、その機動力に対抗することは絶望的だった。


「蠍魔様への手柄、俺が一人でいただく!」


 蜈丸の身体がブレた。次の瞬間には、彼の姿は蓮二の眼前へと迫っていた。双短剣が放つ『百足多段斬』の連撃が、吹雪のような鋭さで蓮二の全身を襲う。シュシュシュと空気を引き裂く冷たい刃の嵐が、蓮二の衣服をズタズタに切り裂き、その肉肌に浅からぬ傷を刻んでいく。


 蓮二は咄嗟に、懐から『黒崎真司の折れた愛刀』を左手で逆手に引き抜き、最小限の軌道で急所を守る防御の構えを取った。キィィン、と高い金属音が連続して響き渡り、激しい火花が闇夜に散る。しかし、蜈丸の速度は蓮二の予測を超えていた。


「遅い、遅すぎるぞ! その鈍重な動きで、よくも蠍魔様から逃げ回れたものだ!」


 蜈丸の嘲笑と共に、短剣の刃が蓮二の右肩を深く切り裂いた。赤黒い毒血が吹き出し、泥濘を汚す。太ももの刺傷による出血と、右手の化学火傷による握力の低下が、蓮二の回避速度を致命的に遅らせていた。さらに最悪なことに、心臓の血蠱が敵の「凝真境」の濃厚な真気を感じ取り、狂暴な飢餓感を爆発させたのだ。


(くっ……心臓が、引きちぎれる……!)


 ドクンドクンと、血蠱が蓮二の心壁を激しく叩き、血管の奥深くまで熱毒を噴出させる。視界が真っ赤に染まり、全身の経絡が内側から沸騰するような劇痛が走る。他人の真気を吸い上げなければ、血蠱が暴走して自らの肉体を内側から融解させる。生存タイマーの砂時計が、凄まじい速度で落ちていく。


 正面から速度で競えば、数呼吸以内に首を撥ねられる。ならば、取るべき戦術は一つしかなかった。


 蓮二はあえて防御の手を緩め、自身の左肩を蜈丸の短剣の軌道へと差し出した。肉の盾を晒す、狂気的な誘い水。


「死ね!」


 蜈丸の短剣が、蓮二の左肩に深く突き刺さる。骨に達する激痛が走るが、蓮二は眉一つ動かさず、むしろ不敵な笑みを浮かべた。短剣が肉に深く食い込んだその瞬間、蜈丸の肉体は物理的に固定され、その自慢の超速度は完全に封じられたのだ。


「――捕まえたぞ」


 蓮二の左手が、電光石火の速さで蜈丸の首根っこを鷲掴みにした。皮膚と皮膚が直接接触する。その瞬間、蓮二は胸の奥底に眠る血蠱の飢餓感を一気に解放した。


「真気強奪「血蠱喰(けつこしょく)」――!」


 その瞬間、凄惨極まりない光景が闇夜に現出した。


 蓮二の左手の掌から、脈打つ怪しい紫色の触手が、まるで生き物のように皮膚を突き破って這い出た。触手は蜈丸の首の皮膚を強引に突き破り、彼の経絡の末端へと直接喰らいついた。蜈丸の目が、一瞬にして恐怖と絶望に染まる。


「な、何だこれは……俺の、俺の真気が……逆流して……ひ、引き抜かれるッ!?」


 蜈丸は絶叫しようとしたが、喉から出たのはかすれた喘ぎ声だけだった。血蠱喰の牙は、蜈丸が修練によって練り上げた凝真境の純粋な地属性真気を、根こそぎ心臓へと吸い上げ始めた。蜈丸の全身の血管が怪しく脈打ち、その張りのあった肉体が、まるで果実が萎びていくように急速に水分と生命力を失っていく。


 しかし、強奪の代償は蓮二自身の肉体にも等価交換の地獄をもたらした。蜈丸の不純な地属性真気が、蓮二の体内の毒属性真気と激しく衝突し、経絡の内部で激しい爆発を引き起こしたのだ。


「がはっ……!」


 蓮二の口から、沸騰した黒い血が大量に噴き出した。内臓が内側から焼けただれ、全身の血管が破裂しそうなほどの激痛が襲う。他人の力を喰らうということは、自らの肉体を破壊するリスクと常に隣り合わせだった。だが、蓮二は左手の力を決して緩めず、血蠱に蜈丸の命を喰らわせ続けた。


 蜈丸の身体が完全に力を失い、泥の上へと崩れ落ちようとしたその瞬間――。


 背後の紫霧が、不自然なほどの冷気と共につむじ風を巻いて引き裂かれた。蓮二の「殺気警告」が、心臓を直接鷲掴みにするような致命的な激痛となって脳裏に警報を鳴らす。


 ヒュオオオッ!


 霧の向こうから、大気そのものを切り裂くような、目に見えない真空の風刃が、超高速で飛来した。その狙いは、かつて破壊され、未だに応急処置しか施されていない蓮二の「右腕」そのものだった。

HẾT CHƯƠNG

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