霧に潜む猟犬
どろりとした酸性の泥雨が、黒沼谷の夜を容赦なく叩いていた。
「が、はっ……」
黒崎蓮二は、切り立った断崖の陰で泥濘に片膝を突き、激しく黒い血を吐き出した。懐に収めた『紫冥花』が、衣服の隙間から妖しく青紫色の光を放っている。だが、その代償はあまりにも大きかった。幻覚香を打ち破るために「毒骨の小刀」で自ら突き刺した太ももの傷口からは、未だにどくどくと熱い血が流れ落ち、泥を黒く染めている。さらに、断崖を登る際に酸性の泥に触れた右手の皮膚は、軽度の化学火傷を起こして赤黒くただれ、抜刀するための握力を無残に奪い去っていた。
胸元では、亡き従妹の形見である「莉奈の熱毒吸着翡翠」が、体内の血蠱が放つ異常な熱を吸い吸い、悲鳴を上げるように新たなひび割れを走らせている。翡翠の緑色は徐々に濁り、冷気による緩和も限界に近づきつつあった。
「おい、化け物……本当にあいつらが来るぞ。オイラ、もう逃げられないよ……!」
蓮二の影に隠れるようにして、泥まみれの少年・小太が歯をガタガタと震わせながら囁いた。少年の目は、自らの太ももを躊躇なく突き刺した蓮二の狂気に対する、底知れぬ恐怖に支配されている。蓮二は小太の首根っこを左手で掴み、冷酷な視線を向けた。
「黙れ。声を立てれば、お前を囮として泥沼に放り込む」
その声に慈悲は一切なかった。小太は恐怖で息を呑み、泥の中に身を縮めて完全に沈黙した。蓮二にとって、小太はただの「使い捨ての案内人」に過ぎない。この地獄で生き延びるためには、良心などという生温かい感情は、真っ先に切り捨てるべき毒だった。
頭上から、松明の赤い光が紫色の濃霧を透かして近づいてくる。湿った泥を踏みしめる複数の足音。そして、獣特有の低い唸り声が、沼地の湿気を含んだ空気を震わせた。
「お、おい、本当にこっちに逃げたのか? 蠍魔(かつま)の旦那に嘘の報告をしたら、俺たちの首が飛ぶんだぞ!」
聞こえてきたのは、五毒教の低級警備兵「三吉」の、怯えを含んだ甲高い声だった。彼は蠍魔の命令によって敷かれた「黒沼谷大包囲網」の末端に過ぎない。武芸境界は「初気境・後期」。蓮二が万全であれば一撃で屠れる雑魚だが、今の満身創痍の肉体では、その背後に控える数人の衛兵すら致命的な脅威となる。
だが、三吉以上に厄介なのは、彼が太い鉄鎖で繋いでいる青黒い影だった。
「ガルルルル……!」
体毛が抜け落ち、皮膚が毒素で青黒く変色した巨大な変異毒狼――「牙(きば)」。五毒教が放った最悪の猟犬だった。牙の怪しく赤く光る双眸が、霧の奥を見据えている。その鋭い嗅覚が、蓮二の傷口から漂う黒崎一族特有の、わずかに甘い毒血の匂いを正確に捉えていた。
(チッ……あの犬め。一族の血の匂いを嗅ぎつけているな)
蓮二の脳裏に、冷徹な生存の計算が火花を散らす。まともに走って逃げることは、太ももの負傷によって不可能。ならば、残された手段は一つしかない。敵の追跡を欺き、あの臆病な指揮官である三吉を孤立させて支配下に置く。
「小太、あの朽ち果てた巨木の根元の空洞に隠れろ。息を止め、泥を全身に塗っておけ。動けば殺す」
蓮二は小太を泥濘の隙間へと押し込み、自身は行動を開始した。
まず、牙の嗅覚を物理的に破壊しなければならない。蓮二は右手のただれた指先を動かし、懐から先ほど採取した『紫冥花』の茎と、指先に付着していた花の残り滓を毟り取った。そして、自らの太ももから溢れ出る血にその薬草の残渣を混ぜ合わせ、周囲の泥濘に素早く散布した。紫冥花の放つ強烈な幻覚香と薬草の刺激は、野生獣の嗅覚にとって致死的な感覚麻痺を引き起こす毒となる。
「グルルっ……ハックシュン!」
案の定、匂いを追って近づいてきた牙が、泥に混ざった紫冥花の刺激臭を鼻腔に吸い込み、激しく頭を振って後退した。一時的に嗅覚が麻痺し、追跡の糸口を失ったのだ。
「おい、どうした牙! 獲物はどこだ!?」
三吉が慌てて鉄鎖を引くが、牙は混乱して泥の上を堂々巡りするばかりだった。その隙に、蓮二は「泥上軽功(でいじょうけいこう)」を起動した。足裏から極薄の真気の膜を放出し、底なし沼の表面を沈むことなく滑走する。しかし、急激な内力の行使は、熱毒に侵された右腕の経絡に強烈な反動をもたらした。
「ぐっ……!」
右腕の主経絡が物理的に軋み、激しい痛みが走る。刀を握る右手の握力が一時的に半減し、冷や汗が全身から噴き出した。これ以上の軽功の使用は、右腕の完全な破壊を招く。
蓮二は滑走を止め、沼の最も深い泥濘へと自らの身体を沈めた。全身に強酸性の泥を頭から塗りたくり、体温と生命波動を完全に消し去る暗殺技術――「泥流隠密(でいりゅうおんみつ)」である。
じりじりと皮膚が酸性の泥でただれ、焼けるような痛みが全身を襲う。だが、蓮二は奥歯を噛み締め、呼吸を極限まで遅らせる「枯木逢春呼吸法」を併用して、泥の底で完全に同化した。泥の冷気が、翡翠の限界を超えて暴走しかけていた血蠱の熱を一時的に奪っていく。
「おい、そっちを探せ! 泥の中に隠れているかもしれんぞ!」
三吉が怯えを隠すように大声を張り上げ、松明を振り回しながら、蓮二が潜む沼の境界へと一歩一歩近づいてきた。彼の持つ槍の先が、無造作に泥濘を突き刺していく。
ザシュ、ザシュ、と泥を穿つ鈍い音が、泥中にいる蓮二の耳に響く。牙は嗅覚を失いながらも、野生の直感で蓮二の潜伏する泥の影を見つめ、低い唸り声を上げながらじりじりと距離を詰めていた。
三吉のブーツが、蓮二の頭上からわずか三歩の距離で泥を跳ね上げる。彼が持つ槍の刃先が、蓮二が潜む泥の表面へと向けられた。
その瞬間――
ドクン!
蓮二の心臓に宿る血蠱が、かつてない激しさで脈打った。胸元の紫色の血管が泥の下で一瞬、怪しく明滅する。脳裏に、突き刺さるような鋭い白熱の激痛が走った。
血蠱の超感覚――「殺気警告(さっきけいこく)」だった。
泥の上に立つ三吉の臆病な殺意と、牙がまさに蓮二の影に向かって吠えかかり、牙を剥こうとするその刹那の「死線」が、蓮二の脳裏に赤黒い光の軌道となって克明に描写された。
(来る――!)
泥底の暗黒の中で、蓮二の鋭い瞳がカッと見開かれた。右手のただれた痛みを無視し、泥に埋もれた刀の柄へと冷酷に指を絡める。反撃の牙は、すでに泥の下で研ぎ澄まされていた。
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