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泥濘の等価交換

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「取引をしましょう」


 独孤緑(どくこりょく)の声は、湿った廃薬庵の空気を凍らせるほどに冷ややかだった。彼女の手にある青い薬瓶の奥で、淡い青色の液体が揺れている。それが、激痛にのたうち回る蓮二の心臓を救う、唯一の命綱だった。


 蓮二は石床に倒れ伏したまま、荒い呼吸を繰り返した。胸元の経穴「狂血穴(きょうけつあん)」には、未だ従兄・右京の遺骨から削り出した「毒骨の小刀(どくこつのこづか)」が突き刺さったままだ。骨の刺激と染み込んだ麻痺毒によって、血蠱(けつこ)の狂暴な脈動はかろうじて抑え込まれているが、それも長くは持たない。右腕の経絡は沸騰するような熱毒に侵され、じわじわと壊死の恐怖が爪先から這い上がってきていた。


「……条件を、言え」


 蓮二は、狂血穴から小刀を濡れた音と共に引き抜きながら、掠れた声で応じた。傷口からどろりとした黒い血が滴り、床の泥に混ざり合う。激痛が脳を焼き焦がそうとするが、奥歯を噛み締めて意識の輪郭を繋ぎ止める。緑はそんな蓮二の惨状を、同情の欠片もない灰色の双眸で見下ろしていた。


「これは試供品よ」


 緑は薬瓶の栓を抜き、蓮二の唇に向けて一滴だけ液体を落とした。舌に触れた瞬間、氷の針を突き刺されたような冷徹な寒気が食道を駆け下り、心臓へと到達した。沸騰していた血蠱が、その冷気に怯えるように一瞬で縮こまり、心臓を内側から貪り食う牙を収める。のたうち回るような激痛が、嘘のように引いていく。


「……はっ、あ……」


 蓮二は大きく息を吐き出し、胸を押さえた。だが、緑はすぐに薬瓶を懐へと仕舞い込んだ。


「今の一滴で、あなたの心臓の破裂は三日間だけ遅らせられる。本物が欲しければ、黒沼谷(こくしょうこく)の最深部、断崖の隙間にのみ自生する『紫冥花(しめいか)』を根こそぎ採取してきなさい。あれは、父が遺した血蠱の安定剤を精製するための、最も重要な触媒なの」


 友情も温もりもない、徹底した実利の取引。緑にとって、蓮二は父の実験を完成させるための「生きた被験体」であり、都合の良い薬草採取の道具に過ぎない。そして蓮二にとっても、緑は生存に必要な薬液を供給する「取引相手」でしかなかった。互いの利害が完全に一致しているからこそ、この暗黒の沼底で最も信頼できる関係が成立していた。


「いいだろう……。紫冥花を、持って戻ればいいのだな」

「ええ。ただし、あの場所は五毒教の哨戒範囲のすぐ近く。そして、花が放つ青紫の霧は、常人の精神を狂わせる幻覚香を含んでいるわ。死なずに戻ってこられたら、次の三日間の命をあげる」


 蓮二は立ち上がり、ボロボロの衣服を整えた。胸元の衣服の内側には、亡き実母・千代の形見である「千代の解毒簪(かんざし)」と、亡き従妹・莉奈の形見である「莉奈の熱毒吸着翡翠」が静かに肌に触れていた。翡翠は、血蠱が放つ異常な熱毒を物理的に吸収し、蓮二の精神をかろうじて安定させている。だが、すでにその表面には微細なひび割れが走り始めていた。


 最深部へのルートを確保するため、蓮二は廃薬庵を出て、黒沼谷の外縁にある流民の吹き溜まりへと向かった。紫冥花が自生する険しい崖の隙間へ至るには、沼地の泥濘(でいねい)を熟知する案内人が不可欠だった。


 泥の雨が降り注ぐ湿地帯の陰で、蓮二は一人の少年の首根っこを掴み上げた。麻袋を粗末に切り裂いた衣服を纏い、全身に泥を塗りたくった痩せた少年。名は小太(こた)。この沼地で泥虫や薬草を拾って生き延びている、野良犬のような目をした孤児だった。


「ひっ……!」


 小太は蓮二の放つ、血と毒の混ざり合った圧倒的な殺気に全身を震わせた。蓮二の右手には、冷たく研ぎ澄まされた毒骨の小刀が握られ、少年の喉元からわずか一分の距離で静止している。小太の境界は「初気境・初期(しょききょう・しょき)」に過ぎず、蓮二がその気になれば、一瞬で喉笛を掻き切ることができた。


「お前が小太か。紫冥花が咲く断崖への隠しルートを知っているな」


 蓮二の声には、一切の感情が排除されていた。優しく接するつもりなど毛頭ない。この沼地では、同情は死を意味する。


「な、何言ってるんだよ! あそこは五毒教の旦那たちの縄張りだ! 近づけば生きたまま毒虫の餌にされる!」

「案内しろ。拒絶すれば、今この場でその喉を裂く」


 蓮二は小刀の刃先を、小太の皮膚にわずかに押し当てた。一筋の赤い血が泥にまみれた少年の首を伝う。小太の瞳に、本物の「死の恐怖」が宿るのを見届けた後、蓮二は懐から硬く冷たい干し肉の塊を取り出し、少年の目の前に放り投げた。


「正しく導けば、この肉はお前のものだ。そして、道中でお前を五毒教の手から守ってやる。だが、一度でも裏切る素振りを見せれば、お前の家族がどうなるか、分かっているな」


 小太は喉を鳴らし、地面の干し肉を素早く拾い上げて懐に隠した。蓮二に対する強い不信感と恐怖を抱きながらも、生き延びるための実利には抗えない。それが、この黒沼谷の絶対的なルールだった。


「……分かったよ。ついてきな。ただし、底なし沼に落ちても、オイラは助けないからな」


 小太は泥の上を滑るように走り出した。蓮二は「毒血同化の呼吸法」を極限まで稼働させ、肺に流れ込む致死性の胞子ガスを無害なエネルギーへと強引に変換しながら、少年の足跡を追った。呼吸のたびに肺の奥が焼けるように熱くなるが、莉奈の翡翠が胸元で怪しく緑色に光り、その熱毒を和らげていた。


 数刻の潜行の後、二人は黒沼谷の最深部、日当たりの全くない湿地帯の断崖へと到達した。切り立った崖の隙間に、青紫色の怪しい光を放つ花が咲き乱れている。それこそが、血蠱を眠らせる特級薬草――紫冥花だった。


 だが、その周囲には、視界を完全に遮るほどの濃密な青紫の霧が立ち込めていた。


「おい、あれが紫冥花だ。だけど、あの霧をまともに吸い込んだら、頭がおかしくなって自分で崖から飛び降りることになるぞ!」


 小太が崖の下の泥陰に身を潜めながら、警告の声を上げた。少年の目は、蓮二が本当にあの死地へ飛び込むのかを値踏みするように見つめている。


 蓮二は返事をしなかった。胸元に手を当て、莉奈の翡翠を皮膚に直接押し当てる。血蠱が花の香気に反応し、心臓の奥で「飢え」を訴えて激しく蠢き始めていた。体温が急激に上昇し、全身の皮膚が赤黒く染まり始める。


「ここで、立ち止まるわけにはいかない」


 蓮二は「毒血同化の呼吸法」の真気循環を一時的に逆流させ、自らの鼓膜を内力で物理的に圧迫した。外部の音を完全に遮断し、五感のうち「視覚」をも捨て去る。ただ、心臓の血蠱が発する微細な警告音(脈動)と、皮膚に触れる風圧の揺らぎだけを頼りに、崖の細い足場へと一歩を踏み出した。


 青紫の霧が蓮二を包み込む。強烈な甘い香りが、防毒面を透過して肺腑へと侵入した。


 その瞬間、暗黒の視界の向こうに、幻影が浮かび上がった。


「お兄ちゃん……どうして私を置いていったの?」


 霧の奥から、全身が毒虫に喰い破られ、血塗られた姿となった妹・小春の幻影が手を伸ばしてきた。その小さな手が、蓮二の首を絞め、崖の底へと引きずり落とそうとする。


「小春……」


 蓮二の心が、激しく揺らいだ。一歩を踏み外せば、そこは底なしの強酸泥が沸騰する奈落だ。足裏の泥上軽功の真気膜が乱れ、身体が大きく傾く。


「くっ、あああああ!」


 蓮二は咆哮した。彼は懐から「毒骨の小刀」をむしり取ると、自身の太ももに向けて、躊躇なく深く突き刺した。


 肉を裂き、骨に達する凄まじい白熱の激痛が全身を駆け巡る。一族の無念と、自傷の痛みが、脳裏にへばりついていた小春の幻影を一瞬で粉々に打ち砕いた。視界が晴れ、冷酷な現実の輪郭が戻ってくる。


「俺は……あの男の首を獲るまでは、幻影などに殺されはしない!」


 蓮二は太ももから小刀を引き抜き、血を滴らせながら、崖の隙間へと手を伸ばした。強酸性の泥に覆われた岩を掴んだ瞬間、ジュウジュウと音を立てて右手の皮膚が融解し、激しい痛みが走る。採取用のナイフが一本、酸で腐食して崖下へと落下していったが、蓮二は構わず素手で紫冥花の茎を掴み取り、根こそぎ引き抜いた。


 手に入れた。青紫に光る、冷たい花の感触。


 だが、蓮二がその花を懐に収め、辛うじて崖の下へと降り立ったまさにその瞬間――


 ザッ、ザッ、ザッ……。


 湿った泥を踏みしめる、複数の不気味な足音が、霧の奥から確実に近づいてきた。五毒教の「哨戒隊」だった。その冷酷な気配が、退路を完全に塞ぐようにして、二人の頭上へと迫りつつあった。

HẾT CHƯƠNG

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