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冥府からの呼び声

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玄武岩の岩肌を穿った無銘の工房に、鉄を叩く重苦しい金属音が響き渡っていた。隻腕の鍛冶師が無心に振るう槌が、炉の赤黒い熱気の中で火花を散らす。作業台の上では、黒沼泥金を焼き付けられた『赤錬太刀』が、不気味な鈍い光を放ちながら修復の時を待っていた。だが、その刃が完全に蘇るまでには、まだ一刻の猶予が必要だった。


「十人ずつ、泥に沈めていくそうだ……」


 床に膝をついた頑太の震える声が、激しい雨音に掻き消されそうになりながらも、蓮二の耳腔を冷酷に刺した。蠍魔が流民街に踏み込み、無関係な人々を人質に取って蓮二をおびき出そうとしている。教団の非道極まる罠。まともに正面から突入すれば、待ち受ける蠍魔の本隊と、人質を盾にした泥沼の包囲戦に引きずり込まれるのは明白だった。右腕の経絡を破壊され、白姫の冷気唾液で強引に固定しているだけの現在の肉体では、それは確実な死を意味している。


「蓮二、どうするの……?」


 傍らに立つ独孤緑の瞳に、昏い影が揺れていた。彼女とて、蓮二が人道的な正義感で動く男ではないと知っている。だが、流民街の長老たちが口を割れば、この無銘の工房も遠からず特定されるだろう。


「流民どもの命など、俺の復讐のチェス盤においてはただの端端に過ぎん」


 蓮二は冷たく吐き捨て、懐から『黒崎真司の折れた愛刀』を左手で引き抜いた。半分から先が失われた錆びついた鉄塊。今の彼に許された唯一の物理的な牙。


「だが、蠍魔がそこまで焦っているのなら、その油断を利用してやる。奴の本隊を流民街から引き剥がし、戦力を分断する。頑太、お前は緑と共に地下の鍾乳洞を通って退避しろ。俺は奴らの注意を別の場所へ引きつける」


 蓮二が選択した目的地は、流民街とは真逆の方向、沼地の外縁に位置する『朽ち果てた墓所』だった。そこは、五毒教の実験体として使い潰され、惨殺された黒崎一族の遺骸がゴミのように投げ捨てられた荒れ地。足場が悪く、底なし沼が複雑に入り組んだその場所こそ、少数の敵を各個撃破するための最良の狩り場だった。何より、蠍魔は蓮二が一族の遺品や因縁に縛られていると誤認している。そこに逃げ込んだと知れば、必ず目の色を変えて追ってくるはずだった。


 嵐の吹き荒れる深夜。蓮二は泥上軽功を使い、足裏に極薄の真気膜を張りながら、音もなく降りしきる雨の中を滑走した。右腕は凍りついたように白く、指先一つ動かすだけで、皮膚の内側に縫い合わされた『経絡縫合の鋼糸』が肉と神経を削る激痛を訴えてくる。喀血した黒い毒血が雨水に薄まりながら泥に沈んでいく。肉体の限界は疾うに超えていた。


 やがて、不気味な静寂が支配する『朽ち果てた墓所』へとたどり着いた。倒れ伏した無数の黒い墓石、泥に半ば埋もれた朽ち木。ここは一族の怨念が渦巻く奈落の底だった。


 その時、頭上の暗雲を切り裂くようにして、一羽の黒い鳥が低空を滑り降りてきた。鳥の脚に結ばれた細い筒から、掠れた声が響く。沼地の情報屋『隻眼の梟』からの緊急警告だった。


「――蓮二、逃げろ! 蠍魔だけではない。五毒教の右護法『鬼骸』が動き出した。奴が使役する『鬼骸の屍人傀儡軍』が、すでにお前の背後を包囲している。奴らは痛みを感じず、呼吸もせん。沼の泥を這って、お前の血の匂いを追っている!」


 警告と同時に、墓所の周囲から異様な気配が立ち上った。ぬらぬらとした緑黒色の霧――『屍毒の霧』が、地面の泥から染み出すようにして広がり、周囲の草木を一瞬にして凍てつかせていく。退路は完全に塞がれていた。屍毒の霧を吸い込めば、肺が内側から腐食し、生きたまま屍人へと変貌する。


 ゴボリ、と泥が泡立つ音が響いた。不自然なほどに静かに、そして硬直した足取りで、霧の中から無数の影が姿を現した。皮膚は土気色に変色し、瞳は濁った緑色に光る生ける屍たち。痛みを感じず、ただ呪術の命令に従って生者を貪り食う、鬼骸の暗黒兵団。


 蓮二は折れた愛刀を逆手に構え、墓石の陰に身を潜めた。全身の毛穴が、死者の放つ冷たい屍気(しき)を感知して収縮する。右腕の凍結固定が、この極寒の霧の影響でさらに締め付けを強め、右半身が激しく痙攣し始めた。


 だが、蓮二の心臓を本当に凍りつかせたのは、屍人軍団の先頭に立っていた、一人の若い屍人の姿だった。


 その屍人は、生前の面影を微かに残していた。気弱で心優しかった、従弟の『黒崎一馬』。かつて蓮二が可愛がり、一族の剣技を共に競い合った少年。今やその皮膚は緑がかった灰色に変色し、瞳からは一切の光が失われていた。首からは、生前に蓮二が与えた『小さな砥石』が、泥に汚れたまま不気味に揺れている。


「一馬……お前、なのか……」


 蓮二の奥歯が激しく鳴った。胸の奥に宿る血蠱が、かつてないほど激しく脈打ち、焦熱の熱毒を噴出させる。他人の内力を奪って生き延びる罪悪感、そして一族を怪物に変えた五毒教に対する凄まじい憎悪が、蓮二の脳髄を狂気へと引きずり込もうとする。鬼骸は、蓮二の精神を内側から破壊するために、あえてこの肉親を最初の刺客として送り込んできたのだ。


 一馬の濁った緑色の双眸が、ゆっくりと蓮二の姿を捉えた。自我を失ったはずのその肉体が、不自然なほど滑らかに、一つの剣の構えを取る。


 それは、黒崎一族に代々伝わる秘伝――『無名剣・残照』の構えだった。


 次の瞬間、一馬の身体が爆発的な速度で突進してきた。屍術によって筋肉の限界値を強制的に引き出された肉体。一馬の放つ『残照』は、一族の美しい軌道を歪め、赤黒い屍気を纏った凶悪な風刃となって蓮二の喉元へと迫る。キィィンと空気を引き裂く不快な金属音が、激しい雨音を切り裂いた。


「くっ……!」


 蓮二は動揺を抑えきれず、左手の折れた愛刀で辛うじてその一撃を受け止めた。だが、一馬の尋常ならざる怪力が、蓮二の不自由な肉体を容赦なく押し潰す。防具の隙間から滑り込んだ一馬の黒い爪が、蓮二の頬を浅くかすめた。爪から滴る死毒(しどく)が皮膚に触れた瞬間、ジュウジュウと音を立てて肉が黒く焼けただれ、激しい激痛が走る。


 蓮二はたまらず後退し、崩れかけた墓石の陰に身を隠した。一馬は痛覚を持たない。どれだけ切り刻もうと、その動きを止めることはできない。かつて一族の動きを誰よりも熟知していた一馬の剣は、蓮二の剣技の「癖」を正確に突いてくる。精神的ショックと、右腕の機能喪失が重なり、蓮二は完全に圧倒されていた。


(落ち着け……感情を殺せ。こいつはもう一馬ではない。鬼骸の呪術で動く、ただの操り人形だ)


 蓮二は目を閉じた。視覚から入る肉親の無惨な姿が、彼の剣を鈍らせていた。彼は暗闇の中で、心臓の血蠱が発する『殺気警告』の脈動に全神経を集中させた。ドクン、ドクンと、血蠱が敵の屍気の流れと風圧を感知して胸を叩く。その拍動に合わせ、蓮二は一馬の目にも留まらぬ連撃を、紙一重の差で回避し続けた。


 一馬の爪が墓石を粉砕し、石の破片が雨の中に飛び散る。蓮二は避けるのが精一杯で、墓所の最奥へとじりじりと追い詰められていた。周囲を取り囲む数十の屍人たちが、冷たい息を吐きながら、じわじわと包囲網を狭めてくる。


 一馬の濁った緑色の双眸が、再び蓮二の喉元を真っ直ぐに見据えた。歪んだ『残照』の構えから放たれる、容赦のない最速の一撃。冷たい鉄の刃が、雨を切り裂き、蓮二の喉笛を毟り取らんと無情に突き出された――。

HẾT CHƯƠNG

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