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錆びゆく刃と孤高の槌

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立ち上る黒煙が、黒沼谷の酸性霧と混ざり合い、ぬらぬらとした油膜のような光を放っていた。


 南蛮黒沼谷の奥深くに隠された独孤博の廃薬庵は、もはや跡形もなかった。蠍魔が放った追跡隊の火矢によって、貴重な薬草を干していた棚も、毒液を精製するための硝子瓶も、すべてが黒い炭と化して泥の中に沈んでいる。


「……何も残っていないわ」


 独孤緑は、炭化した柱の前に立ち、感情の消えた声で呟いた。彼女の細い肩には、かろうじて燃え残りから救い出した小さな薬嚢が一つ掛けられているだけだった。常に冷徹な彼女の瞳に、隠しきれない焦燥の影が揺れている。唯一の安全地帯であり、治療の拠点だった場所が完全に消滅したのだ。


 黒崎蓮二は、その様子を静かに見つめていた。彼の右腕は、白姫の冷気唾液によって凍りついたように白く、感覚を完全に失ったまま固定されている。肉を裂いて主経絡を強引に繋ぎ止めている『経絡縫合の鋼糸』は、冷気の麻酔効果によってかろうじて肉を引き裂く激痛を止めていたが、それは氷の上に築かれた危うい均衡に過ぎなかった。真気を少しでも過剰に巡らせれば、凍結が解け、経絡は一瞬にして再断裂するだろう。


 蓮二は左手で、鞘から主力武器である『赤錬太刀』を三寸ほど引き抜いた。鈍い金属音が響く。月光に晒された刃を見て、蓮二の頬の筋肉が微かに引き攣った。


 ――刀身が、 weeping(泣いて)いる。


 連戦による刃こぼれは深刻だった。白木の極寒真気によって鋼の芯部には微細な亀裂が走り、さらに蜈丸の放った強酸性の腐食毒によって、漆黒の美しかった刃の表面は虫食いのように凹凸にただれていた。黒沼谷に立ち込める酸性の霧は、微細な傷口から鋼をじわじわと蝕み、赤錆の斑点を急速に広げている。このままでは、次の死闘で刃が根元からへし折れるのは火を見るより明らかだった。


「無銘のところへ行くぞ」


 蓮二は太刀を鞘に収め、冷たく言い放った。


「無銘? 谷の外縁に隠れ住む、あの隻腕の偏屈者? 蠍魔の目が光るこの状況で、あんな危険な場所へ行くというの?」


「この太刀が折れれば、俺たちは次の包囲網を突破できない。奴の防蝕研磨術だけが、この赤錬を蘇らせる唯一の手段だ」


 蓮二の言葉に、緑はそれ以上反論しなかった。彼女もまた、実利を重んじる毒医の娘だ。武器を失った復讐鬼など、ただの肉塊に過ぎないことを理解していた。


 二人は夜霧に紛れ、谷の最外縁、切り立った玄武岩の岩壁の下に掘られた工房へと向かった。立ち込める硫黄の臭いと、低く響く鉄を叩く音。――*カン、カン、カン*。不規則だが、恐ろしいほどの重みを持った打撃音が、湿った大気を震わせていた。


 工房の内部は、炉の放つ赤黒い熱気に満ちていた。そこにいたのは、右腕を肩の根元から失った巨大な大男だった。


 無銘。かつて中原の戦いから落ち延び、この毒の地で刃を研ぎ続ける鍛冶師。残された左腕は、岩を削り出したかのように異常に太く発達し、無数の火傷の痕が刻まれている。彼は蓮二が投げ出した赤錬太刀を、煤けた左手で無造作に拾い上げ、単眼の鋭い光で刃先を睨みつけた。


「……死にかけた鉄の死臭がするな」


 無銘は低く濁った声で吐き捨てた。


「寒気に晒されて芯が縮み、酸を喰らって皮が剥げている。ただの研ぎ石では、この錆は落とせん。もう一度炉に入れ、地獄の熱で叩き直す必要がある。だが、この谷の強酸霧に耐えうる防蝕を施すには、ある素材が足りん」


「何が必要だ」


「『黒沼泥金』だ。五毒教が鉱山から強制徴収し、分壇の地下倉庫に厳重に保管している、あの重金属だ。あれを溶かして刃に焼き付けねば、この赤錬は三日と持たずにただの鉄屑に戻る」


 無銘は太刀を乱暴に作業台に突き立て、左手一本で巨大な槌を持ち上げた。その佇まいには、一切の交渉を拒絶する職人の絶対的な威圧感が漂っていた。対価(泥金)を持ってこなければ、一歩も動かないという無言の宣告。


 蓮二の脳内で、冷徹な生存の計算盤が動き出す。五毒教の倉庫は、蠍魔の直属兵が昼夜を問わず哨戒している。現在の不自由な右腕で正面から押し入れば、泥金を掴む前に衛兵の群れに圧殺される。ならば、自らの手は汚さず、仕掛けた『駒』を動かすしかない。


 蓮二は工房の影に潜み、懐から黒い丸薬を取り出した。それは、かつて門衛である『三吉』の体内に植え付けた劇薬『三途丸』の残り滓だった。三吉の心臓は、三日ごとに蓮二から解毒剤を受け取らねば内臓が融解する恐怖に縛られている。


 深夜、谷の境界にある廃船の残骸。泥に半分埋もれた甲板の上で、蓮二は震える三吉と対峙していた。


「お、お助けください、蓮二様……! 蠍魔様が薬庵を破壊した後、谷全体の警戒が十倍に強化されました。これ以上、哨戒ルートを偽装するのは……」


 三吉は喉元の傷を抑え、脂汗を流しながら平伏した。彼の心臓の奥では、三途丸の毒素結晶が不気味な脈動を刻み、肉体を内側から締め付けている。その恐怖は、教団の掟を遥かに凌駕していた。


「言い訳は不要だ」


 蓮二の声は、夜の湿気よりも冷たかった。


「泥金が保管されている地下倉庫の、今夜の交代スケジュールを吐け。そして、巡回兵の目を一時的に別の方向へ逸らせ。失敗すれば、明日の朝にはお前の肺は泡となって口から吹き出す」


 三吉は絶望に顔を歪め、懐から一枚の汚れた紙片を差し出した。そこには、今夜の三更(午前零時頃)に行われる、倉庫守備隊の交代時間が克明に記されていた。守備兵が入れ替わる、わずか一刻(約二十分)の空白の隙間。


「頑太、お前の出番だ」


 蓮二は影から、元炭鉱奴隷である頑太を呼び寄せた。頑太は泥金の採掘ルートと、倉庫の物理的な構造を熟知している。彼は蓮二の冷酷な実利主義に怯えつつも、五毒教を破滅させて奴隷から解放されたいという強い執念で、蓮二に従っていた。


「地下の排水溝から倉庫の床下へ侵入できる。泥金は非常に重い。俺の採掘用具がなければ、一塊すら持ち出すことはできねえ」


 頑太は太い腕で、錆びた鉄のバールと特殊な革袋を掲げた。


 嵐が近づき、黒沼谷に激しい雨が降り始めた三更の刻。泥濘の闇を、二つの影が音もなく滑るように進んでいた。蓮二は「泥上軽功」を使い、足裏の真気膜で泥を一切跳ね上げずに移動する。右腕の凍結固定による不自由さを、左手の『黒崎真司の折れた愛刀』を逆手に保持することで補っていた。


 三吉の偽工作により、倉庫の周囲の松明の数は半減していた。しかし、重厚な青銅の扉の前には、二人の教団衛兵が槍を携えて直立している。交代の空白時間とはいえ、彼らの視線を掻い潜ることはできない。


(正面から斬れば、金属音が響く。無音で処理する)


 蓮二は息を殺し、衛兵の死角である蒸気噴出孔の影へと滑り込んだ。熱い硫黄の蒸気が視界を遮る一瞬、彼は踏み込んだ。右腕は使えない。左腕一本に全神経を集中させる。


 蓮二は自らの左肩の関節を強引に外す極意『蛇身(Jashin)』を起動した。グニャリと不自然な角度にねじ曲がった左腕が、人間の限界を超えたリーチとなって、衛兵の喉元へと伸びる。逆手に握られた真司の折れた愛刀が、肉を裂く微かな音と共に、一人の衛兵の喉笛を正確に貫いた。声帯を物理的に破壊された衛兵は、悲鳴を上げることすらできず、血を吐きながら崩れ落ちる。


 もう一人が異変に気づき、口を開きかけた瞬間、蓮二は外した左肩を強引に嵌め直し、その勢いを利用して回し蹴りを相手の顎に叩き込んだ。骨の砕ける鈍い音が響き、二人目の衛兵も泥の中に沈黙した。


「頑太、開けろ」


 蓮二の合図で、影から飛び出した頑太が青銅の扉の隙間にバールを差し込んだ。しかし、焦りからか、バールが濡れた青銅の錠前に接触した瞬間、*キィィン*と甲高い金属摩擦音が夜の闇に響き渡ってしまった。


「しまっ――」


 頑太が息を呑んだ。倉庫の奥に仕掛けられていた、侵入者感知用の微細な「警報の鈴」が、振動に反応して激しく鳴り響き始めたのだ。チリン、チリンと、けたたましい音が雨音を切り裂く。


「敵襲だ! 地下倉庫へ集まれ!」


 周囲の詰所から、無数の松明の明かりが急速にこちらへ向かって動き始めるのが見えた。衛兵たちの足音が、泥濘を激しく踏みしめて近づいてくる。退路は数分以内に完全に塞がれる。


「泥金を毟り取れ! 急げ!」


 蓮二は叫んだ。頑太は死に物狂いで扉をこじ開け、棚に並んでいた重厚な黒沼泥金のインゴットを、特製の革袋へと二塊、強引に詰め込んだ。一塊だけで数十斤(約数十キロ)の重量がある。頑太の太い腕が、重さに耐えかねて激しく震えた。


「蓮二、これ以上は重くて走れねえ!」


「俺が担ぐ。走れ!」


 蓮二は左腕で泥金の入った重い革袋を掴み上げ、自身の肩へと強引に担ぎ直した。その瞬間、右腕の凍結固定(氷脈封)の境界が揺らぎ、縫合部分から肉を削るような鋭い激痛が走る。激しい鬱血が右腕を襲い、蓮二は思わず喀血した。


 しかし、止まることは死を意味する。


 倉庫の出口には、すでに十数人の衛兵が槍を構えて立ち塞がっていた。蓮二は懐から、事前に独孤緑の廃墟から回収しておいた即席の煙幕『百毒煙』の小瓶を、躊躇なく地面に叩きつけた。


 パリン、と割れる音と共に、赤黒い有毒胞子の霧が爆発的に拡散する。胞子を吸い込んだ衛兵たちが、肺を焼かれる痛みにのたうち回り、互いの槍を突き刺し合って自滅していく。


「行くぞ!」


 蓮二は混乱する霧を突き抜け、泥上軽功を起動した。足裏から放たれる極薄の真気膜が、重い泥金を担いだ状態でも、底なし沼の表面を滑走することを可能にする。しかし、過度な真気の行使は、彼の心臓の血蠱を再び刺激し始めていた。ドクン、ドクンと、不気味な胎動が胸の奥で再開する。


 這う這うの体で無銘の工房へと舞い戻った時、蓮二は激しい息切れと共に、泥金の入った革袋を作業台の上に叩きつけた。ズシンと、重い金属音が響く。


「……持って、きたぞ」


 蓮二は胸を押さえ、荒い息を吐きながら無銘を睨みつけた。口元からは、沸騰した黒い毒血が滴り落ちている。右腕の凍結は融解の一歩手前まで達しており、皮膚の下の血管が怪しく紫に脈打っていた。


 無銘は革袋を開け、中の黒い光沢を放つ泥金を単眼で見つめた。そして、初めて不敵な笑みを浮かべた。


「上出来だ。邪派の猟犬どもの鼻を明かして、これだけの物を持ってくるとはな。よし、この赤錬太刀、俺が命を吹き込んでやる。炉の火を最大にしろ!」


 無銘は泥金を炉に放り込み、隻腕で巨大な槌を振り上げ、凄まじい熱気の中で赤錬太刀を叩き直し始めた。鉄を打つ音が、夜の嵐にかき消されていく。これで、太刀は強酸の霧に耐える防蝕の鎧を得るはずだった。


 安堵の息を吐きかけたその時、工房の入り口から、激しく泥に濡れた頑太が、血相を変えて飛び込んできた。その顔は、先ほどの倉庫潜入時よりも遥かに深い、絶望的な恐怖に支配されていた。


「れ、蓮二……! 大変だ……最悪のことが起きた!」


 頑太は膝を折り、激しい呼吸の中で叫んだ。


「蠍魔の直系哨戒隊が……流民街に踏み込んだ! 奴ら、お前をおびき出すために、流民街の長老や子供たちを人質に取りやがった! 『一刻(二時間)ごとに十人ずつ、生きたまま底なし沼に沈める』と、蠍魔が触れ回っている……!」


 頑太の震える声が、赤く燃える工房の闇に響き渡った。


 蓮二の心臓が、警告を告げるように、ドクンと静かに、そして冷酷に脈打ち始めた。宿敵の残虐な罠が、彼の喉元を再び締め上げようとしていた。

HẾT CHƯƠNG

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