氷蛇の息吹
肺が焼け、心臓が凍る。相反する二つの極限の真気が主経絡の中で正面衝突し、黒崎蓮二の体内は文字通りの地獄と化していた。白木から強奪した純粋な『寒氷真髄の欠片』の冷気と、心臓に巣食う『血蠱』が放つ焦熱の熱毒。それらが互いを喰らい尽くそうと暴れ狂うたびに、蓮二の血管は皮膚の下で赤と紫に激しく明滅し、破裂寸前まで膨張していた。
「が、はっ……!」
凍りついた泥濘の上に膝をつき、蓮二は再び赤黒い血を吐き出した。吐き散らされた血は、半分が沸騰して泡立ち、もう半分が泥の上で瞬時に凍りついて奇妙な氷晶を形成している。右腕の肉を裂いて強引に経絡を繋ぎ止めていた『経絡縫合の鋼糸』が、真気の嵐に耐えかねて内側から肉を削り、骨が軋むような激痛を容赦なく脳髄へ送り込んでくる。
後方から、ザッ、ザッ、と凍りついた泥を踏みしめる足音が近づいてくる。柳沢たち寒氷宗の生き残りが、廃人となった白木の仇を討つべく、警戒しながら包囲網を狭めているのだ。今の満身創痍の肉体では、初気境の雑兵にすら首を撥ねられかねない。
(ここで、死ねるか……。御堂邪仙の首を、この手で引きずり出すまでは……!)
蓮二は左目だけで暗闇を睨みつけ、だらりと垂れ下がった左腕と、感覚の消えかけた右腕を泥に突き立てた。彼は呼吸を極限まで遅らせる『偽死の法』を応用し、体外へ漏れ出る真気の波動を一時的に完全に遮断した。そして、足裏から極薄の真気膜を放出して泥との摩擦音を消す『泥上軽功』を最小限に発動し、這うようにして茂みの奥へと滑り込んだ。
柳沢たちが蓮二のいた場所に到達した時には、そこには凍りついた毒血の痕跡だけが残されていた。吹雪と毒霧が入り混じる暗黒の夜、蓮二は彼らの捜索網の隙間をすり抜け、地下鍾乳洞の隠れ道へと転がり落ちるようにして侵入した。
目指すは、黒沼谷の地下深く、奇跡的に万年雪が溶けずに残っている極寒の深淵――『氷結の隠れ窟』。そこだけが、体内の氷炎衝突を物理的に冷却し、生き延びるための唯一のオアシスだった。
暗黒の鍾乳洞を、蓮二はただひたすらに這い進んだ。這った跡には、彼の体温で溶けた氷水と、傷口から滴る黒い毒血が混ざり合った不気味な道ができていく。胸元に隠した『莉奈の熱毒吸着翡翠』は、血蠱の焦熱を吸いすぎてすでに限界に達しており、パキリ、パキリと、残酷な音を立ててその表面に無数の深い亀裂を広げていた。もう、一刻の猶予もない。
どのくらいの時間を這い進んだろうか。肌を刺すような湿った熱気が消え去り、代わりに肺を凍らせるような、厳かで絶対的な冷気が大気を満たし始めた。目の前に広がったのは、天井から無数の氷柱が垂れ下がり、決して溶けない万年雪が青白い光を反射している、息を呑むほどに冷徹で美しい巨大な氷窟だった。
「ここ、なら……」
蓮二は崩れ落ちるようにして、万年氷壁の冷たい表面に背を預けた。氷壁から伝わる絶対零度の冷気が、彼の焼けただれた背中の皮膚を物理的に冷却していく。だが、体内の氷炎衝突は収まらない。強奪した寒氷真髄が血蠱の核を刺激し、血蠱はさらに狂暴な熱毒を噴出させている。内側から肉体が融解し始める激痛に、蓮二の意識が引き千切られそうになる。
その時、頭上の氷柱の隙間から、音もなく一本の白い影が滑り降りてきた。
それは、透き通るような純白の鱗を纏い、ルビーのように怪しく赤い瞳をした、人間の腕ほどの太さを持つ希少な変異霊蛇――『白姫(しらき)』だった。この氷窟の主であり、凝真境初期相当の圧倒的な寒気を体内に蓄積する霊獣である。
「シャーッ……!」
白姫は侵入者である蓮二を排除すべく、極寒の毒液を牙から滴らせながら、鎌首をもたげて威嚇した。彼女の周囲の大気が瞬時に凍りつき、無数の氷の刃が蓮二の喉元を取り囲む。蓮二には、もう戦う力など残されていなかった。左腕は靭帯が裂け、右腕は鋼糸が食い込み、真気を練ればその瞬間に経絡が内側から爆破する。
絶体絶命の窮地。しかし、蓮二の冷徹なサバイバル本能は、武力による解決を即座に捨て、別の「切り札」を選択した。
蓮二は抵抗の意志を一切示さず、太刀を地面に置いた。そして、心臓の鼓動をあえて激しく脈動させ、体内の血蠱の存在を白姫に示した。血蠱が放つ、太古の毒虫の王たる『原始の波動』。それが、霊獣である白姫の防衛本能と知性に直接訴えかける。
白姫の赤い瞳が一瞬、怪訝そうに細められた。彼女は攻撃の手を止め、蓮二の胸元へとしなやかに近づいてくる。血蠱が放つ不気味な脈動が、彼女の知的好奇心を刺激したのだ。蓮二は「毒血同化の呼吸法」を使い、白姫が放つ極寒の毒気を呼吸を通じて体内に無害に取り込みながら、自らの左手の指先を『毒骨の小刀』の鋭い先端で躊躇なく切り裂いた。
傷口から、黒崎一族特有の、わずかに甘い香りを漂わせる濃厚な毒血が滴り落ち、氷の床を黒く染める。それは、南蛮の毒草を代々扱ってきた一族の、極めて高い毒物適合性を持つ「極上の毒血」だった。
白姫は蓮二の意図を理解したように、その毒血を細い舌で静かに舐め取った。舐めた瞬間、彼女のルビーのような瞳が歓喜に輝く。霊獣にとって、蓮二の適合した毒血は、自身の内功を劇的に高める至高の栄養源(触媒)だった。どこまでも冷徹な、利害に基づく生物同士の「血の等価交換」。
対価を受け取った白姫は、蓮二の胸元に向けて、その小さな口を開いた。
ふうっ、と彼女の口から、絶対零度の冷気を帯びた『氷結の唾液』が霧となって吹きかけられた。その霧が蓮二の胸元の皮膚に触れた瞬間、猛烈な冷気が毛穴から経絡へと直接浸透し、心臓を包み込む。心臓の中で暴騰していた血蠱の熱毒が、物理的に急速冷却されていく。
「が、あ、あああッ!」
急激な温度変化の衝撃に、蓮二の全身が激しく弓なりに反り返った。心臓が一度完全に停止したかのような、凄まじいショック。その瞬間、蓮二の胸元で、パキィィン!と甲高いう悲鳴が響き渡った。
崩壊寸前だった『莉奈の熱毒吸着翡翠』が、冷気唾液の急激な温度変化に耐えかねて、ついに完全に砕け散ったのだ。緑色の破片が氷の上に散らばり、冷たい輝きを失っていく。従妹の形見という最後の命綱は、ここに完全に消滅した。
しかし、その代償と引き換えに、奇跡が起きた。
白姫の極寒成分が、強奪した白木の寒氷真気と完璧に融合し、血蠱の暴走する熱毒を完全に封じ込めたのだ。相反する二つの真気が、心臓の中で静かに調和し、平穏な川のように経絡を流れ始める。血管の異常な明滅が収まり、肌は冷気の影響で病的に白く静まり返った。
血蠱は一時的な大満足を得て、深い休眠状態――『血蠱・冷熱均衡期』へと移行した。それだけでなく、白姫の唾液に含まれる極寒真気が、蓮二の右腕の壊死しかけた経絡を物理的に「凍結・固定」し、鋼糸の食い込みによる再出血を完全に停止させた。右腕の感覚は失われたままだが、これ以上の肉体崩壊を防ぐ強力な麻酔効果(防壁)が形成されたのだ。
「ふぅ……」
蓮二は静かに息を吐き出した。吐き出された息は、完全に透明な、冷厳な白煙だった。体内の真気バランスは、奇跡的な等価交換によってかつてないほどに安定していた。彼は砕け散った翡翠の破片を左手で静かに拾い集め、懐へと収めた。達成感はない。ただ、もう一日生き延びたという冷酷な事実だけがそこにあった。
だが、静寂は一瞬にして破られた。
バリン!と、氷結の隠れ窟の入り口を塞いでいた巨大な氷壁が、外側から強引に粉砕される音が響き渡った。白姫が警戒して一瞬にして天井の闇へと姿を消す。
蓮二が咄嗟に太刀『赤錬』を左手で握り直し、鋭い眼光を入り口に向けると、そこから冷たい水蒸気と共に、一人の少女が血相を変えて飛び込んできた。
漆黒の髪を乱し、衣服のいたるところに泥と血を付着させた少女――独孤緑(どっこのり)だった。常に冷徹で感情を排していたはずの彼女の瞳には、今や底知れぬ焦燥と、剥き出しの恐怖が宿っていた。
「蓮二……! ここにいたのね……!」
緑は息を切らし、蓮二の前に膝をついた。
「逃げて……今すぐここから逃げるのよ! 蠍魔(かつま)の包囲網が、私たちの薬庵を特定したわ。今、奴らの精鋭部隊が、薬庵を跡形もなく破壊し尽くしている……! すぐに、この隠れ窟にも追手が押し寄せてくるわ!」
緑の口から告げられた、最悪の報告。唯一の安全地帯の喪失と、退路を断たれた絶望的な包囲。蓮二の安定したばかりの心臓が、再び、冷酷な戦いの始まりを告げるように、ドクンと静かに脈打ち始めた。
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