氷の獲物を狩れ
青木のブーツが、蓮二の目の前の泥を踏みしめた。茂みが不自然に揺れ、青木の怯えた双眸が、泥の中に潜む「死神」の影を捉えようとした、まさにその瞬間――。
泥中から、一本の影が音もなく飛び出した。
それは関節を強引に外され、鞭のようにしなる蓮二の左腕だった。骨関節着脱「蛇身」――脱臼した靭帯が引きちぎれるような激痛が左肩を走ったが、蓮二の冷徹な脳はそれをただの「信号」として処理した。悲鳴を上げる暇すら与えず、蓮二の泥まみれの左手が青木の足首を掴み、力任せに引きずり倒す。
「むぐっ――!?」
青木の短い驚愕の声は、泥濘の中に吸い込まれた。背中から泥に叩きつけられた青木の視界に、泥と血に塗れた鬼の如き顔が飛び込んでくる。蓮二はすでに青木の馬乗りになっていた。左手に握られた『黒崎真司の折れた愛刀』が、霧を切り裂いて青木の喉笛へと突き下ろされる。
グサリ、と湿った肉を貫く音が響いた。
青木の喉から血の泡が噴き出し、言葉にならない喘ぎが漏れる。蓮二は冷酷な目でその光景を見つめながら、刃をさらに深く捻り込み、声帯を完全に破壊した。青木の身体が泥の中で数度痙攣し、やがて光を失った瞳が天を仰いだまま静止する。
「一人目だ」
蓮二は無表情に呟き、青木の死体から『寒氷宗・外門弟子』の衣服の紋章を毟り取った。心臓の『血蠱』が、青木の死体から漂う微かな冷気の残滓を感知し、飢えた獣のようにドクンドクンと激しく脈打ち始める。胸元の『莉奈の熱毒吸着翡翠』が、血蠱の熱毒を吸ってまた一つ、不気味なひび割れを刻んだ。時間がない。このままでは、冷気を喰らう前に己の心臓が焼き尽くされる。
蓮二は泥の中に潜む小太に目配せをし、さらに深く霧の奥へと滑り込んだ。彼の目的は、白木が宿す純粋な極寒の内力。それを奪うため、すでに黒沼谷の道先案内人である『泥吉』の喉元には、目に見えない死の鎖が繋がれていた。
数刻前、蓮二は泥吉の隠れ処を襲い、彼の家族の命を人質に取っていた。泥吉が白木の部隊を『骨喰いの泥流』へと誘導しなければ、家族は生きたまま毒虫の餌となる。ずる賢い泥吉にとって、選択肢など最初から存在しなかった。
「白木様! 青木様はあちらの茂みの奥へ逃げた妖魔を追って、近道を進まれました!」
霧の向こうから、泥吉の震える声が響いた。恐怖と罪悪感に引き裂かれそうな、泥まみれの案内人の声。
「何だと? 青木の奴、一人で手柄を焦ったか」
白木は傲慢に長剣を払い、泥吉の指し示す方向を睨みつけた。そこは、一見すると普通の泥地に見えるが、その実、底の見えない流砂と強酸性の酸液、そして骨を喰らう無数の細かな毒虫が蠢く『骨喰いの泥流』の境界だった。
「白木兄貴、お待ちください!」
後方から、知性的な弟子である柳沢が鋭く警告を発した。
「やはり霧の動きが異常です。それに、泥吉の態度が不自然すぎる。これは邪派の罠、あるいは底なし沼の領域です。一度退くべきです!」
「黙れ、柳沢! お前はそうやって、いつまでも我が寒氷宗の大義に泥を塗り続ける気か!」
白木は激怒し、柳沢の胸元を突き飛ばした。
「青木が一人で戦っているのだぞ! 邪派の残党など、我が寒氷真気の前には氷の塵に過ぎん。重装兵、前へ出よ! 泥を凍らせて道を切り開く!」
白木の命令により、重厚な鋼鉄甲冑を纏った重装兵『鉄馬』が巨大な黒鉄盾を掲げて前進した。しかし、彼らが泥濘の一歩を踏み出した瞬間、世界の表情が一変した。
ズブズブ、と不気味な水音が響き、鉄馬の巨大な身体が、まるで底から巨大な手が引きずり込んでいるかのように、急速に泥の中へと沈み始めたのだ。
「な、何だこれは!? 足が抜けん!」
「泥が……泥が生きているように俺たちを吸い込んでいく!」
悲鳴が上がった。鎧の重さが仇となり、正道弟子たちはもがけばもがくほど、強酸性の泥の底へと沈み込んでいく。さらに最悪なことに、泥の中から「チチチ」と不気味な羽音が響き、骨を喰らう細かな毒虫の群れが、彼らのブーツの隙間から肉へと喰らいつき始めた。
「ぎゃあああああ! 足が、足の肉が喰われる!」
「助けてくれ! 白木兄貴!」
流民たちを「妖魔の残党」として無慈悲に虐殺していた正道の弟子たちが、今や泥の中で醜くのたうち回り、互いの肩を掴んで押し下げ合う地獄絵図が展開されていた。彼らが掲げていた「大義」や「正義」は、泥の底で泥水と共に吐き出され、ただの生々しい生存本能へと成り下がった。
「うろたえるな!」
白木が叫ぶが、彼自身の足元もすでに膝まで泥に呑み込まれていた。柳沢だけが、後方で辛うじて足場を確保し、必死にロープを投げようとしている。
その混乱の極限の中、霧の揺らぎと同化するようにして、一人の男が滑るように現れた。
黒崎蓮二。全身に強酸の泥を塗りたくり、殺気を完全に消した彼は、『泥上軽功(でいじょうけいこう)』を駆使して泥の上をアメンボのように滑走していた。右腕の経絡を繋ぎ止める鋼糸の激痛が走るが、血蠱が白木の宿す冷気に反応し、蓮二の肉体を強制駆動させている。
蓮二は、左手に持っていた「ある物」を、パニックに陥る弟子たちの中央へと無造作に投げ捨てた。
泥濘の上を転がったのは、先ほどまで生きていた青木の、泥と血に塗れた首だった。その双眸は、恐怖に歪んだまま凍りついている。
「ひっ……あ、青木……!」
白木の顔から、傲慢な血色が完全に消え去った。正道の弟子たちが絶望の悲鳴を上げる中、蓮二は霧の中から白木の背後へと、無音の速度で接近した。
壊死しかけた右腕を強引に持ち上げる。鋼糸が肉を裂き、黒い毒血が包帯から滲み出た。だが、蓮二の目は飢えた獣そのものだった。白木の胸元に手を触れ、血蠱の牙を彼の経絡へと突き立てる。他力強奪内功『氷天吸気功・第一重』の起動。
「貴様――妖魔の残党め!」
背後に迫る死神の気配に、白木は本能的な恐怖と共に振り返った。泥吉の裏切りと、従弟の死という最悪の現実が彼の脳内を支配し、傲慢な自尊心は狂暴な怒りへと変貌した。
「我が正義の剣で、泥の塵となれ!」
白木は激怒の絶叫と共に、青く輝く『氷晶の長剣』を力任せに引き抜いた。その瞬間、凝真境中期の圧倒的な極寒の剣気が大気を引き裂き、周囲の沸騰する泥濘を一瞬にして白く、強固な氷の床へと物理的に凍結させていく。
バリバリバリと凍りつく音が響き、極寒の剣気が凍てつく波となって、蓮二の足元へと急速に迫り来る――。
Chưa có bình luận nào. Hãy là người đầu tiên!