赤き心臓の胎動
どろりとした、生温かい泥の滴る音が鼓膜を叩いていた。
「……が、はっ……!」
黒崎蓮二は、湿り気と猛毒の腐臭が立ち込める石床の上で跳ね起きた。肺腑を強引に抉り取られるような激痛。反射的に胸元を掻きむしると、指先に触れたのは、皮膚の下でまるで生き物のように脈打つ、おぞましい隆起だった。
心臓が、割れる。いや、内側から喰い破られようとしている。
胸元に視線を落とせば、衣服の隙間から覗く肌に、怪しく蠢く紫色の血管が浮き出ていた。それは心臓を中心に、まるで毒蜘蛛の網のように全身の経絡へと這い伸びている。心臓の鼓動が一度打つたびに、赤黒い熱線が血管を焼き焦がしながら駆け巡る。体温は異常なまでに上昇し、視界は赤く染まっていた。
「血蠱(けつこ)……」
蓮二は奥歯を噛み締め、血の混じった唾を吐き出した。その言葉を口にするだけで、喉の奥が焼けるように痛む。
すべては、あの地獄の夜から始まったのだ。南蛮を支配する邪派「五毒教」の教主、御堂邪仙(みどうじゃせん)。あの男の気まぐれと残酷な実験によって、蓮二が所属していた「黒崎一族」は一夜にして滅ぼされた。一族の者たちは生きたまま毒虫の苗床とされ、精神を破壊され、泥濘の中に使い潰された。蓮二もまた、その実験体の一人に過ぎなかった。
心臓に植え付けられた、この世で最も邪悪な寄生生命体――「血蠱」。
本来ならば、移植された瞬間に心臓を食い尽くされて死ぬはずだった。だが、蓮二の肉体には、黒崎一族が代々南蛮の毒草を扱う中で培ってきた「毒物適合体質」の血が流れていた。その血脈の特性が、奇跡的に血蠱の即死毒を中和し、彼を生かした。しかし、それは救済などではない。ただ、終わりのない地獄のサバイバルタイマーが始動したに過ぎなかった。
ここ「毒医の廃薬庵」は、有毒な泥滝の裏側に隠された洞窟の廃墟だ。かつて五毒教から逃亡し、蓮二に血蠱を移植して延命させた偏屈な老医師、独孤博(どくこはく)の隠れ家。その独孤博も、数日前に教団の追手に発見され、無残に殺害された。今の蓮二には、頼るべき者など誰もいない。
「く、そ……動け、動け……!」
蓮二は震える腕で冷たい石床を押し、這うようにして部屋の隅にある木製の棚へと向かった。一歩動くたびに、心臓の血蠱が「飢え」を訴えてのたうち回る。他人の内力を喰らわなければ、この虫は宿主である蓮二の心臓そのものを食い尽くし、内側から肉体を融解させる。それが、血蠱の「初期暴走期」の恐怖だった。
棚の上には、独孤博の遺品である一冊の手記が置かれていた。ボロボロの羊皮紙でできた『独孤博の天毒秘録』。
蓮二は血走った眼でその手記を掴み、狂ったようにページをめくった。しかし、視界が赤く歪み、文字がまるで蠢く毒虫のようにブレて読めない。脳を直接針で突き刺されるような激痛が、彼の思考力を奪っていく。
「がはっ……!」
突然、激しい吐血が蓮二を襲った。石床に散った血は、赤黒く沸騰し、微かに紫色の煙を上げている。内力を練って暴走を抑え込もうとしたのが間違いだった。未熟な内力が血蠱の刺激を強め、逆に経絡の一部が微細に断裂したのだ。
死のタイマーが加速していく。あと数刻もすれば、心臓は完全に破裂するだろう。
「まだだ……こんな場所で、あの男に復讐も果たせずに死ねるか……!」
蓮二の脳裏に、一族が虐殺された光景が蘇る。厳格だった実父・源一郎が全身の経絡を黒く焼かれて死んだ姿。優しかった実母・千代が胸を貫かれた最期。兄・真司の折れた愛刀。そして、人蛹の実験体にされ、変わり果てた姿にされた幼き妹・小春の悲鳴。
怒りと憎悪が、限界に達した肉体を強引に突き動かす。蓮二は腰元から、一本の不気味な小刀を抜き放った。
それは、共に蠱毒の穴に落とされて死んだ従兄・右京の遺骨を削り出して作った「毒骨の小刀」だった。先端には、一族秘伝の特殊な麻痺毒が染み込んでいる。
「うおおおおお!」
蓮二は叫び声を上げながら、自身の胸元、心臓のすぐ横にある経穴「狂血穴(きょうけつあん)」に向けて、毒骨の小刀を深く突き刺した。
肉を裂き、骨をかすめる鈍い音が洞窟に響く。常人であればショック死するほどの痛みが全身を駆け巡った。だが、小刀から染み込んだ麻痺毒と骨の刺激が、一時的に心臓周囲の神経を麻痺させ、血蠱の脈動を強引に抑え込む。一時的な自己強化禁術「経穴自突・狂血」の応用だった。
一時的に痛みが引いた隙を見逃さず、蓮二は床に結跏趺坐で座した。
「吸え……吸い込め……」
彼は「毒血同化の呼吸法」を起動した。廃薬庵の岩割れから染み出してくる、黒沼谷特有の微細な紫色の毒霧。蓮二はそれを、深く、肺の奥底まで吸い込んだ。常人が吸えば一瞬で肺がただれて窒息死する猛毒のガス。しかし、黒崎一族の特異体質を持つ蓮二の肺は、その毒素を分解し、一時的な内力エネルギーへと変換し始める。
毒を以て、体内の熱毒を相殺する。それが独孤博の遺した数少ない生存技術の一つだった。
しかし――世界はそれほど甘くはなかった。
肺に取り込まれた不純な毒素が、心臓に宿る血蠱の「本能」と衝突した。血蠱は、吸い込まれた毒素を「不純物」と見なし、それを排除しようとさらに狂暴化。相殺されるはずだった熱毒は、不純な毒素と混ざり合うことで化学反応を起こし、逆に心臓の脈動をさらに加速させた。
「が、は……あああああ!」
蓮二は胸を掻きむしりながら、前方に倒れ込んだ。今度は先ほどよりも大量の黒い血が口から噴き出す。経絡の断裂音が、幻聴のように脳内に響き渡る。全身の皮膚が赤黒く焼けただれ、体温は沸騰する泥池のように上昇していく。
視界が完全に狂気に蝕まれていく。
赤い霧の向こうに、死んだはずの一族の顔が見えた。血塗られた父が、母が、兄が、妹が、泥の中から手を伸ばし、蓮二の足を掴んで奈落へと引きずり込もうとしている。
「蓮二……なぜ、お前だけが生きている……」
「痛いよ、お兄ちゃん……助けて……」
幻覚の中の妹・小春が、その小さな手で蓮二の心臓を握り潰そうとする。狂気が、蓮二の精神の輪郭をじわじわと削り取っていく。脳が沸騰し、自我が崩壊する一歩手前。蓮二は頭を石床に何度も打ち付け、かろうじて現実の輪郭を繋ぎ止めようとしたが、身体の自由はすでに失われていた。
指先一つ動かせない。心臓の血蠱は、今まさに蓮二の心臓の肉壁にその無数の牙を突き立て、貪り食おうとしていた。
死が、すぐ隣まで迫っていた。復讐を果たすこともできず、この湿った泥の穴底で、ただの毒虫の餌として消え去る。その絶対的な絶望が、蓮二の意識を暗黒へと突き落とそうとした、その時だった。
ギィ、と不快な金属音が静寂な廃薬庵に響いた。
滝の裏側に設置された、頑丈な石の扉がゆっくりと開く。湿った毒霧と共に、洞窟内へとなだれ込んできたのは、黒沼谷の腐臭を一時的にかき消すような、強烈な薬草の香りと――冷ややかな生気の波動だった。
蓮二は薄れゆく意識の淵で、泥にまみれた顔を辛うじて扉の方へと向けた。
逆光の中に、一人の少女のシルエットが浮かび上がっていた。
漆黒の髪を無造作に結い、麻の衣服を纏った少女。その手足は薬品の実験によるものか、荒れて黒ずんでいる。だが、何よりも蓮二の目を引いたのは、その瞳だった。凍りつくような冷徹さを湛えた、暗い暗い、灰色の双眸。
独孤博の娘――独孤緑(どくこりょく)。
彼女は倒れ伏し、血の海の中で虫の息となっている蓮二を見下ろした。その目に、同情や哀れみといった温かい感情は一切存在しなかった。ただ、壊れた道具を観察するかのような、冷酷な研究者の光だけがそこにあった。
緑の右手には、小さな青い薬瓶が握られていた。瓶の奥で揺れる淡い青色の液体は、血蠱の異常な活動を一時的に麻痺させ、心臓の破裂を防ぐことができる唯一の「安定剤」だった。
蓮二はかすれた声で、手を伸ばそうとした。生きたい。生きて、あの御堂邪仙の首を、この手で引きちぎるまでは、絶対に死ねない。
緑は蓮二の前にゆっくりとしゃがみ込み、薬瓶を彼の目の前で弄んだ。そして、冷たい、感情を排した声で、静かに告げた。
「生きたいのね、実験体。なら――取引をしましょう」
命を繋ぐための、あまりにも過酷で、血生臭い等価交換の提示。蓮二の復讐劇の幕が、今、この暗黒の沼底で上がろうとしていた。
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