不公正なる天秤
深夜のヴァレンシュタイン邸。凍てつく風が窓を叩き、暖炉の炎が青白く縮む中、死の気配が部屋を満たしていた。
キィィィン!
鼓膜を裂くような高い金属音が響き、オットーの持つ名刀『白夜』が、暗殺者『影無し』の漆黒の短剣を火花とともに弾き返した。ベッドの上に座る私は、過剰魔力による心臓の痛みに耐えながら、その光景を冷徹に見つめていた。脳内では、すでに幾千もの戦術シミュレーションが超高速で展開されている。
「オットー、深追いしては駄目。彼の術式の脆弱性を突くのよ」
私は掠れた声を絞り出した。脳に魔力が集中するたび、心臓がギリギリと軋むような激痛が走る。だが、視界は極限まで澄み渡っていた。
「影無しの『影隠れ』の魔術……その魔力の結節点は左足の影に偏っているわ。右の影の、わずかに外側を突けば、術式は自壊する」
私の『絶対記憶』と古代魔術の解析眼が、暗殺者の影の揺らぎから一瞬で脆弱性を検出した。オットーの隻眼が鋭く光る。一瞬の迷いもなく、彼は『白夜』の刃を、指示された虚空へと突き出した。
パリィン!
まるで硝子が砕けるような音が響き、影無しの全身を覆っていた漆黒の霧が霧散した。実体を晒された暗殺者は、自らの術式が看破されたことに仮面の奥で息を呑む。これ以上の戦闘は不利と判断したのだろう。影無しは一歩後退すると、窓から大吹雪の闇の中へと、音もなく消え去った。
「お嬢様、お怪我は!?」
ハンナが駆け寄り、激しく咳き込む私の背をさする。私はシエラたちから奪還されたハインツの『脱税裏帳簿』と『直筆指示書』をしっかりと抱きしめた。
「大丈夫よ……それより、朝が来るわ。ハンナ、大裁判所へ行く準備を。私の車椅子を用意して。不公正な天秤を、正す時間よ」
*
翌朝。帝都を包む大寒波はさらに厳しさを増し、白亜の『帝国大裁判所』の重厚な石造りの外壁は、凍てつく霜に覆われていた。
一般の傍聴人や貴族たちが締め出された、閉ざされた予備審問法廷。その壇上には、ハインツ伯爵から巨額の賄賂を受け取り、完全に魂を売ったヴァルター判事が、傲慢な表情で裁判槌を手にしていた。被告席には、軍権を不当に剥奪されようとしているギルベルトの席があるが、そこは空席のままだ。ハインツ伯爵は傍聴席の最前列で、勝利を確信した薄汚い笑みを浮かべている。
「被告ギルベルト・フォン・ヴァレリウス不在のまま、これより予備審問を執り行う」
ヴァルター判事が冷酷な声で宣言した。
「被告の兵士たちがクローネ穀物倉庫に放火した事実は明白であり、これを教唆した疑いのあるギルベルトの帝国軍総帥としての軍権を、即座に一時罷免する略式判決を下す――」
「お待ちください。その不公正な裁判を、直ちに停止しなさい」
重厚なオークの扉が激しく押し開けられ、凍てつく冬の風とともに、凛とした声が法廷内に響き渡った。全員の視線が一斉に入り口へと注がれる。そこにいたのは、ハンナが押す車椅子に座った、白銀の髪の少女――私、セシル・ヴァレンシュタインだった。
「何奴だ! 没落貴族の女が神聖なる法廷を汚すか。衛兵、その無礼者を直ちに退廷させよ!」
ヴァルター判事が顔を歪めて怒号を上げた。だが、私は冷徹な視線を崩さず、車椅子の膝の上に置かれた二つの公爵家の公式印章を高く掲げた。ヴァレリウス家とエルンスト家の紋章が、魔力の光を浴びて鈍く輝く。
「私はギルベルト・フォン・ヴァレリウス閣下、およびユリアン・フォン・エルンスト閣下から全権を委任された公式な『共同後見人』、セシル・ヴァレンシュタイン。帝国法に基づき、被告代理人としての法的発言権を要求します」
「共同後見人だと……!?」
ハインツ伯爵が思わず立ち上がり、その顔に驚愕と焦燥が走る。ヴァルター判事は慌てて裁判槌を叩いた。
「そのような代理権、この略式審理では認められん! 判決を強行する!」
「では、判決を下す前に、この数字をお聞きなさい、ヴァルター判事」
私は懐から、昨夜ハインツの金庫から奪い取った『秘密の脱税帳簿』を広げた。私の脳内データベースと絶対記憶が、帳簿に記された汚れた数字を瞬時に照合していく。
「帝国暦二百九十九年、冬。ハインツ伯爵の秘密金庫から回収された裏帳簿、三百四十二ページ。帝国中央銀行、口座番号『九〇二一』。名義はあなたの愛妾のものね。そこにハインツ伯爵から『特別講義報酬』という名目で、金貨五万枚が振り込まれている。取引の日付は、クローネ倉庫放火計画が立案されたまさにその翌日。……この数字の並びに見覚えはないかしら?」
「な、何だと……!? 貴様、それをどこで……!」
ヴァルター判事の顔から、一瞬にして血の気が引いた。全身を激しい震えが襲い、彼の手から白銀の裁判槌が滑り落ち、大理石の床に甲高い音を立てて転がった。法廷全体が、氷を打ったような静寂に包まれる。
「私はここに、建国憲章に定められた大判事特権、および帝国憲法に基づき、公式な『判事忌避の申し立て』を行います! 収賄の明らかな物的証拠がある以上、あなたにギルベルト閣下を裁く資格はありません!」
私は車椅子の手すりを強く握りしめ、言葉の刃を突きつけた。寒気と極限の緊張により、私の指先は白く凍りつき、すでに感覚を失いかけていた。だが、私の心は勝利の確信に燃えていた。
傍聴席の上層、中立派貴族の席から、ベルンハルト侯爵が静かに立ち上がった。
「実に見事な告発だ。中立派貴族連合として、この『判事忌避の申し立て』を全面的に支持する。ヴァルター判事、直ちにその席を降り、国家財務監査官による公式な調査に応じなさい」
「あ、あり得ん……こんなことが……!」
ヴァルター判事は顔面蒼白となり、取り乱しながら衛兵たちによって引きずり下ろされていった。略式裁判は完全に無効化され、中立なウルリヒ判事の指揮のもと、全貴族と平民が傍聴する『大裁判所での公開裁判』への移行が決定したのだ。
しかし、連行されるヴァルターを見送るハインツ伯爵は、絶望するどころか、私の車椅子の前まで歩み寄り、蛇のような不敵な笑みを浮かべた。
「見事な悪あがきだ、セシル。だが、明日の公開裁判には、帝都一の文書鑑定士ハンスを証人として用意してある。お前が手に入れた『放火指示書』が『精巧な偽造品』だと彼が証明した瞬間、お前も、ギルベルトも、偽造罪でギロチン行きだ」
ハインツの冷酷な囁きが、凍てつく法廷の空気をさらに冷たく引き締めた。私の心臓が、再び不気味な警告の鼓動を刻み始める。チェス盤の次の戦いは、すでに始まっていた。
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