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闇に潜む証拠

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「バルト・ハインツが、下層街を包囲した……」


 大書記院の少年助手テオがもたらした凶報は、深夜のエルンスト商会本部に冷たい緊張感を走らせた。ハインツ伯爵の甥であり、治安維持部隊の副隊長を務めるバルトが、放火の『真犯人』を捏造するため、下層街『ローゼンハイム』の武力弾圧を開始したというのだ。目的は明らかだった。大裁判所が開かれる前に、現場の証人となる平民たちを虐殺し、ハインツの放火計画の証拠を完全に闇に葬るつもりなのだ。


「ハインツめ、なりふり構わず証拠を握り潰すつもりか」


 漆黒の軍服を纏ったギルベルト・フォン・ヴァレリウスが、緋色の瞳に冷酷な怒りの炎を宿して立ち上がった。腰に帯びた『赤蓮の大剣』が、主の殺気に呼応するように微かに鳴動する。


「私の兵を放火魔の汚名から救うためなら、その治安部隊ごと踏み潰してやろう。全軍に突撃を命じる」


「お待ちください、ギルベルト閣下」


 私は車椅子の上から、掠れた声を絞り出して彼を制止した。ユリアンから贈られた『冬至草』を服用したことで、心臓を締め付ける過剰魔力の痛みは一時的に和らいでいたが、私の肉体は依然として壊れ物のように脆い。だが、頭脳だけは氷のように冷徹に回転していた。


「暴力に暴力を重ねれば、皇太后派に『私戦による国家叛逆』の絶好の口実を与えるだけです。武力でねじ伏せるのではなく、法をもって、彼らを合法的に武装解除させねばなりません」


「法だと? スラムが燃えているのだぞ。法の書面が炎を消すとでも言うのか」


 ギルベルトが傲慢に私を睨みつける。私はその威圧感に怯むことなく、脳内の三百年の帝国判例データベースを高速検索した。


「『帝国憲法第百二条・軍事治安補佐の義務規定』……大寒波による非常事態下において、地方治安部隊が暴動を未然に防げないと判断された場合、帝国正規軍は『治安維持の補佐』として合法的に介入し、現場の全指揮権を強制接収できる。バルトの弾圧は『平民の暴動を誘発する不適切な武力行使』にあたります。ギルベルト閣下、あなたの軍は『略奪を止める正義の守護者』として、合法的にスラムへ突入できるのです」


 ギルベルトは驚愕に目を見張った。武力こそがすべてと信じるこの男にとって、法律が「軍隊を動かす最強の盾」になるという発想は、まさに盲点だったのだ。


「……フン、面白い。法の抜け穴を盾に、大手を振ってハインツの犬どもを包囲できるというわけか。クラウス、レオンを伴って直ちに出撃するぞ」


「御意に、閣下」


 ギルベルトが風を巻いて執務室を去るのを見送りながら、私はチェス盤のもう一つの「王手」を指すべく、影に潜む同盟者に視線を送った。


「シエラ、ルディ。あなたたちには本命の任務を任せるわ」


 闇の中から、燃えるような赤髪を揺らしたシエラが、不敵な笑みを浮かべて姿を現した。その隣には、ヴァレンシュタイン家の没落本家再興のために命をかける従兄のルディが、緊張した面持ちで控えている。


「待ってたよ、セシル。あの強欲なハインツ伯爵の鼻を明かせるなら、なんだってやってやるさ」


「バルトが下層街に軍を引きつけている今、ハインツの本邸の警備は極限まで薄くなっているはずよ。シエラ、あなたの義賊団の隠密力と、ルディの鍵開けの技術を使い、ハインツの邸宅地下にある『ハインツの地下金庫』へ潜入して」


 私は膝の上に置かれた、父ハインリヒの『大判事の手記』をそっと指先でなぞった。


「狙うのは二つ。ハインツが汚職官僚たちと交わした『秘密の脱税帳簿』、そして今回の穀物倉庫放火を黒犬傭兵団に直接命じた『ハインツ伯爵の直筆指示書』よ。これさえ手に入れば、明日の大裁判所でハインツを合法的に処刑台へ送ることができるわ」


「任せておけ、セシル。お前の足となって、必ずその証拠を奪い取ってくる」


 ルディが力強く頷き、シエラと共に夜の闇へと消えていった。二重の急襲作戦――ギルベルトの武力を陽動とし、本命の証拠を闇から盗み出す。私の仕掛けたチェスの駒が、音もなく動き始めた。


 大吹雪が帝都を白く染める中、下層街『ローゼンハイム』は地獄と化していた。バルト・ハインツ率いる治安部隊が、怯える平民たちを力ずくで引きずり出し、偽の自白を強要しようと剣を突きつけている。スラムの家々に火が放たれ、黒煙が凍てつく夜空に立ち上る。


「全員捕らえろ! ヴァレリウス家の命令で穀物倉庫を放火したと、この書類に署名させるのだ!」


 バルトが傲慢な笑い声を上げたその瞬間、大地の地響きと共に、漆黒の甲冑を身に纏ったギルベルトの正規軍が、スラムの周囲を完全に包囲した。その圧倒的な軍勢と鉄血の覇気に、治安部隊の兵士たちの顔から一瞬にして血の気が引く。


「な、何事だ! これは治安部隊の管轄だぞ!」


 バルトが激昂して叫ぶが、ギルベルトの懐刀であるクラウス、そして近衛騎士のレオンが冷酷に告げた。


「『帝国憲法第百二条』に基づき、これよりヴァレリウス正規軍が治安維持の全権を掌握する。バルト・ハインツ、貴様の部隊は平民の暴動を扇動した疑いがある。直ちに武器を捨て、武装解除に応じよ。抗う者は、国家反逆罪としてその場で処刑する」


 ギルベルトが『赤蓮の大剣』を引き抜き、その刃から紅蓮の魔力の圧を放つ。その圧倒的な暴力を前に、治安部隊の兵士たちは次々と剣を地面に落とし、膝を屈していった。陽動は完璧だった。


 同じ頃、帝都の北地区にそびえ立つハインツ伯爵邸の地下深く。シエラとルディ、そして副官のフリッツは、張り巡らされた警備の網をすり抜け、最深部にある『ハインツの地下金庫』の前へと到達していた。


 目の前に立ちはだかるのは、魔術的な硬度を持つ鋼鉄の二重扉。その表面には、不気味に青白く光る幾何学模様の古代魔術ロックが施されていた。


「くそ、物理的な鍵穴がないぞ。どうやって開けるんだ?」


 ルディが焦り、短剣の先で魔術陣に触れようとした瞬間、バチリと激しい火花が散り、金庫室全体に警報の魔力が走りかけた。


「待ちな、ルディ! 素人が触ると防衛結界が起動して、あたしたちごと消し飛ぶよ!」


 シエラがルディの手首を掴んで引き戻す。金庫室の空気中に、微かに甘い匂いが漂い始めた。毒ガスのトラップが作動し始めているのだ。時間がなかった。活動限界の迫るセシルの頭脳と同期しなければ、全員がここで死ぬ。


 シエラは懐から、伝令の少年ベルントを通じてセシルと繋がっている通信用の魔音石を取り出した。


「セシル、聞こえるかい!? 金庫の前まで来たけど、見たこともない幾何学模様の魔術ロックがかかってる! 三角形と円が複雑に重なり合ってて、下手に触ると自爆しそうだ!」


 ヴァレンシュタイン邸の書斎。車椅子の上で目を閉じていた私は、魔音石から伝わるシエラの言葉を聞き、脳内の『絶対記憶(レコーダー)』を起動した。父ハインリヒが遺した手記の行間、そして初代大判事フランツが構築した古代魔術の文法規則が、脳裏に超高速で展開されていく。脳が急速に発熱し、心臓にギリギリと鋭い痛みが走る。だが、止めるわけにはいかない。


「シエラ、落ち着いて私の指示通りに。……その幾何学模様は、古代神聖文字の『逆説の天秤』を模した術式よ。物理的に壊すことはできないけれど、術式の『前提の矛盾』を突けば、無血で自壊させられるわ」


 私は掠れた声を絞り出し、脳内でデコードした解除手順を伝達した。


「左上の三角形の頂点に、ルディの短剣で魔力を一瞬だけ流して。次に、中央の円の右端を、右から左へと円を描くように指でなぞるの。最後に、術式の結節点である底辺の文字を――」


 金庫室内で、シエラとルディは私の冷徹な指示に従い、正確に指先を動かした。最後の一手をルディが刻み込んだ瞬間、ゴツン、という重厚な金属音が地下室に響き渡り、結界の青い光が霧散した。


「開いた……!」


 ルディが驚愕の声を上げる。鋼鉄の二重扉がゆっくりと左右に開き、その内部に隠されていた莫大な金貨と、数々の極秘公文書が姿を現した。


 しかし、同時に金庫室の天井から、不気味な黒い霧が噴出し始めた。防衛システムが作動し、高濃度の遅効性毒ガスが部屋を満たしていく。吸い込めば数秒で肺が焼けただれる猛毒だ。


「ルディ、シエラ、早く! 長居はできないよ!」


 副官のフリッツが叫び、大剣を振るって天井の換気口を物理的に叩き壊した。外からの冷たい寒風が流れ込み、毒ガスが微かに薄れる。その隙に、シエラは棚の奥に隠されていた、ハインツ伯爵の『秘密の脱税帳簿』と、穀物倉庫放火を黒犬傭兵団に直接命じた『ハインツ伯爵の直筆指示書』を鷲掴みにした。


「手に入れたよ、セシル! ずらかるよ!」


 シエラたちは、駆けつける警備兵の足音を聞きながら、隠し通路へと滑り込み、無血での証拠奪取に成功したのだった。


 深夜、ヴァレンシュタイン邸のセシルの寝室。


 暖炉の火が静かに爆ぜる部屋で、私はベッドの背もたれに体を預け、激しい呼吸を整えていた。ハンナが心配そうに、冬至草を調合した温かい薬膳スープを口元に運んでくれる。スープの冷たい香りが、酷使した脳と痛む心臓をゆっくりと癒やしていく。


 手元には、ルディが命懸けで持ち帰ってきた、ハインツの『脱税裏帳簿』と『直筆指示書』の原本が置かれていた。この紙切れ一枚一枚が、ハインツ伯爵、そして買収されたヴァルター判事を、明日の大裁判所で合法的に完全破滅させるための『死神の鎌』となるのだ。


「よくやってくれたわ、ルディ、シエラ……。これで、チェス盤の王(キング)は完全に詰んだわ」


 私は自らの知略の勝利を確信し、静かに目を閉じた。ギルベルトの軍権を守り、ハインツを奈落へと突き落とす。すべては私の計画通りに進んでいた。


 ――その時だった。


 寝室の温度が、不自然に、そして急激に低下した。暖炉の炎が青白く縮み、窓ガラスに一瞬にして凍りつくような霜が走る。私の『毒物感知』の生理現象が、心臓を締め付けるような不気味な警告の鼓動を打ち鳴らした。


(この冷気は……ただの寒波ではない。魔術的な『死』の気配よ)


 私は目を見開き、暗闇に沈む寝室の隅を凝視した。影が、生き物のように蠢き、立ち上がっていく。そこには、音もなく、気配すらも消し去った漆黒の仮面の暗殺者が立っていた。恩師ゲオルグを血の海に沈めた、ハインツの切り札――凄腕の魔術暗殺者『影無し』。


 暗殺者が、魔力を吸い取る漆黒の暗殺短剣を逆手に持ち、私のベッドへと一歩を踏み出す。


「お嬢様……!」


 ハンナが身を挺して私の前に立ちはだかろうとしたその瞬間、寝室の闇から、もう一つの影が高速で飛び出した。隻眼の老剣士オットーが、ハインリヒから授かった名刀『白夜』を音もなく引き抜き、暗殺者の刃を紙一重で受け止めたのだ。


 キィィィン、と、鼓膜を裂くような金属音が、凍てつく寝室に響き渡った。暗殺者の冷酷な仮面の奥の瞳が、私の命を刈り取るために、暗闇の中で不気味に光り輝いていた。

HẾT CHƯƠNG

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