価値ある投資
「……どうする? 『書庫の幽霊』」
ユリアン・フォン・エルンストの冷徹な声が、暖房の効いた豪奢な執務室に響いた。彼の細く美しい指先が、私の白い首元を愛撫するように、しかし確実に頸動脈を圧迫しながら這っている。至近距離で見つめてくるエメラルド色の瞳は、獲物を値踏みする冷酷な天秤そのものだった。
喉の奥が焼けつくように渇き、掠れた呼吸が唇の隙間からこぼれる。大書記院の禁書庫から父の手記を回収し、さらに治安部隊の尋問室でギルベルトを救うために脳をフル稼働させた代償が、今になって私の肉体を苛んでいた。脳に過剰な魔力が集中し、心臓を激しく圧迫する不治の病――過剰魔力症の発作が、胸の奥で鋭い針のように突き刺さっている。ハンナが処方してくれた延命薬の効果も切れかけており、私の活動限界は残り一時間を切っていた。
「ユリアン閣下……手を、お退けになって」
背後に控えるハンナの手が、主人の危機を察知して袖口の暗器へと伸びる。尋問室で警備隊長を圧倒したあの冷徹な侍女の瞳が、今は怒りと焦燥で燃えていた。私は微かに右手を動かし、ハンナに「待て」と無言の合図を送る。ここでユリアンに物理的な暴力を振るえば、ヴァレンシュタイン家は不法侵入と公爵家への傷害罪で即座に破滅する。武力なき私が戦う武器は、常に言葉とロジックだけだ。
「おや、まだ交渉を続ける気ですか?」
ユリアンは優雅に唇を歪め、さらに指先に微かな力を込めた。私の視界がチカチカと明滅し、白銀の髪が彼のプラチナブロンドの髪と交じり合う。息が詰まるような死の気配の中で、彼は囁く。
「君が提示した『非常事態備蓄接収法』の計略は確かに面白い。だが、リスクが高すぎる。ハインツ伯爵はすでに帝都の穀物市場を握り、皇太后とも繋がっている。没落したヴァレンシュタイン家の、いつ死ぬともわからない病弱な女を味方にするより、君の身柄をハインツに売り渡して『貸し』を作った方が、エルンスト商会にとってはるかに確実で安全な利益になる。商人とは、常に裏切りのコストと協力を天秤にかけるものですよ」
完璧な合理主義。彼にとって、私はただの「不確定な投資対象」に過ぎないのだ。ここで私の価値がユリアンの「安全な利益」を下回れば、私は明日の朝を待たずにハインツの拷問室へ送られるだろう。
私は痛む胸を押さえながら、残された体力を振り絞って右手を伸ばした。そして、私の首を絞めるユリアンの冷たい手首を、自らの細い指でそっと包み込む。
「な……何をする気ですか?」
ユリアンが眉をひそめた。その瞬間、私は『嘘の心音感知』を起動した。
極限まで研ぎ澄まされた私の聴覚と感覚が、ユリアンの手首の脈動を通じて、彼の心臓の音を不気味なほど鮮明に捉える。ドクン、ドクン、ドクン――。規則正しく、機械のように冷徹な鼓動。だが、私が「ある言葉」を脳内で選択した瞬間、その鼓動の波形を正確に予測し、彼の喉元を食い破る準備を整えた。
「ユリアン閣下。あなたは私が『ハインツに売る方が利益になる』と仰ったわね。……では、その天秤を、今から私が叩き壊してあげるわ」
私は掠れた声を絞り出し、彼の耳元で静かに囁いた。
「帝国暦二九五年の冬。先帝フリードリヒの統治時代、黄金天秤商会が極秘裏に処理した『使途不明金』の件について、お話ししましょうか」
その瞬間、ユリアンの手首の鼓動が、ドクンと大きく跳ね上がった。彼の美しいエメラルド色の瞳の奥に、初めて本物の動揺と、底知れない警戒の色が走る。私はその変化を逃さず、脳内の『絶対記憶』に保存された、父ハインリヒの手記の記述をそのまま口頭で再現した。
「総額、金貨三千万枚。帝都の平民から不当な重税として搾取され、皇室の秘密金庫にプールされていた裏金よ。それを、あなたの実家であるエルンスト家は、黄金天秤商会の海外交易ルートを偽装して隣国アルカディアへと流した。……皇太后すらも知らない、先帝とエルンスト家だけの『秘密の資金洗浄(マネーロンダリング)』。その取引日付、中継口座、そしてあなたの祖父であるエルンスト老当主の直筆の暗号署名コードは――」
私が最初の取引コードを正確に読み上げた瞬間、ユリアンの顔からすべての血の気が引き、その表情は凍りついた氷像のようになった。首にかけられていた指先が、今度は殺意そのものとなって私の喉を締め上げる。
「……どこでそれを手に入れた。今ここで君の首をへし折れば、その戯言はすべて消える」
彼の声は、もはや優雅な貴公子のそれではなく、裏社会の支配者としての冷酷な獣の唸り声だった。背後でハンナが動こうとするが、私は視線だけで彼女を制止し、ユリアンの殺気を受け流すように静かに微笑んだ。息ができない。だが、私の勝ちだ。
「無駄よ……ユリアン。私が死ねば、大書記院の地下書庫に私が仕組んだ自動開示プログラムが起動するわ。私が十二時間以内に大書記院のシステムに特定の『生存信号』を送らなければ、この資金洗浄の全記録が、帝都の全貴族、そして帝国教会の大司教の元へ一斉に郵送されるようになっている。エルンスト商会は国家反逆罪と不法送金罪で即座に資産を凍結され、あなたの実家は破滅する。私を殺すコストは、商会を滅ぼすほど重いわ」
ゲーム理論における二者択一。ユリアンに残された道は、私を殺して自滅するか、私の条件を飲んで生き残るか、そのどちらかしかない。
ユリアンの指先が微かに震え、やがて、ゆっくりと私の首から離れていった。彼は立ち上がり、激しい呼吸を整えながら、信じられないものを見るような目で私を見下ろした。
「……化け物め。没落貴族の病弱娘が、まさか我が家の喉元を完全に握っているとはね。先帝の秘密をそこまで正確に掴んでいる者は、帝都広しと言えども君だけだ」
「お褒めいただき光栄だわ、ユリアン閣下」
私は激しく咳き込み、ハンナが差し出した温かいハンカチで口元を押さえた。喉の奥から鉄の味が広がる。活動限界が近づき、心臓が痛烈に締め付けられていた。だが、チェス盤の王(キング)はすでに私の罠に嵌まっている。
「だけど、私はあなたを破滅させたいわけではないの。むしろ、その逆よ」
私は呼吸を整え、彼に「救済」のカードを提示した。
「帝国税法第百四十条『戦時特別控除』の不整合……この法理のバグを利用すれば、先帝時代の資金移動を『国家防衛のための極秘軍需物資購入』として合法的に再定義できる。そうすれば、過去の資金洗浄の痕跡は永久に隠蔽され、皇太后派も手出しできなくなるわ。それどころか、南部リベルタの通行税徴収権を合法的に二倍に引き上げる税法解釈を、私があなたに授ける。――これで、エルンスト商会の利益は倍増するわ。どうかしら、私の知恵は『価値ある投資』だと思わない?」
ユリアンは呆然とした後、ふっと低く、狂おしげに笑い始めた。彼のエメラルド色の瞳に宿ったのは、恐怖を通り越した、狂信的なまでの所有欲と魅了の光だった。彼は再び私の前に跪き、今度は私の冷たい右手を両手で包み込むように握りしめた。
「……素晴らしい。鳥肌が立つほどの天才だ、セシル。君をハインツに売り渡すなど、生涯最大の損失になるところだった。君の言う通り、これは僕の人生で最も『価値ある投資』だ」
ユリアンは懐から、魔力認証付きの最高級の羊皮紙を取り出し、自らの指先を微かに傷つけて血印を押した。エルンスト商会の公式印章が押されたその書類は、実質的な『仮初めの婚姻契約(パトロン契約)』である『エルンストの黄金天秤手形』だった。
「これで君は、僕の公式な婚約者であり、エルンスト商会の最優先投資対象だ。君の法律事務所の立ち上げ資金と、無制限の財務支援を約束しよう。僕の部下である財務官ミカエルを君の元へ派遣し、実務を管理させる」
「契約成立ね、ユリアン。賢い選択だわ」
私が手形を受け取った瞬間、ユリアンは執務室の奥から、美しく装飾された小さな白磁の箱を持ってきた。蓋を開けると、中には極寒の地でしか採れない、不気味なほど青白く輝く希少な薬草が入っていた。
「契約の証です、セシル。君の心臓の病を一時的に抑える『冬至草』の乾燥根だ。君に死なれては、僕の投資が台無しになるからね。看病は僕の義務だ」
冬至草の冷たい香りが、私の痛む胸を微かに和らげる。これで当面の活動時間は確保された。しかし、安堵したのも束の間、執務室の重い扉が激しく叩かれた。入ってきたのは、顔を青ざめさせた大書記院の少年助手、テオだった。
「セ、セシル様! 大変です!」
「テオ、落ち着きなさい。何があったの?」
「ハインツの甥、バルト・ハインツが率いる治安部隊が、下層街『ローゼンハイム』を包囲しました! 放火の『真犯人』として平民たちを不当逮捕し、口封じのためにスラム全体を武力弾圧し始めています!」
その報告を聞いた瞬間、私の紫の瞳に、冷徹な復讐の炎が再び灯った。ハインツめ、大裁判所の前に証拠を完全に握り潰すつもりね。だが、チェス盤の次の手は、すでに私の頭脳の中で確定していた。
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