黄金の天秤を揺らす者
帝国暦三〇〇年、未曾有の大寒波は帝都ヴァルハイトを容赦なく凍てつかせていた。
昨夜、クローネ倉庫街を焼き尽くした大火の煙は、灰色の雪となって街に降り注いでいる。パンの価格は一晩で十倍に跳ね上がり、下層街の平民たちは餓死寸前の瀬戸際に立たされていた。飢えと寒さに狂った群衆がいつ暴動を起こしてもおかしくない、極限の緊張状態。
しかし、帝都の経済的心臓部である「エルンスト商会本部」の門をくぐった瞬間、その退廃的な光景は嘘のように消え去った。
床には一面の白大理石が敷き詰められ、壁には極東から取り寄せられた最高級の絹のタペストリーが飾られている。空気は魔導暖房によって春のように暖かく、かすかに甘い白檀の香りが漂っていた。外の飢饉など、まるで別世界の出来事であるかのような傲慢なまでの豪華絢爛さ。
「は、はぁ……っ……」
ハンナに車椅子を押されながら、セシルはかすかに喉を鳴らした。尋問室での激しい発作の余韻はまだ心臓に残っており、胸の奥が冷たく疼く。さらに、商会本部の極度に乾燥した温風が、彼女の荒れた気管を刺激していた。喉の奥が焼けつくように痛み、声を出そうとすると微かに掠れてしまう。
「これはこれは。ヴァレンシュタイン家の『書庫の幽霊』が、僕の城に何の用ですか?」
大理石の回廊の奥、金装飾が施された豪奢な執務室で、一人の男が優雅にソファーに腰掛けていた。
ユリアン・フォン・エルンスト。十九歳。波打つ美しい白金髪に、すべてを見透かすようなエメラルド色の瞳。彼は最高級の絹のドレスコートを纏い、細い指先で黄金の天秤を模した指輪を弄んでいた。その仕草は蛇のようにしなやかで、同時に底知れない冷徹さを秘めている。
「昨夜はヴァレリウスの狂犬を尋問室から救い出したそうですね。没落貴族の病弱令嬢が、ずいぶんと大それた真似をする」
ユリアンはエメラルド色の瞳を細め、セシルの車椅子を冷ややかに値踏みした。その視線には、彼女の肉体的な脆弱さに対する侮蔑と、それを補って余りある「知性」への好奇心が混ざり合っている。
「時間がないわ、ユリアン閣下。明日の朝、ハインツ伯爵が買収したヴァルター判事による非公開の略式裁判が開かれる。それまでに、ハインツの資金源を破壊し、裁判を凍結させなければならない」
セシルは掠れた声を振り絞り、車椅子の上で背筋を伸ばした。その紫の瞳には、死の影を宿しながらも、決して屈しない気高き光が宿っている。
「ふん、ハインツの資金源ね」ユリアンは小さく鼻で笑った。「それは、僕の友であるルパート子爵が買い占めている『備蓄小麦』のことですか? 彼は賢い商人だ。需要が高まった物資の価格を釣り上げるのは、商業の基本ですよ。商人は国家の法律ではなく、利益のルールに従う。僕がなぜ、君たちのくだらない正義のために、利益を手放さねばならない?」
完璧なまでの実利主義。ユリアンは「正義」や「人道」では一切動かない怪物だった。
「これは正義の議論ではないわ。――あなたの『生存』と『独占』の取引よ」
セシルは冷徹に言い放ち、脳内の絶対記憶データベースを起動した。彼女の紫の瞳が一瞬だけ細くなり、過去の数字が脳裏に青く浮かび上がる。
「判例高速検索(レコーダー)……ルパート子爵が過去三ヶ月間に買い占めた小麦の総量は、帝都の全備蓄の実に八割。その買い占め資金の七割は、ハインツ伯爵が管理する帝国財務省の裏予算から流出している。ユリアン閣下、ルパートはハインツの『代理人』に過ぎない。彼らの狙いは、人工的な飢餓を作り出して平民の暴動を煽り、帝都に戒厳令を敷くこと。そして――」
セシルはそこで言葉を区切り、ユリアンの瞳を真っ直ぐに見据えた。
「戒厳令の混乱に乗じて、エルンスト商会が南部リベルタに持つ『通行税徴収権』を、国家保安の名目で強制的に接収することよ。ルパートの市場独占を放置すれば、最終的に破滅するのはエルンスト商会、あなた自身よ」
ユリアンの弄んでいた天秤の指輪が、ピタリと止まった。彼の美しい微表情が一瞬だけ硬直する。セシルが提示した数字と、ハインツの真の狙いは、エルンスト商会の極秘情報網すらも掴んでいなかった正確な事実だったからだ。ユリアンのエメラルド色の瞳に、本物の戦慄と驚愕が走る。
「……信憑性のあるデータですね。だが、ハインツが動く前に僕がルパートを金で買収すれば済む話だ」
「それは不可能よ。ハインツはすでに、ルパートの全資産を担保にした秘密の誓約書を握っている。買収の余地はないわ」
セシルはチェス盤の次の手を進めるように、冷酷な法理を突きつけた。
「だからこそ、法的に強奪するのよ。――帝国憲法第12条『非常事態備蓄接収法』を用いて」
「非常事態備蓄接収法……?」ユリアンが眉をひそめる。
「ええ。帝都が飢饉の危機に瀕した際、軍事指揮官は民間が隠匿している食料を『戦前価格』で強制接収できる。私はすでにギルベルトと契約を結び、彼の軍事権力を手に入れた。ギルベルトの権限でこの法を発動すれば、ルパートの隠し倉庫にある小麦を、一銭の損失もなく合法的に没収できるわ」
「面白い。だが、軍に小麦を接収したところで、彼らにはそれを市場に流通させるノウハウも、平民に配給する組織力もない。ただの略奪で終わるだけだ」
「だからこそ、あなたが必要なのよ、ユリアン」
セシルはかすれた声で、しかし極めて甘美な罠を提示した。
「没収した小麦の『独占流通販売権』を、エルンスト商会に一任する。あなたは戦前価格で手に入れた小麦を、適正な価格で平民に販売し、莫大な仲介利益を得ることができる。ハインツの資金源を完全に破壊し、同時にエルンスト商会は帝都の穀物市場を完全に独占する。――これ以上の『投資』が他にあるかしら?」
沈黙が執務室を支配した。ユリアンはソファーから静かに立ち上がり、セシルの車椅子へと近づいてきた。彼の足音は大理石に吸い込まれ、不気味なほどの静寂が漂う。
ユリアンは車椅子の前に膝をつき、セシルの顔のすぐ近くまで顔を寄せた。彼の美しい白金髪がセシルの頬に触れ、エメラルド色の瞳が至近距離で彼女を射抜く。
「……極めて魅惑的なギャンブルだ。ぞくぞくするほど美しいロジックだ、セシル・ヴァレンシュタイン」
ユリアンは優雅に微笑みながらも、その声は凍りつくほど冷たかった。彼の細い指先が、セシルの白い首元へと伸び、かすかに脈打つ頸動脈を優しくなぞる。
「だけど、僕は商人だ。リスクの管理を怠る商人は、すぐに破産する。君の頭脳がそれほど優秀なら、いつか僕の心臓をも法的に食い破るかもしれない。……君がエルンスト商会に牙を剥かないという『絶対的な価値』を、今ここで証明してもらおうか」
ユリアンの指先に微かな力がこもる。セシルの呼吸が止まり、心臓が痛烈に締め付けられた。
「もし証明できなければ……僕は今すぐ、君の身柄をハインツ伯爵に売り渡す。その方が、僕にとっては確実で安全な利益になる。さあ、どうする? 『書庫の幽霊』」
ユリアンの冷酷な値踏みと、首元にかかる死の重圧。セシルの活動限界時間が刻一刻と削られる中、二人の命懸けの経済交渉は、極限の緊迫感の中で火花を散らしていた。
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