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鉄血の将帥と車椅子の取引

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凍てつく帝都の闇を、一台の馬車が猛然と疾走していた。大寒波の風が車体を激しく叩き、窓の外にはクローネ倉庫街から立ち上る黒煙が、雪雲を赤黒く染めている。車内には、重苦しい沈黙と焦げた小麦の臭いが充満していた。


「お嬢様、これ以上の無茶は魂を削るに等しい行為です……!」


 専属侍女のハンナが、青ざめた顔でセシルの右腕に白い包帯を巻き付けていた。焼け焦げた瓦礫から身を乗り出した際に負った擦り傷からは、今も赤い血が滲み、セシルの白銀のドレスの袖を汚している。だが、セシル・ヴァレンシュタインはその痛みさえも、自らの脳を覚醒させるための刺激として受け入れていた。


「まだよ、ハンナ。私の活動限界はあと二時間もない。心臓の鼓動が速まっているのは、寒さのせいだけではないわ」


 セシルは、布に包まれた青い微細な粉末――放火の現場から命懸けで回収した魔導触媒『硫黄の結晶』の残渣を、壊れ物を扱うようにそっと指先でなぞった。そして、外套の内ポケットに収められた父の遺品『大判事の手記』の重みを感じる。手記には、四大名家の前家督たちが父ハインリヒを陥れた汚職の記録が眠っている。ギルベルト・フォン_ヴァレリウスは、父を殺した仇の息子なのだ。


(ギルベルト……。あなたは私の宿敵の血を引く男。けれど、今の私には、皇太后とハインツを法廷で引きずり下ろすための最強の『盾』が必要なの。あなたの持つ圧倒的な武力を、私の知略の檻に従わせてみせる)


 馬車は運河を渡り、帝都の北西にそびえ立つヴァレリウス公爵邸へと滑り込んだ。それは邸宅というよりも、黒鉄の城壁に囲まれた無骨な要塞だった。門前には、鎧を纏った鋭い眼光の私兵たちが立ち並び、張り詰めた殺気を漂わせている。


「止まれ! ここは帝国軍総帥ギルベルト閣下の直轄地だ。何者だ!」


 馬車が止められた瞬間、ギルベルトの懐刀である十人長、クラウスが冷酷な表情で進み出てきた。彼は馬車の窓から覗くセシルの青白い顔と、車椅子を見下し、明確な侮蔑の光を瞳に宿した。


「没落したヴァレンシュタイン家の生き残りか。書庫の幽霊が、何の用だ。総帥閣下は今、放火テロの濡れ衣と兵士たちの拘束により、極めて不機嫌であられる。命が惜しくば立ち去れ」


「クラウス殿」


 セシルは車椅子の上で、掠れた、しかし凛とした声で応じた。彼女は懐から、かつて父が所持していた『大判事の黄金印章』を微かに見せ、さらにクラウスだけに聞こえる声で告げた。


「大書記院の記録によれば、ヴァレリウス家が東部領地で不法に運用している私設関門の記録が、私の脳内データベースに保管されています。これが公になれば、閣下の軍権剥奪はさらに早まるでしょう。……私を通すか、ここで主君の首を絞めるか、選びなさい」


 クラウスの目が見開かれ、腰の剣に手が伸びかけた。だが、セシルの紫の瞳に宿る、一切の揺らぎのない冷徹な光に圧され、彼は息を呑んだ。この病弱な娘は、自らの命を人質にして取引をしているのだ。


「……通せ。ただし、閣下の御前で不審な動きをすれば、その首は即座に飛ぶと思え」


 重厚な鉄門が開き、ヨナスは静かに馬車を進めた。要塞の奥深く、ギルベルトの執務室は、暖炉の火さえも冷たく感じられるほど凍りついていた。


 部屋の奥に、その男は立っていた。燃えるような赤髪に、鋭い緋色の瞳。鍛え上げられた強靭な体躯に漆黒の軍服を纏ったギルベルト・フォン_ヴァレリウスは、部屋に侵入した車椅子の少女を、底冷えのする視線で射抜いた。


「武力ゼロの病弱な女が、何の用だ。私の前に現れたということは、死を望んでいると見ていいのだな」


 ギルベルトは一歩を踏み出し、腰に帯びた『赤蓮の大剣』を音もなく引き抜いた。冷たい刃が、セシルの透き通るような白い首元に突きつけられる。刃先から伝わる絶対的な死の予感に、セシルの心臓がキュッと悲鳴を上げ、呼吸が浅くなった。


 だが、セシルは脈拍を乱さなかった。彼女は静かに目を閉じ、ギルベルトの激しく荒い呼吸のペースを耳で捉えた。そして、自らの呼吸をそのペースにあえて同調させ、徐々に、深く、遅くしていく――『呼吸同調交渉術』。人間という獰猛な獣の警戒心を解くための、精神的調律だった。


 数秒の後、ギルベルトの刃先にかかっていた異常な殺気が、微かに揺らぎ、和らいだ。男は怪訝そうに眉をひそめる。


「……妙な術を使うな。だが、法理や知略など、私の武力の前には無力だ。ハインツが仕掛けた放火の罠など、力でねじ伏せれば済むこと」


「力、ですか」


 セシルはモノクルの奥の紫の瞳を開き、冷徹な笑みを浮かべた。


「その圧倒的な武力が、今まさにハインツの引いた『法』という蜘蛛の糸に絡め取られ、軍権ごと奪われようとしている現実をお忘れですか、総帥閣下」


「何だと?」


「クライン警備隊長が、あなたの若い兵士たちを尋問室へと連行しました。彼らは今、苛烈な拷問を受けようとしています。『ギルベルトの指示で放火した』という偽の自白書に署名させるために。もし彼らが屈すれば、皇帝の罷免勅令が下り、あなたの軍隊は合法的に解体されます。暴力は、それを縛る法理の前には無力なのです」


 ギルベルトの緋色の瞳に、激しい怒りと焦燥の火花が散った。彼は大剣を握り直す。だが、セシルは動じず、懐から布に包まれた青い粉末を差し出した。


「ですが、これがあれば形勢は逆転します。放火現場の火元から、私が直接回収した魔導触媒『硫黄の結晶』の残渣です」


「これは……皇太后の直属機関しか所持し得ない最高機密の火薬か!」


 ギルベルトは息を呑んだ。彼ほどの軍事の天才であれば、この物証が持つ法的な意味を一瞬で理解できた。放火テロはヴァレリウス家の仕業ではなく、皇太后派による自作自演であるという、言い逃れのできない物理的物証。これこそが、彼の軍権を救う唯一の鍵だった。


「これをあなたに提供し、法廷での完璧な無罪を保証します。……その代わり、私と取引をしていただけないかしら」


 セシルは車椅子の膝の上に、一枚の漆黒の羊皮紙を展開した。それは、彼女が自らの血で起草した『ヴァレリウスの黒鉄誓約書』――仮初めの婚姻契約書だった。


「私の頭脳があなたの軍権を守る盾となる代わりに、あなたの圧倒的な武力で、私の生涯の安全を保障していただく。これは、法と暴力を結びつける、最も強固な契約です」


 ギルベルトはセシルを凝視した。目の前にいるのは、風が吹けば壊れてしまいそうなほど儚く、病弱な少女だ。右腕からは今も血が流れ、呼吸さえも苦しげに喘いでいる。しかし、その瞳に宿る知性は、帝国の覇者である自分を完全にチェス盤の駒として支配していた。


 弱者を激しく嫌うはずのギルベルトの胸の奥で、ゾクッとするような、狂気的な独占欲が静かに揺り起こされた。


「面白い……。武力ゼロの病弱女が、私を飼い慣らそうというのか」


 ギルベルトは冷酷に微笑むと、自らの指先を大剣の刃で浅く切り裂いた。滴る赤い血を、婚姻契約書の署名欄に乱暴に押し付ける。赤と黒の血印が、漆黒の羊皮紙の上で妖しく光を放った。


「契約は成立だ、セシル。お前は私のものだ。私の許しなく死ぬことは絶対に許さん。……だが、猶予はないな。クラインの尋問が始まる」


「ええ、急ぎましょう。……尋問室を、私たちの最初の法廷にするために」


 セシルは過剰魔力の発作による激しい咳き込みを必死に堪えながら、車椅子の手すりを強く握りしめた。チェス盤の最初の飛車(ルーク)は、今、彼女の手に落ちたのだ。

HẾT CHƯƠNG

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