仕組まれた焦土
帝都「ヴァルハイト」の夜空を不気味な紅蓮に染め上げる大火災は、冷たい吹雪さえも蒸発させるほどの熱気を放っていた。馬車の窓から見えるその光景は、まさに地獄の焦土そのものだった。立ち上る黒煙が雪雲と混ざり合い、帝都の運河沿いに位置する穀物倉庫街「クローネ」を容轄なく飲み込んでいく。
「お嬢様、この大寒波と煙の中へ行くなど、本当に自殺行為です! ただでさえ魔力過剰による発作が治まったばかりなのですから!」
並走する馬車の中で、専属侍女のハンナが悲痛な声を上げた。彼女の手には、少しでもセシルの体温を維持するための温かい毛布と、緊急用の薬瓶が握られている。
「止めないで、ハンナ。時間がないのよ」
セシル・ヴァレンシュタインは、青白い顔に冷徹な笑みを浮かべたまま、窓の外を凝視していた。極寒の冷気が肺の奥を刺し、呼吸をするたびに心臓がかすかに締め付けられる。だが、彼女の瞳に宿る知性の光は、肉体の脆弱さとは裏腹に、鋭く、研ぎ澄まされていた。
「ハインツ伯爵は、この放火テロの罪をヴァレリウス公爵家――軍帥ギルベルトに着せようとしている。もし彼が反逆罪で拘束されれば、帝都の武力均衡は崩壊し、皇太后マリア・テレジアの完全な独裁が完成するわ。そうなれば、我がヴァレンシュタイン家の再興も、父様の冤罪を晴らすことも、永遠に不可能になる」
セシルは、外套の中に隠した父の遺品『大判事の手記』をそっと指先でなぞった。手記に記されていた残酷な真実――父を処刑台に送った判決文には、ギルベルトの父親の署名もあった。彼は父の仇の息子だ。
(ギルベルト・フォン・ヴァレリウス。あなたは私の仇の息子。……けれど、私のチェス盤において、あなたは最も強力な牙を持つ『飛車』よ。こんな安っぽい罠で、ハインツごときに喰い殺させるわけにはいかないわ)
馬車がクローネ倉庫街の境界に近づくと、周囲の緊張感は極限に達していた。大通りはすでに、ハインツ伯爵の甥であるバルト・ハインツが率いる治安部隊によって完全に封鎖されている。一般人の立ち入りは厳しく制限され、野次馬たちを乱暴に追い払う治安兵の怒号が響いていた。
「正面からは入れないわね。……ヨナス、運河沿いの古い荷揚げ場跡から回り込んで。あそこなら、大寒波による氷結で警備兵も油断しているはずよ」
「御意にお嬢様。衝撃には十分にお気をつけください」
御者台からヨナスの無骨な声が返ってきた。元軍事馬車乗りである彼の操縦技術は、まさに神業だった。馬車は凍結した狭い路地へと滑り込み、車輪が氷の上で微かにスライドしながらも、車内にいるセシルの体に一切の衝撃を与えることなく、暗闇の裏路地を駆け抜けていく。
運河沿いの船着き場に馬車を止めると、セシルはハンナに支えられながら車椅子へと移った。鼻を突くのは、焦げた小麦の臭いと、不自然に鼻腔を刺激する魔術的なオゾンの臭いだ。
「ここで待っていて、ハンナ。私が合図するまで動かないで」
セシルは車椅子の車輪を自ら回し、焼け焦げた倉庫の瓦礫の影へと侵入した。煙が視界を遮り、冷たい泥が車輪を重くする。肺が煤を吸い込み、激しい咳が出そうになるのを、彼女は必死に堪えた。
右手を伸ばし、父の形見である『ヴァレンシュタインの片眼鏡』を右目に装着する。微量な魔力を流すと、モノクルの特殊な偏光ガラスが起動し、世界の色が反転した。通常の光が消え、魔力の残滓が青い蛍光となって視界に浮かび上がる。
セシルは瓦礫の隙間を凝視した。通常の捜査官たちは、現場にわざとらしく放置された「ヴァレリウス家の軍服を着た兵士の死体」に群がり、ハインツの思惑通りに動いている。だが、セシルの目は、その死体ではなく、火災の「起点」となった場所を探していた。
(死体の周囲には、不自然なほど魔力の流れがない。やはり、あの死体は後から持ち込まれた偽装ね。本物の点火源は……あそこよ)
モノクルの奥で、半壊した木箱の隙間から、異常に濃い青い光が立ち上っているのが見えた。セシルは車椅子を極限まで近づけた。だが、泥に車輪が取られ、これ以上進めない。
「届きなさい……!」
セシルは車椅子から身を乗り出し、細い腕を伸ばした。その瞬間、車椅子のバランスが崩れ、彼女の体は凍りついた泥の中へと滑り落ちそうになった。
「っ……!」
辛うじて片手で焼け焦げた梁を掴んだが、右腕の細い皮膚が鋭い炭化木に擦れ、赤い血が滲む。同時に、極寒の泥の冷気が体温を急激に奪い、心臓がキュッと悲鳴を上げた。過剰魔力の暴走を告げる、鋭い警告の痛みだ。肺から空気が消え、セシルは激しく喘いだ。
それでも、彼女の指先は、目的のものを掴んでいた。焼け焦げた木箱の底に残された、青い微細な粉末――魔導触媒『硫黄の結晶』の燃え残りだ。
(回収、成功ね……。この触媒は一般流通が禁止されている、皇太后の直属機関からしか流出しない最高機密の火薬。ギルベルトの私兵が手に入れられる代物ではないわ。ハインツ、これがあなたの自作自演の証明よ)
その時、瓦礫の向こうから、重い鉄靴の足音が近づいてきた。治安部隊の松明の光が、セシルのいる暗がりに近づいてくる。
「おい、そこの影! 何をしている、一般人は立ち入り禁止だぞ!」
バルト・ハインツの声だった。叔父の威光を背景に、傲慢な笑みを浮かべたバルトが、私兵を引き連れてこちらへ向かってくる。見つかれば、証拠滅失の罪でその場で口封じに処されるだろう。
「ヨナス!」
セシルが掠れた声で鋭く叫んだ瞬間、闇の中からヨナスの操る馬車が猛然と突進してきた。バルトの兵士たちが驚いて飛び退く隙に、ハンナが影から飛び出し、セシルの体を車椅子ごと馬車へと引き上げた。
「追え! 曲者を逃がすな!」
バルトの怒号が響くが、ヨナスは凍りついた運河の縁で馬車を美しくスライドさせ、追手を煙に巻いて闇の中へと消え去った。
激しく揺れる馬車の中で、セシルは激しい咳を繰り返しながら、回収した『硫黄の結晶』を布に包んでしっかりと握りしめていた。右腕の傷から流れる血が、白銀のドレスの袖を赤く染めていく。ハンナが青ざめた顔で彼女の看病を行う。
「お嬢様、無茶が過ぎます……! 心臓の鼓動が異常に速いです!」
「大丈夫、物証は手に入ったわ。……だけど、見て、ハンナ」
セシルは馬車の後ろ窓から、遠ざかるクローネ倉庫街の光景を見つめた。松明の光の下で、ギルベルトの忠実な部下であるルーカス少尉の部下たち――若いヴァレリウス家の兵士たちが、クライン警備隊長によって乱暴に引きずられ、不当逮捕されていくのが見えた。
「クライン警備隊長が、彼らを尋問室へと連行していくわね。……あそこが次の戦場よ。彼らが拷問で『ギルベルトの指示だった』と偽の自白をさせられる前に、この物証を突きつけて、彼らの喉元を合法的に食い破らねばならないわ」
セシルの紫の瞳に、冷徹な復讐の炎と、チェス盤の王(キング)を支配せんとする冷酷な知謀の光が宿っていた。
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