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禁書庫の遺志

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凍てつく帝都の夜は、呼吸をするだけで肺の奥がちりちりと痛むほどに冷え切っていた。窓の外では、大寒波の始まりを告げる猛烈な地吹雪が、ヴァレンシュタイン邸の古びた石壁を容赦なく叩いている。


 広間の暖炉の前で、セシル・ヴァレンシュタインは車椅子に深く身を沈め、静かに呼吸を整えていた。先ほど分家の叔父ヴィルヘルムを法理の刃で叩き出した代償は、彼女の脆弱な肉体に確実に蓄積している。激しい思考の連続による脳の熱は、心臓を締め付ける鈍い痛みとなって、今も胸の奥で燻り続けていた。


「セシル様、これ以上のお体での外出は自殺行為です。ハインツ伯爵の陰謀が事実だとしても、まずは夜が明けるのを待つべきです」


 専属侍女のハンナが、心配そうにセシルの肩に厚手の毛皮の外套をかけながら、引き留めるように言った。その手には、魔力暴走を和らげるための温かい薬膳スープが握られている。


「いいえ、ハンナ。夜明けを待っていては遅すぎるわ」


 セシルはスープを受け取り、微かにかすれた声で静かに、しかし断固とした口調で返した。一口含むと、ハーブの苦味と温かさが喉を通り、暴走しかけていた体内の過剰魔力がわずかに落ち着く。


「ハインツ伯爵は、ギルベルト・フォン・ヴァレリウスを放火魔に仕立て上げ、その軍権を奪おうとしている。もし軍の最高指揮官であるヴァレリウス公爵家が失脚すれば、帝都の軍事バランスは一瞬で崩壊し、皇太后派による完全な独裁が完成するわ。そうなれば、没落した我が家の再興も、父様の冤罪を晴らすことも、永遠に不可能になる」


 セシルの深い紫の瞳に、冷徹な理性の光が宿る。彼女にとって、帝国軍総帥ギルベルトはまだ見ぬ存在であり、本来なら関わりのない権力者だ。だが、武力を持たない彼女がこの血塗られた宮廷闘争を生き抜くためには、彼を「最初の駒」として手に入れ、自らの知略の傘下に置かねばならない。そのためには、ハインツの陰謀を先回りして叩き潰すための「絶対的な切り札」が必要だった。


「父様が遺した『手記』……。大書記院の禁書庫に隠されたあの書物にこそ、ハインツを法的に破滅させ、四大名家を従えるためのすべてが記されているはずよ。今夜、ハインツの監視の目が放火計画の最終調整で手薄になっている今こそが、侵入する唯一の機会よ」


 ハンナはセシルの瞳にある揺るぎない覚悟を見て取り、静かに頭を下げた。これ以上の制止は無意味だと悟ったのだ。老執事グレゴールが用意した馬車に乗り込み、セシルは静まり返った帝都の闇へと滑り出した。


 目的地は、彼女が人生の半分以上を過ごした場所――帝国大書記院である。白亜の巨大な石造りの殿堂は、夜の闇の中で墓標のように冷たくそびえ立っていた。普段なら静寂に包まれているはずのその場所には、ハインツ派の息がかかった警備兵たちが不自然に巡回していた。


「セシルお嬢様、こちらです」


 大書記院の裏門の影から、一人の少年がすばしっこく駆け寄ってきた。書庫の見習い助手であり、セシルを実の姉のように慕う孤児のテオだ。その煤けた顔には、緊張の色が隠せない。


「テオ、状況は?」


「ハインツ派の司書官ユルゲンが、いつもと違う巡回ルートで地下書庫を見張っています。どうやら、セシル様が夜間に歴史書を調べに来るのを警戒しているみたいです」


「やはりね。ハインツは私の絶対記憶を恐れている。だが、彼らの予測のさらに裏をかくまでよ」


 セシルは懐から、古い木製のプレートを取り出した。恩師である書庫管理者ゲオルグからかつて譲り受けた『大書記院の極秘入館証』だ。これがあれば、大書記院の第一境界までは合法的に立ち入ることができる。


「テオ、計画通りに。ただし、決して無理はしないで」


「任せてください、セシル様のためなら、僕は何だってやります!」


 テオは力強く頷くと、大書記院の重い裏扉を開け、先に入り込んでいった。


 セシルはハンナに車椅子を押させ、静かに大書記院の内部へと侵入する。高い天井から吊り下げられた魔導ランタンの微かな光が、どこまでも続く巨大な書棚の列を照らしていた。床に敷かれた厚い絨毯が、車椅子の車輪の音を完全に吸い込んでいく。


 地下書庫への階段を下り、薄暗い廊下を進んだその時、前方にランタンの光が見えた。ハインツ派の司書官ユルゲンが、神経質そうな足取りで巡回している。このままでは見つかるのは時間の問題だった。


 その瞬間、廊下の曲がり角の先から、凄まじい物音が響き渡った。


「ああっ! す、すみません!」


 テオの声だった。彼がわざと、棚に積み上げられていた巨大な大蔵経の古い木箱を崩し、床にぶちまけたのだ。重い木箱が石床に激突する音が、静まり返った地下書庫に反響する。


「何事だ! 誰だ、そこにいるのは!」


 ユルゲンが血相を変えて音のした方向へと走り去っていく。セシルはその隙を見逃さず、ハンナに車椅子を急がせた。曲がり角の陰から、ユルゲンがテオの胸ぐらを掴んで怒鳴り散らしているのが見えた。


「この役立たずの泥泥棒め! こんな夜更けに何をしている! ただでさえハインツ閣下から不審者を警戒するよう言われているというのに!」


 ユルゲンは容赦なくテオの細い肩を激しく揺さぶり、その頬を平手打ちした。乾いた音が響く。テオは痛みに顔を歪めながらも、セシルの車椅子が闇の奥へと消えていくのを視界の端で捉え、必死に涙をこらえて笑みを浮かべた。


(ありがとう、テオ。あなたの流した血の価値は、必ず私が法理の勝利で百倍にして返すわ)


 セシルは痛む胸を抑えながら、ゲオルグから教えられた隠し通路の扉の前に到達した。極秘入館証を古い木製の台座に差し込むと、石壁が音もなくスライドし、さらに深い地下へと続く暗い階段が現れた。ここからは車椅子を降り、自らの足で歩かねばならない。


「ハンナ、ここで待っていて。ここから先は、ヴァレンシュタインの血を引く者しか入れない結界が張られているわ。私一人で行く」


「ですが、セシル様、お体の状態が……」


「大丈夫よ。私の思考限界までは、まだ一時間以上残されているわ」


 セシルは車椅子から立ち上がり、壁の手すりにすがりつきながら、一歩一歩、暗闇の階段を下りていった。呼吸をするたびに、体内の過剰魔力が心臓を圧迫し、冷たい汗が額を伝う。肉体の脆弱さが、彼女の行く手を阻む最大の壁だった。


 階段の踊り場に差し掛かったとき、セシルは壁の窪みに置かれた古代の魔導書に目を留めた。それは結界の制御キーとなっている重厚な鉄装丁の書物だった。それを動かせば、さらに近道ができるはずだった。


(これを持ち上げて、台座から外せば……)


 セシルは両手で重い魔導書を抱え上げようとした。だが、その瞬間、彼女の細い腕に激しい疲労が走り、体内の魔力が不自然に逆流した。心臓に鋭い激痛が走る。


「うっ……!」


 息が詰まり、手の力が抜けた。鉄装丁の魔導書が手から滑り落ち、石床に凄まじい音を立てて激突した。重い金属音が、静寂な地下通路に響き渡る。


(しまっ、た……!)


 セシルは壁に手をつき、激しく咳き込んだ。その音は、遠く離れた巡回エリアにまで届いたに違いない。案の定、遠くの階段の上から、ユルゲンの鋭い声が聞こえてきた。


「今の音はなんだ!? やはり、ネズミが紛れ込んでいるな!」


 急ぎ足の足音が、階段を下りてくる。セシルは冷や汗を流しながら、痛む胸を押さえて暗闇の影に身を潜めた。もはや走って逃げる体力はない。見つかれば、不法侵入としてその場で拘束され、ハインツの元へ送られるだろう。


 足音が踊り場のすぐ上まで迫ったその時、暗闇からもう一つの足音が現れた。確実で、穏やかな足取り。手元に灯されたランタンの光が、白い長髭を蓄えた老人の姿を浮かび上がらせる。大書記院の総括司書であり、セシルの恩師であるゲオルグだった。


「ユルゲン司書官、こんなところで騒がしいな。私が古い資料を整理していて、本を落としてしまったのだよ」


 ゲオルグは床に落ちた魔導書を拾い上げながら、階段の上を見上げて言った。その声には、長年大書記院を支配してきた者ならではの、静かな威厳があった。


「ゲ、ゲオルグ様……。そうでしたか、失礼いたしました。しかし、ハインツ閣下からの指示で、夜間の不審者には厳重に警戒しておりまして……」


「ふむ、私の書庫で私が本を整理することすら、ハインツ伯爵の許可が必要になったのかね?」


「い、いえ! 滅相もございません! それでは、私は巡回に戻ります」


 ユルゲンは忌々しそうに舌打ちをしながらも、総括司書の権威には逆らえず、足音を荒げて立ち去っていった。


 足音が完全に消えた後、ゲオルグはランタンを暗闇の影に向けた。


「セシル、もう出てきなさい。無茶をする子だ、昔から変わらんね」


「ゲオルグ先生……。申し訳ありません、お手を煩わせてしまって」


 セシルは壁から手を離し、よろめきながらゲオルグの前に進み出た。ゲオルグは優しく彼女の肩を支え、その青白い顔を見て深くため息をついた。


「ハインリヒの娘よ、お前の体はすでに限界に近い。それでも、あの『手記』を求めに来たのだね」


「ええ。父様の冤罪を晴らすため、そして、私が生き延びるために、あの知識がどうしても必要なのです」


「分かった。ついてきなさい。禁書庫の第一境界は、この先だ」


 ゲオルグの案内に従い、セシルはさらに地下の奥深くへと進んだ。やがて、二人の前に、不気味な青い光を放つ魔術障壁が立ちはだかった。禁書庫の入り口を守る、古代ローゼンベルク家の始祖が施した『精神破壊の結界』だ。触れるだけで侵入者の精神を崩壊させる、即死級の防衛システムだった。


「この結界は、魔術の才能を持たぬ者には決して破れん。ローゼンベルクの血筋でなければ、解除の術式すら起動できんのだ。セシル、お前には――」


「いいえ、ゲオルグ先生。魔術など必要ありません。必要なのは、この世界を支配する『論理(ロジック)』よ」


 セシルは車椅子から一歩前に進み、青く輝く障壁を凝視した。彼女の右目の奥が、絶対記憶の超高速演算によって熱を帯びる。障壁を構成する古代神聖文字の羅列が、彼女の脳内で完璧に分解され、構造化されていく。


(ローゼンベルクの結界術式、構成数式は三百六十二。……見つけたわ。この記述、第三節の主語となる『存在の肯定』と、第五節の動詞となる『消滅の命令』が、論理的に完全に矛盾している)


 セシルは冷徹な笑みを浮かべ、障壁に向かって静かに言葉を放った。


「結界の核となる術式、第二百十四行目。記述された古代文字の『接続詞』が、前後の因果関係を否定しているわ。論理的に破綻した命令(プログラム)は、この世界の法理において存在を維持できない。――解釈を書き換える(ハック・コード)。『接続』を『遮断』へ」


 彼女が言葉の呪文を言い放った瞬間、青く輝いていた障壁が、微かな音を立ててガラスのように粉々に砕け散り、闇の中に霧散した。一切の魔力を使わず、ただ「文法の矛盾」を突くことで、古代の高位魔術を自壊させたのだ。


「なんという知性だ……。魔力を持たぬお前が、言葉だけで深淵の魔術を解体するとは」


 ゲオルグは驚愕に目を見張り、改めてこの病弱な少女の恐ろしさを実感した。


 二人はついに、禁書庫の最深部へと足を踏み入れた。埃が積もった古い書棚の奥、壁の二重底に隠された秘密の金庫を、ゲオルグが鍵を使って開ける。そこから取り出されたのは、革の装丁が擦り切れた一冊の分厚い手記だった。セシルの父、ハインリヒ・ヴァレンシュタインの遺品である。


「これが、お前の父が命をかけて遺した手記だ。ハインツ伯爵が何よりも恐れ、ヴァレンシュタイン家を滅ぼしてでも手に入れようとした、帝国の『生ける爆弾』だよ」


 セシルは震える手で、その手記を受け取った。父の筆跡。埃と古いインクの匂いが、鼻腔をくすぐる。彼女は手記の最初のページをめくり、そこに記された内容を「絶対記憶」で脳内に流し込んでいった。


 だが、読み進めるうちに、セシルの紫の瞳が驚愕と絶望に染まっていった。


「……そんな、これが、父様の処刑の真実……?」


 手記に記されていたのは、単なるハインツ伯爵の汚職記録ではなかった。そこには、先帝フリードリヒの突然の死が、病死ではなく「毒殺」であったという、帝国の根底を揺るがす国家機密が記されていた。


 そして何より、セシルの父ハインリヒを「国家反逆罪」の冤罪に陥れ、処刑判決文に署名した者たちの名――そこには、ハインツ伯爵だけでなく、ギルベルトの父、ユリアンの父、ラインハルトの父、ルードヴィヒの父――四大名家の『前家督たち』全員の名前と公式印章が、血塗られた合意書として克明に記録されていたのだ。


「四大名家が全員、父様を殺すために共謀していた……?」


 セシルの喉から、乾いた悲鳴が漏れ出た。彼女が自らの生存と復讐のために「仮初めの婚姻契約」を結ぼうとしている相手、その男たちの父親こそが、自らの最愛の父を処刑台へと送った真犯人たちだったのだ。


 さらに、手記の後半には、帝国の根底を支配する『建国憲章』の原本の秘密が記されていた。「皇帝が正気を失い、または不在となった場合、四大名家の合意(血印)があれば、合法的に皇権を制限し、臨時執政会議を立ち上げることができる」とする、皇太后の独裁を完全に無効化できる超法規的ルールの存在。


(彼らは、父様を殺した仇の息子たち。……だが、同時に、この帝国システムを支配し、私の寿命を延ばすために、どうしても従えねばならない『最強の駒』でもある)


 絶望の淵で、セシルの理性が、感情を力ずくでねじ伏せた。彼女の紫の瞳に、狂気にも似た冷酷な決意が宿る。


「面白いわね、運命というのは……。仇の息子たちを、私の最も忠実な犬として跪かせ、ヴァレンシュタインの足元で這いつくばらせる。それこそが、父様への最高の供物になるわ」


 セシルが手記を固く抱きしめたその時、背後の闇から冷たい拍手の音が響いた。


「実に見事だ、セシル。まさか禁書庫の結界を破り、その手記にまで辿り着くとはな」


 書架の陰から現れたのは、ユルゲン司書官と、ハインツ派の武装した衛兵たちだった。ユルゲンの顔には、獲物を追い詰めた下劣な笑みが浮かんでいる。


「ゲオルグ様、貴方もここまでです。許可なき禁書庫への立ち入り、および国家機密の持ち出しは、即座にその場で『死罪』に処される。言い逃れはできませんぞ」


 衛兵たちが一斉に剣を抜き、セシルとゲオルグを包囲した。ゲオルグはランタンを掲げ、静かにセシルの前に立ちはだかろうとした。だが、セシルは冷徹な視線をユルゲンに向け、車椅子を静かに前へと進めさせた。


「言い逃れなどしないわ、ユルゲン司書官。……ただし、大書記院規則第百四条を、あなたのような凡庸な官僚が忘れているのでなければ、ですが」


「何だと!?」


「大書記院規則第百四条『学術調査における総括司書の同行特権』。……大判事の血統たる学士は、歴史的公文書の調査に限り、総括司書の直接の同伴と承認があれば、いかなる書庫であっても立ち入りを制限されない。総括司書ゲオルグ先生がここに同伴している以上、私の立ち入りは完全に合法よ。不法侵入を叫ぶあなたの行為こそが、大書記院の独立権を侵害する『公務妨害罪』に該当するわ」


「くっ、屁理屈を! そんな規則、とうの昔に形骸化している!」


「形骸化していても、帝国法典から削除されていない限り、法的な効力は絶対よ。……それに、そこの衛兵たち」


 セシルはユルゲンの背後に立つ衛兵たちに視線を移した。その瞳の冷たさに、衛兵たちが思わず後ずさりする。


「大書記院の地下書庫衛兵長、アントン。……あなた、そこにいるわね?」


 衛兵の列から、髭面の大柄な男が驚いたように一歩前に出た。アントンだ。かつてセシルの父ハインリヒに窮地を救われた恩義を持つ、地下書庫の番人だった。


「アントン、あなたに問うわ。帝国尋問法第十二条に基づき、大書記院の独立権を無視して学士を不当に拘束しようとするユルゲン司書官の命令に従うことは、衛兵としての公式な義務かしら? それとも、職権乱用の共犯として、後にあなたの一族が連座されるリスクを負う覚悟があるのかしら?」


 アントンは息を呑んだ。彼はセシルの父への恩義と、彼女が突きつけたあまりにも正確な法律の脅迫を瞬時に理解した。彼は剣を鞘に収め、ユルゲンの前に立ち塞がった。


「……ユルゲン司書官。セシル学士の言う通りだ。ゲオルグ総括司書が同伴している以上、我々衛兵が彼女を拘束する法的根拠はない。不法な命令には従えん」


「アントン! 貴様、ハインツ閣下を裏切る気か!」


「裏切りではない。私は帝国法と、大書記院の規則に従っているだけだ」


 アントンが他の衛兵たちを制し、セシルとゲオルグの退路を確保した。ユルゲンは顔を真っ赤にして怒り狂ったが、衛兵たちが動かない以上、自ら手出しをすることはできなかった。


「セシル、今のうちに早く行きなさい。手記を、決してハインツの手に渡してはならんぞ」


 ゲオルグがセシルの背中を優しく押し、ハンナが素早く車椅子を掴んで階段へと走り出した。アントンが背後でユルゲンを物理的に引き留める声が、遠ざかっていく。


 セシルは手記を胸に抱きしめ、ハンナと共に大書記院の裏門へと急いだ。ようやく冷たい夜気が満ちる屋外へと脱出し、馬車に乗り込もうとした、その瞬間だった。


 ――ズ、ズズズズズン……!


 大気を引き裂くような、凄まじい大爆発音が帝都の夜空に響き渡った。


 地鳴りを伴う振動が、セシルの乗る馬車を激しく揺らす。はるか東の空、運河沿いの暗闇が、一瞬にして不気味な紅蓮の炎によって赤く染め上げられていくのが見えた。


「お嬢様、あれは……!」


 ハンナが息を呑み、炎の上がる方角を指差した。


 セシルの脳内で、帝都の地図とヴィルヘルムの去り際の言葉が、一瞬にして結びつく。


(運河沿い、クローネ倉庫街……。ハインツ伯爵の放火テロが、始まったのね!)


 燃え盛る紅蓮の炎は、帝国の崩壊を告げる号砲であり、ギルベルト・フォン・ヴァレリウスを破滅へと引きずり込む罠の始まりだった。セシルは手記を強く握り締め、炎に照らされる帝都の空を、冷徹な瞳で見つめ返した。


「行くわよ、ハンナ。……チェス盤は、もう動き出したわ」

HẾT CHƯƠNG

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