書庫の幽霊、牙を剥く
神聖ヴァルハイト帝国の心臓部たる帝都「ヴァルハイト」は、酷寒の冬に凍りついていた。先帝の突然の崩御から数ヶ月、街を満たすのは冷たい風と、いつ暴動に発展してもおかしくない張り詰めた沈黙。その最中、大書記院の最下層に位置する地下書庫だけは、地上の喧騒から隔絶された静寂に満ちていた。
「……はぁ、っ、……くしゅ」
埃っぽい空気の中で、白髪の少女――セシル・ヴァレンシュタインは小さく咳き込んだ。透き通るような白い肌に、深い紫色の瞳。仕立ての古い、しかし汚れ一つないヴァレンシュタイン家の学士ローブを身にまとった彼女は、車椅子に深く身を沈め、目の前の巨大な革装丁の書物をめくっていた。
セシルは、かつて帝国大判事として名を馳せ、無実の罪で処刑されたハインリヒ・ヴァレンシュタインの娘である。家名は没落し、今や彼女は大書記院の片隅で無給の雑用整理を行う、誰からも顧みられない「書庫の幽霊」に過ぎなかった。
しかし、彼女には誰も知らない武器があった。
(帝国法典第三百二十四条、財産権の移転に関する例外規定……脳内データベース、照合完了。完全に一致)
彼女の脳裏には、過去三百年分の帝国の全判例、法律、条約、そして貴族の家系図が完璧な形で記憶されていた。生まれつきの特異体質である「絶対記憶(レコーダー)」。だが、この天才的な頭脳は彼女の肉体を蝕む呪いでもあった。脳に過剰な魔力が集中する「魔力過剰症」。思考を二時間以上続ければ、彼女の心臓は過負荷で激しい痛みを引き起こし、最悪の場合は死に至る。彼女の寿命は、あと一年も残されていないのだ。
「セシル様、そろそろお時間です。これ以上ここにいては、お体に障ります」
静かな声と共に、影のように現れたのは専属侍女のハンナだった。黒髪を几帳面にシニヨンにまとめた彼女は、セシルの車椅子の背後に回り、手際よく毛布をかけ直す。彼女の手には、魔力暴走を抑えるための特殊な薬膳スープのボトルが握られていた。
「ありがとう、ハンナ。……戻りましょう。これ以上、この冷気に身を晒すのは合理的ではないわね」
セシルは小さく微笑み、車椅子をハンナに委ねた。大書記院を後にし、帝都の片隅に佇むヴァレンシュタイン邸へと戻る。かつての栄華は見る影もなく、庭は荒れ果て、剥げかけた金箔が寒風に晒される寂しい没落邸宅。それが彼女の家だった。
しかし、屋敷の重い玄関扉を開けた瞬間、静寂は怒号によって破られた。
「どけ、老いぼれ! 私はこの家の正式な相続人であり、債権者だぞ!」
邸宅の広間で、ヴァレンシュタイン家の老執事グレゴールが、肥満体の男と数人の粗暴な男たちに押し通されようとしていた。男の名はヴィルヘルム・ヴァレンシュタイン。本家の没落に乗じて家宝を売り払った、ヴァレンシュタイン家分家の強欲な叔父だった。
「ヴィルヘルム様、お待ちください! ここはセシルお嬢様の邸宅でございます。分家の方が土足で踏み入るなど、無礼極まりない!」
グレゴールは震える体で立ちはだかるが、ヴィルヘルムの従者がその胸元を乱暴に突き飛ばした。老執事が床に倒れ込む。その光景を目にしたセシルの紫の瞳に、冷徹な光が宿った。
「そこまでにしなさい、ヴィルヘルム叔父様」
ハンナが静かに車椅子を押し、広間の中心へと進み出る。セシルの声は小さく、微かにかすれていたが、その場にいる全員の動きを止める奇妙な威厳に満ちていた。
「おお、セシル。ようやく戻ったか、書庫の幽霊め」
ヴィルヘルムは卑屈な笑みを浮かべ、懐から一枚の羊皮紙を取り出して突きつけた。
「都合がいい。お前の亡き父、ハインリヒが遺した未払いの債務保証書だ。その額、金貨五千枚。ハインツ伯爵閣下からの借入金だ。没落したお前たちに払えるわけがない。そこで、伯爵閣下からの寛大な提案がある。この邸宅の権利をお譲りいただき、お前自身の身柄を伯爵家の『書斎奴隷』として引き渡すなら、この借金は帳消しにしてやるとな」
人身売買。しかも、売却先は父ハインリヒを陥れて処刑台に送った張本人、ハインツ伯爵。ヴィルヘルムはハインツと裏で繋がり、本家のわずかな残滓すらも食い潰そうとしているのだ。
「お嬢様を売るなど、断じて許しません!」
グレゴールが叫ぶが、ヴィルヘルムの背後に立つ男たちが腰の剣に手をかけた。俗物的な暴力の気配が広間に満ちる。
「ハンナ、グレゴールを下がらせて」
セシルは冷静だった。彼女の脳内では、すでに「絶対記憶」のデータベースが高速で回転を始めていた。右目の奥が微かに熱を帯びる。
(ハインツ伯爵の署名、債務手形の発行日、帝国の家族法……すべてを照合する。思考開始から三秒。……見つけたわ)
「叔父様、その書類を見せていただけるかしら?」
「ふん、諦めがついたか。見ろ、これが本家の崩壊を決定づける証拠だ!」
ヴィルヘルムが勝ち誇って羊皮紙をセシルの前に突き出す。セシルはそれを手に取ることすらせず、ただ一瞥しただけで、その内容を完璧に脳内にスキャンした。
「日付は帝国暦二百九十六年、十月十四日。ハインツ伯爵の署名と、我が父の署名があるわね。確かに一見すると、完璧な債務保証書に見えるわ」
「そうだ! 言い逃れはできんぞ!」
「ええ、言い逃れはしないわ。……ただし、法律に従うなら、この書類はただの汚れた紙屑に過ぎないけれど」
「何だと!?」
ヴィルヘルムの顔が怒りで赤く染まる。セシルは車椅子に深く寄りかかったまま、冷徹な笑みをその唇に浮かべた。
「帝国法典第三巻、家族法第十七条『連帯責任の法的分離』。……叔父様、この条文をご存知かしら?」
「法律だと? そんな没落した学士の戯言など――」
「帝国法では、本家と分家の間で財産と名義の完全な分離がなされ、それが三期(三年)以上継続している場合、分家が結んだいかなる債務も、本家にその連帯保証を求めることはできないと規定されているわ」
セシルは淡々と、しかし淀みなく条文を暗唱していく。
「あなた方分家が、本家から完全に財産を分離し、独立登記を行ったのは帝国暦二百九十三年の六月。今からちょうど三年と四ヶ月前よ。つまり、あなたがハインツ伯爵と交わしたこの債務保証書は、法的に本家へ請求する根拠を一切持たない。あなたが勝手に本家の名を騙って作成した、不法な私文書よ」
「く、口先だけの出任せを! そんな登記、誰が証明する!」
「大書記院の第二登記書庫、棚番号四十七、上から三段目の青い革綴じの台帳に、あなたの直筆署名と共に記録されているわ。私の絶対記憶を疑うなら、今すぐ大書記院の使者を呼んで照合させてもいいけれど?」
ヴィルヘルムの額から冷や汗が流れ落ちた。セシルの視線は、彼の魂の底まで見透かすように冷たかった。
「さらに言えば、叔父様。あなたがこの『偽の保証書』を作成するために使用した本家の印章……それは本物ではないわね。あなたが本家から盗み出した印章は、父が五年前の法改正の際に廃棄した旧型のもの。現在の帝国公式文書において、旧型の印章を用いた保証書は『不法文書偽造罪』に該当するわ」
「な、何だと……!?」
「帝国刑法第百十二条。国家公認の家紋および印章を偽造、または不正に使用して他者の財産を脅し取ろうとした者は、全財産没収の上、鉱山での永久服役刑に処される。……叔父様、あなたを今すぐこの罪で大裁判所に告発して差し上げてもいいのよ?」
「ひっ……!」
ヴィルヘルムは後ずさりした。彼の背後にいた男たちも、セシルのあまりにも具体的で容赦のない法理の指摘に、自分たちが「国家反逆罪」に等しい大罪に加担させられようとしていることを察し、互いに顔を見合わせて武器から手を離した。
「暴力で解決しようとするのはお止めなさい。私の背後には、大書記院と帝国法がある。あなたたちが一歩でも私に触れれば、それはヴァレンシュタイン公爵家への直接の不法侵入とみなされ、近衛兵があなたたちの一族を即座に連座するわ」
セシルの冷徹な言葉に、ヴィルヘルムの従者たちは完全に戦意を喪失し、主を置いて逃げるように屋敷から走り去っていった。広間に残されたのは、恐怖と屈辱でガタガタと震えるヴィルヘルム一人だった。
「さあ、叔父様。選択肢は二つよ。このまま不法侵入と文書偽造の罪で大裁判所に引き渡されるか、それとも、二度とこの屋敷に近づかないと誓って、今すぐここから這い出て行くか。……どちらが合理的かしら?」
「お、おのれ、没落した病弱女が……!」
ヴィルヘルムは吐き捨てるように叫び、転がるように玄関へと向かった。だが、扉に手をかけた瞬間、彼は狂ったような笑みを浮かべて振り返った。
「勝ち誇るのも今のうちだ、セシル! お前がいくら法律を捏ねくり回そうと、ハインツ伯爵閣下の計画は止まらん! 閣下はすでに帝都の穀物倉庫を完全に牛耳り、まもなく大寒波を利用して人工的な飢餓を引き起こす! そして――」
ヴィルヘルムは声を潜め、邪悪な笑みを浮かべた。
「帝国軍総帥、ギルベルト・フォン・ヴァレリウスを罠に嵌め、クローネ倉庫の放火魔に仕立て上げて軍権を剥奪する計画だ! 帝都は血の海に沈む! お前のような這いつくばる虫ケラなど、その大渦に巻き込まれて一瞬で消えるのだ!」
その言葉を最後に、ヴィルヘルムは屋敷から逃げ去っていった。
静まり返った広間で、セシルは深く息を吐き出した。緊張の糸が切れた瞬間、脳に蓄積された魔力が心臓を直撃する。
「うっ……、っ、げほっ!」
セシルの唇から、鮮紅の血が溢れ出た。彼女は胸を押さえ、激しい呼吸困難に襲われながら車椅子の上で崩れ落ちそうになる。
「セシル様!」
ハンナが素早く駆け寄り、彼女の体を支えながら、薬膳スープを注意深く口元に運んだ。スープの温かさが喉を通り、暴走していた魔力が徐々に鎮静化していくのを感じながら、セシルは青白い顔で天井を見上げた。
「……ハインツ伯爵、ギルベルト・フォン・ヴァレリウスを罠に嵌めるつもりね……」
セシルは、父を殺し、自らを没落させた仇敵ハインツの新たなる陰謀を確信した。そして同時に、自らの命が尽きる前に、この帝国の崩壊を止めるための「チェス盤」の最初の一手が決まったことを理解していた。
「ハンナ、スープをもう一杯……。私はまだ、死ぬわけにはいかないわ。あの傲慢な四名家の男たちを、私の知略の駒として従えるまではね」
病弱な学士セシル・ヴァレンシュタインの、血塗られた宮廷政治劇の幕が、静かに上がろうとしていた。
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