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三針の幻影

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意識が浮上した瞬間、肺腑を焦がすような冷気が喉の奥から突き上げてきた。ルイ・アルノは、自分が錆びた鉄と薬品の臭いが立ち込める闇診療所に横たわっていることに気づいた。スラム街の底、ガストンの隠れ家だ。天井のひび割れから染み出す汚泥の滴が、不規則な雨音のように響いている。


「……気がついたか、馬鹿野郎」


 無精髭を蓄えた闇医者ガストンが、タバコの煙を吐き出しながら、手にした真鍮製の巨大な注射器をルイに向けた。その傍らでは、仕立屋の見習い少年であるルカが、涙に濡れた目を輝かせてルイの左手を握りしめている。


「先生! よかった……本当に、よかった……!」


「ルカ、無事か……ハサミは……」


 ルイは掠れた声で呟き、自身の右腕を動かそうとした。だが、脳からの命令は虚空に消えた。右肩から指先にかけて、まるで他人の肉体を移植されたかのように完全に感覚が消失している。皮膚はインクを吸わせたように漆黒に変色し、血管が黒い糸のように脈動していた。「第二段階:右半身への浸食」――自身の影を切り裂き、ロバートたちを退散させるために放った「ネクロ・バースト」の代償だった。


「お前さんの泥だらけのハサミなら、そのガキが必死に抱えて持って帰ってきたよ」ガストンは冷酷な口調で言いながら、注射器の針をルイの胸元へと近づけた。「だが、お前の右半身の細胞は死にかけ、壊死が心臓のすぐ手前まで達している。今から、極毒の防腐剤を直接ぶち込む。心臓が止まるほどの激痛だが、耐えろ」


 ガストンの防腐薬「グレイ・リキッド」が、ルイの胸の皮膚を貫き、骨の隙間へと注入された。


「――っ!」


 声にならない悲鳴がルイの喉を裂いた。全身の血液が一瞬にして氷結し、心臓の鼓動が完全に停止するような、凄まじい冷気と激痛。視界が白濁し、生者としての意識が遠のいていく。だが、ルイの胸の奥深く、アルノ一族の始祖から受け継いだ「不滅の影」が激しく脈動し、死の淵を踏みとどまらせた。数十秒の仮死状態を経て、心臓が再び不規則なリズムを刻み始める。


「……まだ、死ぬわけにはいかない」


 ルイは震える左手で作業台を掴み、身体を起こした。彼の「虚無 of 右目」が、診療所の奥に安置された冷たい遺体を捉えていた。スラムの少年、トビーの遺体だ。その全身から立ち上る青白い魂の残滓「霊霧」は、今や風前の灯火のように薄れ、今すぐにでも現世から霧散しようとしていた。


「ルイ、無茶だ! お前さんの右腕はもうハサミを握る感覚すら失っているんだぞ!」ガストンが怒鳴る。


「トビーの魂が消えれば、ギローの罪を暴く証言は永遠に失われる」ルイの宵闇の瞳には、冷徹なまでの意志が宿っていた。「仕立屋は服ではなく、人生を繕う……父の教えだ。感覚がないなら、別の方法で手を動かすまでだ」


 ルイは左手で「黒鉄のハサミ」を握り、自身の足元に残された僅かな影を切り裂いた。激痛に耐えながら、生成した極細の影糸を、トマが完全修復してくれた古代魔導針「黒鉄の針」に通す。そして、彼は信じがたい暴挙に出た。感覚のない自身の右腕の皮膚に、その影糸を突き刺したのだ。


「壊死遅延の術『凍結縫い』」


 ルイは自身の右腕の筋肉と魔力回路を、影糸で細かく、物理的に縫い合わせて固定していく。神経の震えを強制的にロックし、ハサミと針を握るための「型」を肉体に刻み込む自虐的な延命術。ガストンは息を呑み、ルカは恐怖に顔を覆った。しかし、これでルイの右腕は、感覚はなくとも、機械のように正確な運針を行う「道具」へと変貌した。


「ルカ、トビーの懐中時計を彼の胸の上に」


「は、はい!」


 ルカが震える手で、トビーの唯一の形見である割れた懐中時計を遺体の上に置いた。ルイはさらに、マルセルから奪い取った「深淵の魔石」をトビーの額の傍らに設置する。魔石が放つ漆黒の魔力が、トビーの不安定な霊霧を物理的に繋ぎ止め、現世の境界線へと引き留めた。


「白銀のメジャー」が、トビーの頭部と胸部のサイズを無音で測定する。ルイの「虚無の右目」には、トビーの精神波長がミリ単位の数値として視覚化されていた。同調率は二十パーセント。死者の生前の未練が、ルイの脳内に直接流れ込み、トビーが死の間際に感じた「魂を沸騰させられるような乾き」がルイの喉を締め付ける。だが、ルイはその苦痛を精神力でいなし、針を構えた。


「三針縫合――執行する」


 ルイの右腕が、機械的な正確さで動いた。物理的な感覚は一切ない。針がトビーの皮膚を貫く抵抗も、糸が繊維を擦る感触も、ルイの手には届かない。しかし、彼の「虚無の右目」が、トビーの魔力回路の「綻び」を完璧に捉えていた。心の目だけで針先を導き、ルイはトビーの右の眼瞼に最初の一針を通した。続いて、左の眼瞼に二針目。トビーの両目から、黒い涙のような影のラインが走り、喉元へと繋がっていく。


 最後の一針。トビーの喉元、生気を吸い取られた傷痕の中心に向けて、ルイは針を突き立てた。その瞬間、トビーの肉体に残る魔力汚泥の毒気が、影糸を腐食させようと黒い煙を上げて抵抗した。だが、トマによって研ぎ澄まされた「黒鉄の針」に刻まれた古代ルーンが発光し、不浄の毒気を物理的に撥ね退ける。


 最後の一針が喉を縫い留めた瞬間、トビーの濁った瞳が青白い光を宿し、ゆっくりと見開かれた。懐中時計の秒針が、カチ、カチ、と規則的な音を立てて回り始める。縫合強度は最大に達した。共鳴率三十パーセント。


「影絵の再現術『残影投影』」


 ルイが黒鉄のハサミの刃を重ねると、トビーの遺体から溢れ出た青白い霊霧が、診療所の白いコンクリート壁へと立体的に投影され始めた。それは、死者が死の瞬間に見聞きした光景を上映する、光と影の芝居だった。


 壁に映し出されたのは、煤けたスラムの路地裏だった。トビーの主観映像。地面に組み伏せられたトビーの視界の先で、下級審判官ギローの紋章を纏った私兵たちが、冷酷な笑みを浮かべて立ち塞がっている。その手には、不気味に発光する真鍮製の「魂の精錬ランタン」が握られていた。


『嫌だ、放して! おじさん、僕、何も見てない!』


 トビーの悲痛な叫び声が、診療所の壁から物理的な音響となって響き渡る。ルカが短い悲鳴を上げてルイの陰に隠れた。


『うるさい。ギロー様の秘密の馬車を見たからには、生かしてはおけん。お前の薄汚い命も、魔石の原料として上層の肥やしになるのなら本望だろう』


 私兵がランタンの蓋を開けた。まばゆく、おぞましい光が壁一面に広がり、トビーの肉体から魂(霊霧)が強制的に引き剥がされていく。少年の絶望と痛みが、映像を通じてルイたちの脳内へと直接フィードバックされ、ガストンすらも顔を歪めて目を背けた。


 だが、映像はそこで終わらなかった。魂を吸い尽くされたトビーの視界が泥濘へと倒れ込み、薄れゆく意識の中で、私兵たちの背後に立つ一人の男の姿を捉えた。金糸の刺繍が施された重厚な青い法衣――下級審判官ギローその人だった。


 ギローは、私兵が差し出したランタンの中の、結晶化しつつある魔石を貪欲な目で見つめていた。


『ふむ、品質は悪くないな。これならば、最高審判庁の最高判事ヴェイン様も、ご満足いただけるだろう。あの御方の心臓を維持するための生気は、いくらあっても足りないのだからな……』


 ギローの口から放たれた、その名――「最高判事ヴェイン」。


 ルイの全身の血が、一瞬にして沸騰した。一族を虐殺し、最愛の妹セリアの魂を三つに引き裂いた、あの夜の首謀者。その名前が、少年の主観的な記憶を通じて、言い逃れのできない物理的な証拠として白日の下に晒されたのだ。復讐の糸が、スラムの小悪党から、国家の頂点に君臨する絶対の支配者へと直接繋がった瞬間だった。


「……ヴェイン……!」


 ルイが憎悪を込めてその名を呼んだ瞬間、壁に投影されていた映像が、激しい霊的ノイズと共に歪み始めた。トビーの魂が、最高審判庁の「始祖の契約」が持つ強大な呪縛に接触し、強制的にカタコンベへと引き戻されようとする、霊的な嵐が診療所内に吹き荒れようとしていた――。

HẾT CHƯƠNG

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