影縛りの路地裏
雨は容赦なく、鉄の墓場を濡らしていた。上層の貴族街が排出した魔力汚泥の混ざった酸性雨は、錆びた鉄屑の山を叩き、不快な金属音を路地裏に響かせている。硫黄の臭気を含んだ風が吹き抜ける中、ルイ・アルノは泥濘の中に立ち尽くしていた。
動けない。
一歩を踏み出そうとした瞬間、泥水に投影された自身の影の末端から、冷酷な鉄鎖が這い上がってくるような重みが全身を支配した。虚無の右目を薄く開くと、そこにはロランが去り際に仕掛けた極小の金属杭――「影縛りの杭」が、青白いルーンの光を放ちながら、ルイの影を泥濘の底へと物理的に縫い留めているのが見えた。
「くっ……!」
右足はすでに膝上まで完全に感覚を失っている。残された左足に力を込めようとするが、影を直接縛るこの呪縛は、肉体の物理的な筋力を完全に無効化していた。もがけばもがくほど、影の境界線が杭に引き絞られ、脳裏に鋭い針で刺されるような幻肢痛が走り抜ける。
罠だ。ロランは最初から、ルイのハサミを奪うためにギローの私兵を呼び寄せていたのだ。
ぬかるんだ路地の奥から、重々しい金属鎧の擦れる音が近づいてきた。雨のカーテンを引き裂くように現れたのは、重厚な鉄甲に身を包んだ巨漢――下級審判官ギローの私兵隊長、ロバートだった。その背には、彼の土魔導によって岩石のように硬化された、分厚い大剣が背負われている。
「おいおい、本当に動けなくなってやがる。ロランの小僧、なかなか役に立つ玩具を作るじゃねえか」
ロバートは歪んだ笑みを浮かべ、大剣を肩から引き抜いた。彼の背後には、同じ紋章を纏った数人の私兵が従っている。その中の一人の動きが、ルイの目に異常に映った。男は呼吸をしておらず、その関節はまるで操り人形のように不自然な角度でカクカクと曲がっている。皮膚の隙間から、微かに黒い糸のようなものが蠢いているのが、虚無の右目の視界に青く浮かび上がった。
(……ただの人間ではない。あの糸の気配は……)
一族の術式に酷似した、だが決定的に歪んだ闇の気配。それを分析する余裕は、ロバートが硬化した大剣を振り上げた瞬間、吹き飛んだ。
「大人しくそのハサミを渡せば、命だけは助けてやる。ギロー様がお前をご指名だ、仕立屋」
「……断る」
ルイは外套の袖口から影糸を生成しようと魔力を練った。しかし、足元の影縛りの杭が発する干渉波動により、紡ぎ出された漆黒の糸は、空気中に触れた瞬間に霧散してしまった。通常の影糸の展開は完全に封じられている。
「強情な奴だ。なら、その動かねえ足を叩き折ってから連れて行ってやる!」
ロバートが土魔導の大剣を容赦なく振り下ろそうとした、その時だった。
「先生に触るな!」
路地裏の木箱の影から、小さな人影が飛び出してきた。ルイの仕立屋を手伝う孤児のルカだった。ルカは、ルイが研いでくれた錆びた鉄の針を両手で握り締め、必死の形相でロバートの鎧の隙間を目がけて突き立てようとした。
「ルカ! 来るな!」
ルイの制止は届かなかった。ロバートは目障りな羽虫を払うように、空いた左手でルカの細い手首を掴み、そのまま壁際へと叩きつけた。泥水の中に転がったルカの首筋に、私兵の一人が鋭いダガーを突き立てる。
「おっと、動くなよ仕立屋。このガキの喉笛が裂けてもいいなら、そのまま突っ立ってろ」
人質。ルカの小さな身体が恐怖で小刻みに震え、突きつけられた刃が彼の皮膚を僅かに傷つけ、一筋の赤い血が流れた。ルイの胸の奥で、冷徹な仮面の下に隠されていた、一族を虐殺された夜の記憶が、黒い義憤となって爆発した。これ以上、自らの周囲の大切な者を失うわけにはいかない。
(……私の影を縛ったな、ロラン。ならば、その影ごと切り離すまでだ)
ルイは懐から、一族伝来の「黒鉄のハサミ」を抜き取った。逆手に持ち替えたハサミの刃先を、自身の足元ではなく、自身の身体を繋ぎ止めている「影の根元」へと向けた。影を物理的に『裁つ』。それは、自身の魂の一部を刃物で直接切り裂くことに等しい、狂気的な自傷行為だった。
「おおおおおっ!」
ハサミが噛み合わされ、ルイの影の根本が物理的に切り裂かれた瞬間、脳髄が沸騰するような、凄まじい激痛がルイを襲った。喉の奥から黒い血が溢れ出し、泥濘を汚す。視界が真っ赤に染まり、全身の骨が一本ずつ砕かれるような痛みに耐えながらも、ルイはハサミを握る右手を離さなかった。
だが、影縛りの杭の呪縛は完全に消失した。切り離された影は、ルイの執念によって瞬時に形を変え始める。
「『影の身代わり(シャドウ・デコイ)』!」
ルイが血を吐きながら叫ぶと、切り裂かれた影が黒い霧となって立ち込め、ルカを人質に取っていた私兵の目の前に、ルイと全く同じ姿をした「影の人形」を実体化させた。私兵が驚愕し、ダガーをデコイへと突き立てた瞬間、デコイは黒い爆煙となって弾け、私兵の視界を完全に奪った。
「何だと!?」
ロバートが硬化した大剣をデコイの残像に向けて振り下ろす。その隙を、ルイは見逃さなかった。杖を泥に突き立て、残された左足だけで身体を支えながら、左手で「黒鉄の針」をロバートの足元の影へと投げ放った。
「『影縫い(シャドウ・バインド)』!」
投げられた針が、ロバートの影の端を地面に深く貫いた。影を縫い留められたロバートの肉体が、大剣を振り下ろした姿勢のまま、物理的にその場に凍りついたように動かなくなる。
「な、何だこれは! 身体が動かん!」
「ロバート……お前たちの主であるギローに伝えろ」
ルイは右半身から立ち上る、氷のように冷たい死霊魔力を右腕に集中させた。壊死した部位に溜まった「死の毒気」が、漆黒の電流のように彼の皮膚を駆け巡る。
「死者は、嘘をつかない。お前たちの罪は、必ずこのハサミで裁く」
「『限界点:ネクロ・バースト』!」
ルイの右半身から、周囲の光を物理的に引き裂くような、漆黒の衝撃波が全方位に向けて炸裂した。黒い雷のような衝撃が路地裏を吹き飛ばし、ロバートと私兵たち、そして操り人形のような不気味な男を、泥濘の彼方へと物理的に叩き伏せた。瓦礫と泥水が舞い散る中、私兵たちは恐怖の悲鳴を上げながら、動けないロバートを抱えて闇の中へと退散していった。
「はぁ……はぁ……っ、ルカ、怪我はないか……」
ルイはルカの元へと這い寄り、彼が無事であることを確認した。ルカは涙を流しながら、ルイの身体を抱きしめようとした。しかし、ルイはその場に崩れ落ちた。
代償は、あまりにも重かった。自身の影を切り裂き、ネクロ・バーストを放った反動により、右足の壊死斑は一気に腰を越え、右の脇腹から右胸、そしてハサミを握る右腕へと、急激に浸食を始めていた。
「第二段階:右半身への浸食」
ルイの右手の皮膚の下で、黒い血管がまるで仕立て糸のように不気味に浮かび上がり、脈動している。右腕全体の感覚が急速に失われ、黒鉄のハサミが指先から滑り落ちて、冷たい泥水の中に沈んだ。ルイの視界は、漆黒の闇へと沈んでいった。
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