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黒鉄の錆を研ぐ

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黒煙街の最奥に広がる廃棄物集積所「鉄の墓場」は、都市の上層から吐き出された鉄屑が、錆びた山脈のようにそびえ立つ死の土地だった。酸性雨を孕んだ重い黒煙が空を覆い、呼吸するだけで肺が焼けるような硫黄の臭いが立ち込めている。冷たい雨が鉄の残骸を叩き、不協和音を奏でる中、ルイ・アルノは泥濘に木製の杖を突き刺しながら、一歩一歩這うように進んでいた。


「はぁ、はぁ……っ」


 右足の感覚は、すでに膝の上まで完全に消失している。冷気と壊死が肉体を蝕む速度は、確実に速まっていた。外套の下で、凍りついた鉄塊のようになった右足を引きずるたび、骨の髄に直接響くような幻肢痛がルイの脳を鋭く刺す。それでも、左手で掴む杖を支えに、彼は歩みを止めなかった。仕立屋の隠し部屋に残してきた少年トビーの遺体、そしてそこに設置した「深淵の魔石」の光が消えぬうちに、儀式を次の段階へ進めなければならない。


 目指すのは、鉄の山の隙間に赤々と不気味な火を灯す、闇の鍛冶職人トマの廃鉄工場だった。トビーの生前の記憶を映像として壁に投影する「三針縫合」を執り行うには、限界まで摩耗し、微細な亀裂が入った「黒鉄の針」を、極限まで鋭く研ぎ直す必要があった。スラムで唯一、その古代ルーンを理解し、影糸の負荷に耐えうる金属を打てるのはトマだけだった。


 工場の薄暗い入り口が見えたとき、ルイは足を止め、深く息を吸い込んだ。右手の黒い「遮魔の革手袋」をはめ直す。手首の境界線まで広がった漆黒の壊死を隠すためだ。


「ノワール」


 ルイが低く囁くと、彼の足元に伸びる影がうねり、一匹の漆黒の猫が這い出てきた。金色に光る瞳を持つ使い魔、ノワールだ。実体を持たない影猫は、ルイの命令を待つように静かに喉を鳴らした。


「先に中を探れ。不審な気配がないか確かめるんだ」


 ノワールは音もなく影の中へと溶け込み、工場の敷地内へと滑り込んでいった。ルイは虚無の右目を薄く開き、使い魔との「感覚共有」を確立する。白黒に反転した視界の端に、ノワールが見る光景が映し出された。


 工場を囲む鉄屑の山の影――そこで、だらしない姿勢で立つ男が、黒煙街の審判所が雇う私兵と密かに言葉を交わしていた。私兵の胸元には、下級審判官ギローの紋章が刻まれている。そして、その私兵と親しげに話しているのは、トマの弟子であるロラン・ジラールだった。


『……わかっているな、ロラン。トマの奴が頑なに隠している、魔導金属の精錬レシピだ。それさえ手に入れば、お前を最高審判庁の技術監獄の役職へ推薦してやる。ギロー様からの約束だ』


『ああ、心配ないさ』


 ロランは冷たい目で笑い、懐から不気味に発光する金属片――影の動きを物理的に固定する「影縛りの杭」の試作品を弄んでいた。


『あの頑固ジジイはもう古い。魔術を金属に定着させる技術なら、俺の方がうまく扱える。レシピを盗み出したら、すぐにここを引き払う。それと……最近、この工場に怪しい仕立屋が出入りしている。奴のハサミには、妙に濃密な一族の魔力が宿っているようだ。そいつも手土産にしてやるよ』


 感覚共有を通じてその言葉を聴いた瞬間、ルイの宵闇の瞳が凍りついた。ロラン・ジラール。トマの弟子でありながら、裏ではギローと繋がり、師の技術を売ろうとしている裏切り者。そして、ルイの「黒鉄のハサミ」に目をつけ、奪おうと画策している。


(……貪欲な鼠め)


 ルイは影糸刃を放ってその場でロランの息の根を止めることを一瞬考えたが、即座に思いとどまった。ここで騒ぎを起こせば、トマの協力を得られなくなる。針の修復が最優先だ。ルイはノワールを影へと戻し、何食わぬ顔で工場の重い鉄扉を押し開けた。


 カァン! カァン!


 凄まじい金属音と、火花が散る熱気がルイを包み込んだ。巨大な炉の前に立つトマは、煤と汗で全身を黒く光らせ、巨大な金槌を振るっていた。ルイの姿を認めると、トマは手を止め、無骨な顔を歪めた。


「おいおい、黒煙街の仕立屋じゃねえか。その右足で、よくこの鉄の墓場を越えてこられたな。何の用だ? 俺の作業着のボタンでも毟れにきたか?」


「トマさん。道具の調整をお願いしたい」


 ルイは杖を突き、作業台の前に立った。懐から慎重に取り出したのは、黒い錆に覆われた古代の魔導針「黒鉄の針」だった。一針縫合の負荷によって、その表面には目に見えないほどの極微細な亀裂が入っている。


「ほう……」


 トマは針を手に取り、煤けた指先でその輪郭をなぞった。彼の職人としての目が、針に刻まれた古代ルーンの摩耗を瞬時に見抜く。


「また無茶な魔力を流し込みやがって。この針は泣いてるぞ。だが、相変わらずいい金属だ。スラムのゴミ溜めから拾える代物じゃねえ」


 その時、工場の奥からロラン・ジラールが歩み寄ってきた。彼は猫のような薄笑いを浮かべ、ルイの腰元に目を向けた。


「へえ、珍しい針ですね。師匠、俺が少し点検しましょうか? 仕立屋さんのハサミの方も、ついでに見せてくださいよ。錆びの具合を見てあげますから」


 ロランは親切を装いながら、ルイの外套の奥にある「黒鉄のハサミ」へ手を伸ばそうとした。ルイの「虚無の右目」が、ロランの手元を捉える。ロランの右手の平には、微かに発光する「魔力吸収ルーン」が仕込まれていた。その手でハサミに触れれば、ハサミに宿るアルノ一族の魔力を強制的に吸い取り、ルイの正体を暴くつもりなのだ。


 ルイは一歩下がり、ロランの手を冷酷にいなした。


「不要だ。このハサミは、私以外の者が触れることを拒む」


「おや、冷たいですね。ただの仕立て道具でしょう?」


 ロランの目が細まり、その指先から微かな探知魔術の波長が放たれた。ルイの魔力を強制的に引き出そうとする、執拗な詮索。ルイは「無塵仕立て」の技術を起動し、手袋の内部の魔力放射を完全に逆位相で打ち消した。ロランの探知波は、ルイの身体をすり抜け、ただの虚無へと消え去る。ロランの眉が怪訝そうにピクリと跳ねた。


 ルイはロランを無視し、炉の前に立つトマをまっすぐに見据えた。


「トマさん。このハサミは、かつて私の父ジャン・アルノが鍛えたものです。父は生前、こう言っていました。『本物の鍛冶職人が打った道具は、その職人の誇りを理解する者だけが触れるべきだ』と。だからこそ、私はあなたにしか、この針を預けたくない」


 その言葉が、トマの胸の奥にある頑固な職人魂を激しく揺さぶった。トマは金槌を床に叩きつけ、ロランを睨みつけた。


「ロラン! お前、すっこんでろ! 客の道具に気安く触るんじゃねえ! お前ごときのひよっこに、ジャンが鍛えた鉄の価値がわかってたまるか!」


「し、しかし師匠、俺はただ――」


「黙れ! 炉の温度管理に戻れ! 少しでも火を絶やしたら、この工場から叩き出すぞ!」


 トマの怒声が工場内に響き渡り、ロランは悔しそうに奥へと引き下がっていった。彼の去り際の視線には、ルイに対する底知れぬ敵意が混ざっていた。


「すまねえな、ルイ。あいつは腕はいいんだが、どうも最近、上層の派手な魔術に目が眩んでやがる」


 トマはそう言って笑うと、ルイの「黒鉄の針」を火床へとくべた。凄まじい熱風がルイの顔を焦がす。トマは特殊な魔導合金の塊を取り出し、針の亀裂を埋めるようにハンマーを叩きつけ始めた。


 カァン! カァン!


 一打ごとに、針に刻まれた古代ルーンが青白い輝きを取り戻していく。ルイはその光景を静かに見つめながら、自身の肉体のタイムリミットを思っていた。ロランにハサミの存在を疑われた。ギローの私兵が動いている。トビーの「三針縫合」を今夜中に完了させなければ、すべての証拠が消されてしまう。


「よし、できたぞ」


 トマが水槽に針を突っ込むと、激しい水蒸気が立ち上った。引き上げられた「黒鉄の針」は、以前よりも深く、鋭い漆黒の光を放っていた。亀裂は完全に消失し、魔力を最も通しやすい最適な状態に仕上がっている。


「ありがとう、トマさん。代金はこれで」


 ルイは懐から数枚のマナ・コッパー(魔力硬貨)を取り出し、作業台に置いた。硬貨に宿るスラム民の微弱な疲労の魔力が、トマの温かい手へと渡る。ルイは針を外套の内側にしまい、杖を突いて出口へと歩き出した。


 ロランは工場の隅で、火床を見つめたまま動かなかった。だが、ルイが鉄扉を開け、冷たい酸性雨が降る外へと一歩踏み出した、まさにその瞬間だった。


 ルイの「虚無の右目」が、自身の足元の影に、極小の歪みが生じたのを捉えた。


 ロランが去り際に放った、目に見えないほど小さな金属の杭――「影縛りの杭」のルーンが、ルイの足跡に重なるように、地面の影へと密かに突き刺さっていた。ルイの影が、物理的に地面に縫い留められるようにじわりと重くなる。


(……仕掛けられたか)


 背後で、ロランの冷酷な笑気を含んだ視線が、鉄扉の隙間からルイの背中を射抜いていた。罠が完全に起動するまで、あと数分。ルイは杖を強く握り締め、鉄の墓場の暗い路地裏へと急いだ。

HẾT CHƯƠNG

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