真実の筆跡
ウジェーヌの持つ測定天秤の針が、じりじりと、ルイの潜む闇を指し示そうとしていた。
地下闇市場の湿った空気が、緊張で張り詰める。真鍮製の天秤皿が不気味に揺れ、ウジェーヌの指先が魔導具の感度を上げるたびに、ルイの懐にある「深淵の魔石」が放つ強烈な影の魔力と共鳴し合っていた。このままでは、懐の魔石だけでなく、右足の膝上まで這い上がっている黒い壊死の斑紋までが「未登録魔導」の証拠として暴かれてしまう。
(……まだ、ここで捕まるわけにはいかない)
ルイは息を殺し、手袋をはめた右手を懐の魔石へと当てた。アルノ一族に伝わる隠蔽技術「無塵仕立て」の呼吸を応用し、魔石から漏れ出る魔力の波長を、自身の影糸の残滓を用いて逆位相へと打ち消していく。極細の影の糸が魔石の周囲に幾重にも巻き付き、その放射を完全に内側へと閉じ込める。さらに、着用している「遮魔の革手袋」の頑丈な魔獣の皮が、残流する冷気を物理的に遮断した。
測定天秤の針が、迷うように左右に激しく振れ、やがてぴたりと静止する。ウジェーヌは不機嫌そうに眉をひそめた。
「チッ、気のせいか。汚泥のガスが狂わせたらしい」
その瞬間、入り口近くで別の闇商人が衛兵を突き飛ばして走り出した。周囲の注意が一斉にそちらへ向く。ルイはその物理的な混乱を見逃さず、左手の木製の杖を静かに突き、無音の足取りで下水道の暗い分岐路へと滑り込んだ。引きずる右足の重みを、闇の死角へと隠しながら。
スラムの冷たい泥水を踏み越え、ルイはどうにか黒煙街の路地裏にある「アルノ仕立屋」へと帰り着いた。
店の奥にある隠し部屋。冷気とカタコンベの墓土の匂いが立ち込めるその場所で、トビーの遺体は静かに横たわっていた。ルイは懐から取り出した本物の「深淵の魔石」を、トビーの凍りついた胸の上に置いた。魔石が放つ深い闇の波長が、解けかけていた喉元の一針縫合を包み込み、少年の魂の霧散を一時的に繋ぎ止める。ルイは安堵の息を吐いたが、同時に右足の境界線から、骨を直接削られるような幻肢痛が這い上がってきた。彼は思わず作業台を掴み、激しく喘いだ。
「……そこまでして、その死体に執着する理由はなんだ、仕立屋」
暗闇から、突然かけられた声に、ルイの身体が硬直した。
作業台の陰から姿を現したのは、ボサボサの茶髪に丸眼鏡をかけた青年――新聞記者クロード・バローだった。その手には、ガラスと真鍮で作られた違法な試作品「魔導録音機」が握られていた。インクで汚れたシャツを着た彼は、警戒に満ちた、しかし知的好奇心を隠しきれない目でルイを凝視している。
「クロード・バロー……なぜここにいる」
ルイは右手を「黒鉄のハサミ」へと伸ばしながら、氷のように冷たい声で問いかけた。
「お前の店の周りを探らせてもらった。トビーが死んだ夜、お前がその遺体をカタコンベから運び出すのを見たんだ。審判所は『自然死』として片付けたが、トビーの首元には不自然な焦げ跡があった。あれは、ただの魔力枯渇じゃない。お前は何を知っている?」
クロードは一歩踏み出し、録音機を掲げた。
「俺は『真実の灯』の記者だ。この街の不条理を暴くためなら、どんな闇にでも首を突っ込む。お前がトビーの遺体を使って何かを企んでいるなら、それを記事にする権利がある」
「記事だと?」
ルイの右手の影が、不気味にうねり始める。ハサミの刃先から放たれる「影糸刃」が、クロードの首筋をいつでも切り裂ける位置にまで伸びようとしていた。ルイは他者との関わりを極力避けてきた。復讐の障害になる者は、例え記者であっても排除するつもりだった。
だが、クロードは怯まなかった。丸眼鏡の奥の瞳が、まっすぐにルイを見据える。
「殺したければ殺せばいい。だが、俺が死ねば、俺の社に遺した『仕立屋の奇妙な行動』に関する手記が自動的に公開される。それに、俺が生きていれば、お前が憎んでいる審判所の『内部のスケジュール』や『ギローの動向』をいくらでも提供できるぞ。お前一人で、あの巨大な法曹組織にどう立ち向かうつもりだ?」
ルイの動きが止まった。冷徹な思考が、クロードの提示した条件の価値を計算する。確かに、情報収集能力のない自分にとって、この記者の地下情報網と「魔導録音機」は、ギローの罪を暴くための強力な武器になり得る。
二人の間に張り詰めた沈黙が流れた。ルイがハサミを収めようとした、まさにその時だった。
ガシャァン!
仕立屋の表の扉が、乱暴に蹴り破られる音が響いた。不快な金属音と、威張り散らす足音が店内に侵入してくる。
「おい、仕立屋! 魔力徴収の時間だ! 第九等の分際で、今月の納税が滞っているぞ!」
現れたのは、先ほど闇市場を襲撃したはずの魔力徴収官、ウジェーヌだった。彼は二人の衛兵を従え、不敵な笑みを浮かべながら隠し部屋の入り口へと迫ってくる。ウジェーヌは闇市場での「異端の気配」を完全に諦めておらず、スラムの怪しい店舗を個別に捜索していたのだ。
ルイとクロードは、トビーの遺体がある作業台のカーテンの陰へと身を潜めたが、ウジェーヌは容赦なく隠し部屋の扉を開け放った。
「ほう、こんな奥に怪しい作業場があるとはな」
ウジェーヌの目が、壁際に立つルイを捉えた。ルイは素早く「遮魔の革手袋」をはめた手を外套のポケットに隠し、左手の杖に体重をかけて、病弱な仕立屋を装った。だが、ウジェーヌの細い目は、ルイの不自然な立ち姿と、その全身から漂う異様な冷気を見逃さなかった。
「お前……その右足はどうした? それに、その右手……」
ウジェーヌは真鍮の魔力測定天秤を取り出し、ルイの右半身へと近づけた。天秤の針が、ルイの右手の「遮魔の革手袋」の奥にある壊死細胞が放つ、濃厚な死霊の気配を感知して激しく揺れ始める。
「未登録の魔導反応、それも極めて不浄な闇の冷気だ。お前、異端の術式を使っているな? その手袋を外せ!」
ウジェーヌの衛兵が剣を抜き、ルイの左右を物理的に包囲した。逃げ道はない。ルイの右手のハサミが、外套の中で静かに開閉する。最悪の場合、この場でウジェーヌと衛兵を「影糸刃」で暗殺し、スラムから逃亡するしかないとルイは覚悟を決めた。
ルイの指先が影を切り裂こうとしたその瞬間、クロードが二人の間に割り込んだ。
「おっと、そこまでだ、ウジェーヌ徴収官」
クロードは丸眼鏡を押し上げ、懐から『真実の灯』の記者証と、一枚の羊皮紙を突きつけた。ウジェーヌは不快そうに顔を歪める。
「何だ、お前は。公務の邪魔をする気か?」
「邪魔ではありません、警告です。俺は明日、この黒煙街における『徴収官による不当な二重課税と、スラム民からの魔力硬貨の横領』に関する暴露記事を出す予定でしてね。あなたの名前と、あなたがギロー審判官に送った賄賂の額も、すべてこの記事の草稿に克明に記されています」
クロードは饒舌な知性を武器に、ウジェーヌの目の前で羊皮紙をちらつかせた。
「あなたがここで、ただの病弱な仕立屋を『異端』として不当に拘束するなら、俺は今すぐこの草稿を本社の印刷機に回します。そうなれば、あなたのキャリアは終わりだ。最高審判庁の上層部が、横領の容疑をかけられた下級官僚をどう処理するか、あなた自身が一番よく知っているはずだ」
ウジェーヌの顔から、一気に血の気が引いた。測定天秤を握る指先が、微かに震え始める。彼は典型的な権力の犬であり、自身の保身と地位を何よりも恐れる小心者だった。クロードの放った社会的スキャンダルの脅迫は、ウジェーヌの最も脆い急所を完璧に貫いていた。
「く、下らん脅しを……」
ウジェーヌは吐き捨てるように言ったが、天秤を懐へと収めた。彼はルイを鋭く睨みつける。
「……今回は見逃してやる。だが、次はないと思え。行くぞ!」
ウジェーヌは衛兵を従え、足早に仕立屋から退散していった。重い扉が閉まり、店内に再び静寂が戻る。
「ふぅ、死ぬかと思ったぜ……」
クロードは大きくため息をつき、額の汗を拭った。ルイはハサミから魔力を引き、静かにクロードを見つめた。この記者の機転が、物理的な戦闘を避けて危機を切り抜けたことは事実だった。二人の間に、奇妙な共犯関係の空気が流れ始める。
「……助かった」
ルイが短く感謝を述べ、杖を突いて歩き出そうとした、その時だった。
クロードの視線が、ルイの右手に注がれた。先ほどの緊迫したやり取りの中で、ウジェーヌの衛兵がルイの腕を掴もうとした際、ルイの「遮魔の革手袋」の裾が物理的に引きずり下ろされ、手首の皮膚が露出していたのだ。
そこにあったのは、生者の肌ではなかった。
インクを吸わせたように漆黒に変色し、血管が黒い糸のように不気味に浮かび上がった、完全に死に絶えた壊死の肉体――。
クロードの丸眼鏡の奥の瞳が、驚愕で激しく見開かれた。
「ルイ……お前のその手……それは、まさか……」
ルイは沈黙したまま、剥き出しになった黒い手首を手袋の奥へと静かに隠した。しかし、彼の宵闇の瞳は、秘密を知られたことで、かつてないほど冷酷な光を放ち始めていた。
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