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闇市場の天秤

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カタコンベの深く、黒い泥水が牙を剥く投棄溝からトビーの遺体と青き結晶を抱き抱えて脱出するのは、死線を潜り抜けるに等しい苦行だった。ギローの私兵たちの松明が闇を赤く染め、その足音が通路に反響する中、ルイ・アルノは泥に塗れた影の中を這うようにして進んだ。右足はすでに膝上まで完全に感覚を失い、冷たい鉛の塊と化している。引きずる足が石床に擦れるたび、脳髄を直接穿たれるような幻肢痛がルイの身体を苛んだが、彼は無音の呼吸を貫き、追手の網をすり抜けた。墓守ジョゼフの沈黙という名の助力に救われ、ルイは夜明け前にどうにか最下層スラム「黒煙街」の片隅にある自身の聖域――アルノ仕立屋の隠し部屋へと帰り着いたのだった。


 しかし、安息の時間は一瞬たりとも残されてはいなかった。


 隠し部屋の古い作業台の上、横たえられたトビーの遺体を見下ろすルイの宵闇の瞳に、焦燥の影がよぎる。トビーの喉元に施された「一針縫合(ファースト・ステッチ)」の黒い影糸は、今や細く、弱々しく解けかけていた。その表面からは微かな灰色の霧が立ち上り、魔力が底を突きかけていることを示している。このままでは、トビーの魂はこの世との繋がりを失い、永遠の虚無へと消え去ってしまうだろう。


「……一針では、声を持たせるのが限界か」


 ルイは左手の木製の杖にすがり、辛うじて身体を支えていた。トビーからさらなる真実を引き出し、ギローを断罪するための強固な証言を得るには、五感と記憶の映像を周囲に上映できる「三針縫合(サード・ステッチ)」が必要だ。だが、冷え切った死者の肉体に三本もの影糸を通し、その魂を安定させるためには、強大な魔力を補う触媒――「深淵の魔石」が不可欠だった。


 ルイは煤けた作業着のポケットから、数枚の薄汚れた銅貨を取り出した。スラムで流通する最低価値の通貨、魔力硬貨「マナ・コッパー」。日々の細々とした針仕事の報酬として得たそれらは、触れると微かに温かい。だが、その温もりは、国家によって生気を不当に搾取されたスラムの住民たちの「疲労と絶望」が残留した、呪わしい熱だった。この程度の小銭では、闇市場で取引される貴重な黒鉱石には到底届かない。


「仕立屋は服ではなく、人生を繕う」


 脳裏に、亡き父ジャンの厳格な声が響く。ルイは痛む右足の境界線をきつく縛り直し、黒い革手袋を手にはめた。金が足りないのなら、知略と観察眼で奪うまでだ。彼は外套の懐に「黒鉄のハサミ」を忍ばせ、夜の闇に紛れて、スラムの地下水道の奥深くへと足を踏み入れた。


 黒煙街の地下、腐食した排水路の先には、司法の監視が届かない不浄の溜まり場が存在する。闇商人ネットワーク「鼠の牙」が支配する地下闇市場。貴族街から排出された汚泥のガスが漂い、怪しげな発光植物が緑魔の光を放つその場所には、盗品や密売魔石、そして未登録の魔導具を扱う露店がひしめき合っていた。


 ルイは引きずる右足の音を杖の規則的な響きで覆い隠しながら、市場の最奥にある、ひときわ大きな露店へと近づいた。そこには、片目を眼帯で覆い、だぶだぶの高級コートを羽織った小柄な男――マルセルが、不敵な笑みを浮かべて座っていた。


「おや、黒煙街の『死体と話す仕立屋』じゃねえか。こんな掃き溜めに何の用だ? 俺のコートの綻びでも繕いに来たか?」


 マルセルは金貨を指先で弄びながら、ルイを小馬鹿にしたように見上げた。その瞳の奥には、ルイが纏う異様な影の気配に対する、本能的な警戒が隠されている。


「深淵の魔石が欲しい」


 ルイは感情の起伏を一切排した、氷のように冷たい声で言った。マルセルは一瞬だけ目を細め、それから大袈裟に肩をすくめて見せた。


「ハッ、お目が高いことで。だが、あれは上層の貴族様でも手に入れるのが難しい極上品だ。スラムの仕立屋が一生かけて縫う布切れの稼ぎじゃ、欠片すら買えねえよ」


「価格はそちらが決めればいい。まずは現物を見せろ」


 マルセルは鼻で笑うと、カウンターの奥から小さな木箱を取り出し、蓋を開けた。そこには、闇を吸い込んだように黒く光る、親指ほどの大きさの鉱石が鎮座していた。


「これだ。汚泥貯留池の底から命がけで掘り出された、純度百パーセントの『深淵の魔石』。価格は金貨五十枚。お前が持っているそのマナ・コッパーじゃ、見るだけで終わりだな」


 ルイは静かに右目を細めた。彼の「虚無の右目」が、マルセルの全身を覆う魔力の波長を捉える。同時に、ルイの脳内で「嘘の魔力探知」が静かに起動した。マルセルの言葉が紡がれた瞬間、彼の周囲の魔力波長が、不自然な「紫色の歪み」となってルイの視界に視覚化された。


 ――嘘だ。


 ルイの仕立屋としての超人的な観察眼が、マルセルの全身を冷徹にプロファイリングしていく。ルイの視線は、まずマルセルの羽織っているだぶだぶの高級コートの袖口へと注がれた。


(袖口の裏地に、わずかな金粉入りの染みがある。これは……最高審判庁の審判官のみに支給される『魔力署名インク』の痕跡だ。そして、彼の指先が微かに震えている。呼吸のテンポが、魔石を提示した瞬間に一拍だけ早くなった)


 さらに、ルイの鋭い目は、木箱の中の「魔石」の細部を解剖するように見つめていた。


(あの魔石の結晶構造は、不自然に整いすぎている。本物の深淵の魔石は、汚泥の圧力によってもっと不規則な繊維状の筋が入るはずだ。あれは上層の魔導廃棄物から回収された粗悪な魔力結晶を、黒い染料で着色し、魔力で一時的にコーティングしただけの『偽物』だ)


 すべてを理解したルイは、静かに杖を床に立て、マルセルの目を真っ向から見据えた。


「マルセル、商売をするなら、顧客の目を欺くための『仕立て』はもっと精密に行うべきだ」


「……あ? 何の話だ」


「その石は深淵の魔石ではない。上層のゴミ捨て場から拾い上げた廃棄魔石に、黒魔の染料を染み込ませただけの偽物だ。繊維の噛み合わせが粗く、あと半日もすれば着色が剥げてただの灰色の石に戻る」


 マルセルの顔が、一瞬にして硬直した。彼は慌てて木箱を隠そうとしたが、ルイの冷徹な言葉は止まらない。


「そして、お前のその高級なコートの袖口。そこに付着しているのは、下級審判官ギローの執務室にある『魔力署名インク』だな? お前はギローの私兵がスラムから回収した『密売用の本物の魔石』の帳簿を偽造し、裏で手数料を受け取っている。違うか?」


「て、てめえ……! 何のデタラメを言ってやがる!」


 マルセルは激昂し、カウンターを叩いて立ち上がろうとした。その目が、周囲に控える自身の私兵たちへと合図を送る。だが、ルイはそれよりも早く、懐から「黒鉄のハサミ」を抜き、その刃先をテーブルに突き立てた。


 キィィン……と、耳障りな金属音が闇市場の喧騒を切り裂く。ルイの足元から伸びる黒い影が、まるで生き物のようにうねり、マルセルの足元の影の喉元へと、鋭い影糸の刃となって物理的に突き刺さった。マルセルの全身が、金縛りに遭ったように完全に硬直する。


「お前のギルドの私兵を呼べばいい」


 ルイは身を乗り出し、マルセルの耳元で静かに囁いた。その声は、死神の吐息のように冷たい。


「だが、この事実が異端審問局の耳に入ればどうなる? 審判官のインクを盗み出し、ギローの裏取引に関与しているとなれば、お前の『鼠の牙』は明日には跡形もなく焼き払われ、お前自身も魂を精錬炉に放り込まれることになるぞ」


 マルセルの眼帯のない左目が、恐怖で激しく見開かれた。額から冷たい汗がだらだらと流れ落ちる。ルイの「嘘の魔力探知」は、マルセルの脳内が「完全な敗北と恐怖」で満たされていることを告げていた。ルイの突きつけた脅迫には、一ミリの反論の余地もなかったのだ。


「……わ、分かった。悪かったよ、仕立屋。お前の言う通りだ」


 マルセルはかすれた声で降伏を宣言し、私兵たちに手を振って下がらせた。彼は震える手でカウンターの裏にある隠し引き出しを開け、別の、古びたフェルトの袋を取り出した。


「本物は……こっちだ。これを持って、さっさと消えてくれ」


 袋から転がり出たのは、光を物理的に吸収し、周囲の空気さえも凍りつかせるような本物の「深淵の魔石」だった。ルイはそれを手袋をはめた左手で掴み、その本物の重みと冷気を確認すると、テーブルの上に数枚のマナ・コッパーを静かに置いた。


「正当な取引だ、マルセル。お前の秘密は、俺のハサミの噛み合わせの中にしまっておく」


 ルイは魔石を懐に収め、杖を突いて立ち上がった。トビーの魂を繋ぎ止めるための鍵は手に入った。これでアトリエに戻れば、三針縫合の儀式を開始できる。


 しかし、彼が闇市場の出口へと向けて身体を反転させた、まさにその瞬間だった。


 ドォン! と、闇市場の重厚な鉄扉が物理的に吹き飛ばされ、鼓膜を裂くような爆音と、直視できないほどのまばゆい黄金の光が地下空間へと乱入してきた。


「誰も動くな! 最高審判庁の令状に基づき、不法魔導および密輸品の検問を行う!」


 立ち込める黒煙を切り裂いて現れたのは、黒い官僚服に身を包み、指先で真鍮の魔力測定天秤を弄ぶ男――下級審判官ギローの配下である、魔力徴収官ウジェーヌだった。彼の背後には、聖銀の鎧を纏い、光を放つ剣を構えた無数の衛兵たちが、一糸乱れぬ動きで闇市場のすべての退路を物理的に封鎖していく。


「異端の気配を検知した。この場にいる者全員の魔力測定を行う。抵抗する者はその場で魂を徴収する!」


 ウジェーヌの冷酷な宣言が響き渡り、闇市場は一瞬にして阿鼻叫喚のパニックに包まれた。ルイはフードを目深にかぶり、杖を握りしめたまま、壁の影へと身を潜めた。しかし、ウジェーヌの持つ測定天秤が、ルイが懐に収めた「深淵の魔石」と、右足の壊死が放つ異様な冷気に向けて、じりじりとその針を傾け始めていた――。

HẾT CHƯƠNG

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