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死者は嘘をつかない

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ゴゴゴゴ……と、耳を圧する地鳴りがカタコンベの空気を震わせる。


 上層の貴族街から排出された「黒煙街の魔力汚泥」が、濁流となって第三投棄溝の狭い通路へと流れ込んできた。鼻を突く酸性雨と腐敗の臭いが、急激に膨れ上がる熱気と共に押し寄せる。このままでは、石棚の上に横たわる少年の遺体は汚泥の底に沈み、骨の一片すら残さず溶かされてしまうだろう。それは下級審判官ギローによる、完璧な証拠隠滅を意味していた。


「……逃がしはしない」


 ルイ・アルノは、不快なぬかるみに杖を突き立て、不自由な右足を無理やり前に踏み出した。膝から下は、完全に感覚を失った漆黒の壊死斑に覆われている。まるで冷え切った鉛の塊を引きずっているかのような重みと、骨の奥を直接冷たい針で穿たれるような幻肢痛がルイの脳を焼く。だが、彼の宵闇の瞳に宿る復讐の炎が消えることはなかった。


 ルイは激しい息を吐きながら、トビーの遺体の脇へと這い寄った。十二歳の少年の骸は、生気を完全に失い、驚くほど軽かった。ルイは痩せた両腕でトビーを抱き上げ、汚泥の波が届かない、一段高くなった岩の空洞へと滑り込ませる。泥水がルイの引きずる右足の爪先をかすめ、外套の裾をじりじりと焦がした。


 時間がない。トビーの喉元に施した最初の一針――「一針縫合(ファースト・ステッチ)」の魔力は、急激な環境の悪化によって今にも解けかけていた。魂の残滓である「霊霧」が、少年の唇から薄い青色の煙となって、頼りなく虚空へと霧散していく。


「トビー、お前の時間を、もう一度だけ俺に繋ぎ止めろ」


 ルイは震える左手で、懐から一つの遺品を取り出した。文字盤のガラスが蜘蛛の巣状に割れ、泥と錆に塗れた安物の「錆びた懐中時計」。トビーがかつて父親から譲り受け、肌身離さず持っていた唯一の宝物。これを触媒として使用することで、死者の魂と生前の未練を極限まで同調させるのだ。


 ルイは時計をトビーの傷だらけの胸の上に置いた。そして、右手に握られた「黒鉄のハサミ」に自身のわずかな魔力を注ぎ込む。刃先が不気味な黒い輝きを放ち、ルイの足元に伸びる薄い影を物理的に「切り裂いた」。


「あ、ぐっ……!」


 脳髄を直接剃刀で削り取られるような、凄まじい精神的激痛がルイの全身を駆け抜ける。自身の影を切り分ける痛みは、魂を引き裂かれる等価交換の儀式。肺腑から絞り出されそうになる絶叫を、彼は歯を食いしばって喉の奥へ押し戻した。切り裂かれた影は、絹糸のような漆黒の「影糸」へと変形し、黒鉄の針穴を無音で通り抜ける。


「一針縫合」


 ルイは黒鉄の針を手にし、トビーの喉元の皮膚へと正確に突き立てた。感覚を失いかけた指先。だが、仕立屋としての超人的な運針の記憶が、暗闇の中でも一ミリの狂いもなく針を滑らせる。影糸が喉の傷口を縫い合わせるように通り抜けた瞬間、錆びた懐中時計がカチリ、と奇跡的に一秒だけ秒針を動かした。


 ドクン、とルイの心臓が激しく脈動した。


 トビーの魂とルイの精神が繋がったのだ。魂魄の「共鳴率10%〜30%」の領域。その瞬間、ルイの脳内に、濁流のような光景と感情が直接流れ込んできた。それはトビーが死の間際に抱いた、極限の恐怖と絶望の追体験だった。


(息が、できない……!)


 ルイは自身の喉が物理的に締め付けられるような錯覚に襲われ、激しく咳き込んだ。視界が歪み、脳裏に映し出されたのは、スラムの薄暗い路地裏。トビーの身体を押さえつける、審判所の紋章を纏ったギローの私兵たちの冷酷な笑み。そして、彼らが掲げた禍々しい真鍮製の「魂の精錬ランタン」――。


 ランタンの蓋が開けられた瞬間、まばゆい、しかしおぞましい光がトビーの全身を包み込んだ。肉体から生気が、魂が、物理的な霧となって引き剥がされ、ランタンの中へと吸い込まれていく。細胞の一つ一つが乾燥し、干からびていくような凄まじい乾きと、魂を直接沸騰させられるような激痛。トビーは声を上げることもできず、ただ涙を流しながら、自らの存在が「魔石の原料」として消費されていく恐怖に耐えるしかなかったのだ。


「……う、あ……!」


 ルイは現実世界で自身の胸を押さえ、激しく喘いだ。死者が感じた痛みの同期。右腕の皮膚に、血管のような黒い壊死の斑紋が微かに浮かび上がる。だが、ルイは「嘘の魔力探知」を起動し、その記憶の波動に一切の欺瞞がないことを確認した。死者は、嘘をつかない。少年の命を奪ったのは、間違いなくギローの私兵であり、その魂は魔石として密売されたのだ。


 トビーの遺体が、ゆっくりと目を開けた。その瞳は濁った灰色ではなく、微かな青い光を宿している。縫合された喉が震え、掠れた、泣きじゃくるような声がカタコンベの闇に響いた。


「……おじ、さん……冷たいよ……。あの光が、僕を……僕の全部を、吸い取って……」


「トビー、聞こえるか。お前を殺したのは誰だ」


 ルイは少年の冷たい手を握り締め、静かに問いかけた。


「ギロー様の……青い服を着た、私兵たち……。僕が、あの人たちの『秘密の馬車』を見てしまったから……。ランタンで、僕の命を……全部、奪ったんだ……」


 少年の告白は、ギローの罪を完全に裏付ける決定的な証言だった。しかし、その直後、トビーの青い瞳が、突如として赤黒い憎悪の光へと染まり始めた。


「許さない……。僕をこんな目にあわせた奴らを、絶対に許さない……!」


 トビーの生前の未練と、死の瞬間の恐怖が、急激に「怨霊化(暴走)」へと向かっていく。少年の遺体から漂う霊霧が黒く変質し、物理的な質量を持った「黒い棘」となって周囲の空間へ噴出し始めた。バチバチと不気味な魔力の火花が散り、その棘の一つが、ルイの右肩を容赦なく貫いた。


「ぐうっ……!」


 影の棘が肉体を物理的に引き裂き、冷たい呪力がルイの体内に流れ込む。ルイは咄嗟に「死魂の防壁」を展開しようとしたが、トビーの強すぎる憎悪の前に、精神的な障壁にはみるみるうちにひびが入り、崩壊しかけていた。魔力で強制的にトビーの魂を縛り付けることは可能だった。だが、それをすれば、トビーの脆弱な魂の器は完全に砕け散り、二度と安息を得ることはできなくなる。


(力で支配すれば、俺もあの審判所の怪物どもと同じになる……!)


 ルイはハサミを床に置き、無防備な両腕を伸ばした。そして、影の棘が自身の身体を幾重にも突き刺すのも厭わず、暴走するトビーの冷たい遺体を、その胸に強く抱きしめた。


「トビー、もういい。もう怯えるな」


 ルイは、自身の「復讐の執念」の波長を、トビーの「未練と恐怖」の波長へと重ね合わせ、静かに語りかけた。仕立屋が衣服のサイズを合わせるように、二つの魂の波長をミリ単位で調律していく。


「お前の無念は、俺が引き受ける。お前を殺した奴らを、必ずこの世界の法の下で引きずり下ろし、裁いてみせる。だから、お前は怪物になるな……俺を信じろ」


 ルイの胸の奥で、アルノ一族の始祖の影が激しく脈動し、トビーの怨念の圧力を中和していく。ルイの右肩から黒い血が流れ落ち、精神的疲労により右半身の壊死が数ミリメートル進行していくのが分かった。生者としての寿命が削られていく冷徹な感覚。


 だが、ルイの「誓い」は、影糸を通じてトビーの心臓へと確かに縫い込まれた。


 暴走していた黒い棘が、一瞬にして光の粒子となって霧散した。トビーの瞳から赤黒い光が消え、元の穏やかな、しかし哀切に満ちた青い光へと戻っていく。少年はルイの胸の中で、静かに息を吐き出すような音を立てた。


「……信じるよ、お仕立て屋さん。僕の……僕たちの声を、届けて……」


 トビーの魂が、静かに安息の調和を取り戻した瞬間、少年の目元から、一滴の青い涙が零れ落ちた。


 その涙は床に落ちる前に、カタコンベの冷気の中で凍りつき、透き通った青い結晶へと変貌した。ルイがそれを手にとると、結晶の内部で、トビーが殺害された瞬間の「魂の精錬ランタン」の光景が、微小な幻影となって美しく、克明に再生されていた。


「死者の記憶結晶」――。


 それは、いかなる司法の改ざんも通用しない、ギローの罪を証明する「絶対の物理的物証」だった。


 ルイが結晶を握り締めた、まさにその時。


 ペタペタと、汚泥の流れる通路の奥から、複数の物理的な足音が響いてきた。松明の不気味な赤い光が、湿った石壁を照らし出す。


「おい、第三投棄溝のバルブを開けたんだ。あのガキの死体はもう溶けているはずだ。確認して、すぐに引き揚げるぞ」


 ギローの私兵たちの声だった。彼らの警戒網が、すぐそこまで迫っていた。右足の動かないルイが、トビーの遺体と結晶を抱えて脱出するための猶予は、もう一分も残されていなかった――。

HẾT CHƯƠNG

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