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投棄溝の夜番

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黒煙街の墓地裏は、毒素を孕んだ泥濘と、吐き気を催すような酸性雨の臭いに満ちていた。


「……くっ……」


 ルイ・アルノは、濡れた墓碑の影で息を潜めた。左手に握られた安物の木製の杖が、ぬかるんだ土に深く沈み込む。右足の感覚は完全に消失していた。膝から下はインクを流し込んだように漆黒に染まり、冷たい鉄の棒を引きずっているかのように重い。一針縫合の代償――世界の等価交換法則がもたらした「壊死」の第一段階は、確実に彼の肉体を蝕んでいた。


 懐から、ガストンの診療所で打たれた「グレイ・リキッド」の残り香が、肺腑を刺すような冷気となって昇ってくる。極毒の防腐剤は、壊死の進行を一時的に凍結させてはいるが、同時にルイの体温を氷点下近くまで奪い去っていた。全身が凍えるような悪寒に震え、吐き出す息は白く濁っている。


 だが、休んでいる時間はない。少年の魂が完全に霧散するまで、残された猶予はごく僅かだった。


 ルイは「虚無の右目」を開いた。失明したはずの右眼が、暗闇の中で青白く揺らめく「死魂の吹き溜まり(しこんのふきだまり)」を捉える。それはカタコンベの入り口から溢れ出る、名もなき死者たちの無念の未練が霧となって凝縮したものだ。その青い光の筋を辿るようにして、ルイはスラムの墓地の最奥へと這うように進んだ。


 そこに、カタコンベへと続く錆びついた鉄扉が、巨大な獣の顎のように口を開けていた。通常なら、下級審判所の魔導鍵で固く閉ざされているはずの扉だ。ルイは懐から「黒鉄のハサミ」を取り出した。一族の家系図に刻まれた微弱な魔力を刃先に通し、鍵穴へと滑り込ませる。


 カチリ、と無機質な音が響き、扉がゆっくりと開いた。内部から吹き出すのは、湿った泥と、腐敗した死臭、そして頭上の貴族街から垂れ流される「黒煙街の魔力汚泥」の酸鼻を極める悪臭だった。


 一歩足を踏み入れると、地下の迷宮は完全な暗黒に包まれていた。天井からは、汚染された魔力の廃棄物が泥水となって滴り落ち、地面の溝をドロドロと流れている。その汚泥に触れれば、生身の肉体は数分で溶け崩れ、影の魔術すら腐食させられる。ルイは不自由な右足を庇いながら、天井からの滴を避けるように、杖を突き突き細心の注意を払って進んだ。


 その時、暗闇の奥から、低く、重い足音が響いてきた。不規則に擦れる金属の音。そして、冷徹な黄色の光が、曲がり角の向こうから這い上がってくる。


「何奴だ」


 現れたのは、顔の右半分が酷く焼けただれた不気味な老人――カタコンベの墓守、ジョゼフだった。その腰には巨大な鍵の束がジャラジャラと音を立てて揺れ、右手には魔力を感知して発光する「魂を呼ぶランタン」が握られている。ランタンの放つ sickly な黄色い光が、容赦なくルイの痩せた身体を照らし出した。


「……生者が立ち入る場所ではない。ここは審判所の管理下にある死の底だ」


 ジョゼフの声は、墓碑の底から響くように低く、冷たかった。彼はルイの右手に握られた「黒鉄のハサミ」と、その足元から立ち上る異様な黒い影の気配を鋭く見抜いた。ランタンの灯火が激しくパチパチと音を立て、異端の魔力を検知したことを告げる。


「その影の気配……登録された魔導士のものではないな。死霊術の類か。異端審問官を呼ばれる前に、立ち去れ」


 ジョゼフはランタンを突き出し、ルイの行く手を物理的に阻んだ。カタコンベの防衛魔術が起動しかけ、周囲の壁に刻まれたルーンが微かに発光し始める。戦えば、確実にルイの魔力は底を突き、異端審問隊長ヴァルガスの探知網に引っかかる。右足の動かないルイに、逃げ道はなかった。


 ルイは、ハサミを向けなかった。ただ、杖をしっかりと握り直し、ジョゼフのランタンの光を真っ向から見据えた。彼の「虚無の右目」は、ジョゼフの足元を捉えていた。老墓守は、スラムの死者が雑に遺棄された通路を通る際、決して遺体の屍衣を踏まないよう、細心の注意を払って歩いていた。その煤けた指先は、死者たちの名碑を愛おしそうに撫でた痕跡で汚れている。


「俺は、死者を冒涜しに来たのではない」


 ルイは静かに、しかし鉄のような確信を込めて囁いた。


「今日、ここに運ばれたトビーという少年の遺体があるはずだ。審判所は彼を『魔力枯渇による自然死』として処理した。だが、それは嘘だ。彼はギローの私兵に生気を吸い取られ、殺された」


 ジョゼフの焼けただれた顔が、僅かにピクリと動いた。


「……それがどうした。スラムの第九等市民がどう死のうと、ここに運ばれればただの泥に還る。それがこの都市の法だ」


「その法が、嘘で塗り固められている」


 ルイは一歩、不自由な右足を踏み出した。泥濘が不快な音を立てる。彼は「黒鉄のハサミ」の柄に刻まれた、アルノ一族の古い紋章をジョゼフに示した。


「死者は嘘をつかない。俺は仕立屋だ。服を繕うように、彼らが奪われた最期の言葉を繋ぎ合わせ、真実を語らせる。そのためには、トビーの遺体が必要だ。彼を汚泥に溶かさせはしない」


 ジョゼフはルイのハサミに刻まれた紋章を凝視した。その濁った瞳の奥に、驚愕と、かつて失われた古い記憶の残滓が過る。アルノ――かつて初代王と共に「真実の法」を創り上げた、伝説の仕立屋の一族。


「アルノの生き残りか……。だが、お前のその右足を見ろ。影を切り裂き、死者に縫い付けるたびに、お前自身が死体に近づいていく。そんな命を削る真似をして、何になる」


「妹の魂が、引き裂かれた」


 ルイの宵闇の瞳に、暗い執念の炎が宿る。


「一族を滅ぼし、死者の声を闇に葬った最高審判庁の奴らに、代償を支払わせる。そのためなら、この半身がすべて黒く朽ち果てようとも構わない」


 沈黙がカタコンベを支配した。滴り落ちる汚泥の音だけが響く中、ジョゼフはゆっくりとランタンを下げた。彼の腰の鍵束が、静かに鳴り止む。


「……ギローの奴らは、毎日、都合の悪い死体をここに放り込んでいく。ゴミのようにな」


 老墓守は吐き捨てるように言い、背後の暗闇を指し示した。


「トビーの遺体は、その先、第三投棄溝の冷たい石棚の上だ。まだ汚泥は流していない。だが、急げ。審判所の私兵どもが、証拠を完全に消し去るために、間もなくここへやってくる」


「感謝する、ジョゼフ」


 ルイは杖を突き、闇の奥へと急いだ。ジョゼフのランタンの光が遠ざかる中、ついに彼は冷たい石棚の上に横たえられたトビーの遺体を発見した。白く、生気を失った少年の顔。喉元には、ルイが施した最初の一針の黒い影糸が、未だに微かな気配を保ったまま縫い付けられている。


 ルイがトビーの冷たい額に手を伸ばした、まさにその瞬間だった。


 ゴゴゴゴ……と、カタコンベの奥底から、不気味な地鳴りのような音が響き渡った。それは、上層から流れ込む魔力汚泥の排水バルブが強制的に開放された音だった。ドロドロとした黒い泥水が、津波のように通路の奥から溢れ出し、トビーの遺体を溶かすために急速に水位を上げ始める――。

HẾT CHƯƠNG

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