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鼠の這う地下路

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雨が降っていた。魔法司法都市ヴェルタスの最下層「黒煙街」の煤を溶かした泥水が、スラムの狭い路地を濁流となって流れていく。深夜の闇の中、一台の辻馬車が音もなく滑り込んできた。御者のユーグは、つばの広い帽子を目深にかぶり、手綱を握る手を微動だにさせない。彼の馬車は、馬の歩調に魔力を同調させ、無音で走行する特殊な仕掛けが施されている。


 ルイ・アルノは、馬車の暗い車内で、右目から流れた黒い魔力液を革手袋で拭った。使い魔ノワールがボリスの「魂の精錬ランタン」の光に焼かれた際の、魂を直接剃刀で削られるような激痛が、いまだ脳髄の奥でパチパチと不快な火花を散らしている。感覚を失った右足に体重を預け、左手の黒い木製杖を床に突いて身体を支えた。首筋を締め付ける「防腐の魔導チョーカー」の銀針が、皮膚の裏側で冷たく脈動し、壊死の冷気が脳へと侵入するのを辛うじて押し留めている。喉の筋肉が麻痺し、息を吸うたびに、不快な死気が肺を刺した。


「ルイ、ここが限界だ」


 ユーグの低い声が、雨音に混ざって届く。


「この先は下水道の管理区。ギローの私兵どもが目を光らせている。無事に戻ってこいよ。お前の親父さんには、まだ恩を返しきれていないんだからな」


「ああ。退路を頼む」


 ルイは不自由な右足を引きずりながら、馬車から降りた。手にした黒い木製杖が、濡れた石畳に鈍い音を立てる。ユーグは静かに頷き、再び闇の中へと馬車を消し去った。


 ルイが待ち合わせていたのは、下水道の錆びたマンホールの影だった。そこには、ボロボロの毛布を纏った老人、ピエールが静かに佇んでいた。彼の濁った両目は光を失っているが、その耳は周囲の微細な空気の震えをすべて捉えている。


「来たな、仕立屋。お前の足音がいつもより重い。影を削りすぎたか?」


「問題ない。案内を」


 彼らは錆びた鉄梯子を降り、スラムの地下下水道へと潜入した。


 そこは、上層の貴族街から排出された不浄な魔力廃棄物――「黒煙街の魔力汚泥」が満ちる、暗黒の巨大迷宮だった。ドロドロとしたヘドロが不気味な緑色の燐光を放ち、天井からは酸性の泥水が絶え間なく滴り落ちている。呼吸をするだけで、肺の細胞が物理的に溶けるような極毒のガスが充満していた。


 ルイの右足は「第一段階:右足の黒化」の極限に達していた。つま先から膝、そして太ももにかけて、皮膚はインクを吸わせたように漆黒に変色し、氷のような冷気だけを放っている。感覚は完全に消失しており、泥濘に足を取られるたび、自分の足を物理的に引きずり上げるようにして進まねばならなかった。


「待て」


 ピエールが突然、立ち止まり、古い木製の杖を軽く床に叩いた。「カァン」という微かな反響音が、湿った通路の奥へと消えていく。


「三歩先、左のパイプから高濃度の汚泥ガスが吹き出している。足音の反響が僅かに歪んでいる。右の壁に寄れ」


 ルイはピエールの超人的な聴覚を羅針盤にし、泥濘の中を一歩ずつ進んだ。ピエールは「足音の反響」だけで、汚泥のガスの流出方向を正確に特定し、ルイに警告を発しているのだ。


 しかし、不気味な地鳴りと共に、下水道の圧力バルブが逆流した。


「汚泥が来るぞ!」


 ピエールが叫ぶ。頭上の鉄管から、高濃度の不浄な泥水が滝のように降り注いできた。直接触れれば、防護魔術を持たない生身の肉体は数分で溶け崩れる。ルイは避ける物理的な時間がないと瞬時に判断した。


「影の歩法「闇渡り」」


 ルイは自身の影をハサミで切り裂く痛みに耐え、ピエールの細い腕を掴んで、下水道のわずかな影の隙間へと滑り込んだ。肉体が実体を失い、影と同化する。彼らの上を、酸性の汚泥が凄まじい音を立てて通り過ぎていった。


 しかし、影の中を移動するルイの肉体を、下水道に充満する汚泥の毒気が侵食した。影糸の魔力が毒気によって腐食され、影の中での移動可能距離が著しく減少していく。肺が焼けるような激痛が走り、ルイは影から強制的に弾き出されるようにして、乾いた足場へと転がり出た。


「はっ、ぐ、ぅ……」


 ルイは胸を押さえ、激しく喘いだ。


「大丈夫か、仕立屋。お前の体から、死人の匂いが濃くなっているぞ」


 ピエールが心配そうに耳を傾ける。汚泥のガスはルイの「遮魔の革手袋」の隙間から皮膚に侵入していたが、事前にガストンから投与されていた「グレイ・リキッド」の防腐効果が、一時的にその毒性を中和していた。皮膚が微かに青白く変色するだけで済んだのは、闇医者の技術のおかげだった。


「……先を急ぐ」


 ルイは掠れた声で言った。首筋の「防腐の魔導チョーカー」が冷たく脈動し、壊死の進行を物理的に食い止めている。


「足音だ」


 ピエールがルイの肩を強く引いた。


「硬い金属のブーツ。審判所の地下巡回兵……いや、ギローの私兵どもだ。三人。奥の通路からこちらへ向かっている」


 ルイとピエールは、天井から垂れ下がる古い作業用シートの影に息を潜めた。ピエールの「超人的聴覚」が私兵たちの正確な歩調を捉え、物理的な接触を完璧に回避する。私兵たちは、ルイが先ほど「闇渡り」で残した微かな影の残滓に気づくことなく、汚泥の臭いについて愚痴をこぼしながら通り過ぎていった。私兵たちの背中を見送りながら、ルイはギローの私兵隊長ロバートの冷酷な指示を思い出していた。あの男が下水道の警備を強化しているのは間違いなかった。


 静寂が戻った暗闇の中、ピエールが静かに呟いた。


「仕立屋。お前のそのハサミの音、そして無音の身のこなし……。昔、私がまだ光を失う前、スラムの古い聖堂で見たことがある。アルノの一族が仕立てた『真実の法服』を纏った男の姿を。あの服を纏った者は、どんな権力者の嘘をも暴き立て、死者の声を世界に届けた。お前は、その血を引いているのだろう?」


 ルイは答えなかった。だが、心臓の奥にある「始祖の影」が、その言葉に共鳴するように熱く脈動した。父ジャンが遺した「仕立屋は服ではなく、人生を繕う」という教えが、冷たい下水道の闇の中で、ルイの魂を確かに支えていた。これは単なる個人的な復讐ではない。虐げられた死者たちの無念を晴らすための、歴史的な使命なのだ。


「着いたぞ。この先が、ギローの精錬所の外壁結界だ」


 ピエールが指し示したのは、下水道の最奥。腐食した鉄格子の向こうに、微かに揺らめく不気味な魔力の障壁だった。ボリスが魂を吸い出す非道な精錬所は、このすぐ先にある。


 ルイは「闇渡り」を起動し、結界の隙間を一気に突き抜けようとした。しかし、右足の魔力伝導率の著しい低下により、影糸の術式が結界の防衛回路と反発。結界の手前で強制的に実体化させられてしまった。


「ぐあぁっ!」


 ルイは激しい魔力のバックラッシュを受け、湿った床に膝をついた。左手の杖がカラカラと音を立てて転がる。有毒ガスの吸引と魔力の酷使により、右足の壊死斑が太ももの付け根まで一気に這い上がり、生者としての体温がさらに1度低下した。全身が氷のように冷たくなっていく。


「ルイ、動くな!」


 ピエールが突然、鋭い悲鳴のような声を上げた。彼の耳が、異常な速度で引き絞られる。


「下水道の底……汚泥の深淵から、何かが目覚めた。死者たちの怨念と、濃縮された毒気が練り合わされた、巨大な魔力の塊だ。……急速に、こちらへ近づいてくる!」

HẾT CHƯƠNG

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