黒き糸の目覚め
魔法司法都市ヴェルタスの最下層、通称「黒煙街(こくえんがい)」。
上層の貴族街から排出された魔力汚泥が、重く湿った灰色の霧となって地を這い、太陽の光を完全に遮っている。この街では、未解決の殺人が日常の背景にすぎず、法の光が届かぬ不条理な暴力だけが唯一の秩序だった。
煤けたレンガ造りの建物の路地裏に、古びた看板を掲げた一軒の店がある。「アルノ仕立屋」。表向きは貧民の破れた衣類を繕うしがない針仕事の店だが、その奥には、世界の理を揺るがす禁忌が隠されていた。
店主のルイ・アルノは、灰色の使い古した仕立屋のコートを羽織り、静かに地下室への階段を下りていた。彼の右足は、歩くたびに冷たく硬い音を立てる。引きずるようなその足取りは、彼が背負う代償の重さを示していた。
地下室の最奥。カタコンベの墓土を塗り固めて魔力反応を遮断した冷たい暗闇の中に、一台の石床が置かれている。そこに横たわるのは、十五歳の妹、セリア・アルノだった。
漆黒の髪を乱れなく整え、人形のように美しい顔立ちをした少女は、氷のように冷たい仮死状態にある。一族が最高審判庁に虐殺されたあの日、彼女の魂は三つに引き裂かれ、その器だけがここに残された。胸元でかすかに鈍い光を放つ形見の銀のブローチが、彼女の命の灯火が完全に消えていないことを示している。
「セリア……」
ルイは感覚を失いかけた右手で、そっと妹の頬に触れた。体温は感じられない。だが、彼は諦めない。一族を惨殺し、妹の魂を奪い去った最高審判庁の判事たちへの復讐。そして、妹の魂をすべて回収し、再びその瞳に光を取り戻すこと。それだけが、ルイを動かす唯一の執念だった。
「仕立屋は服ではなく、人生を繕う」
亡き父、ジャン・アルノの教えが、冷え切った脳裏に蘇る。ルイは静かに目を閉じ、再び地上へと戻った。復讐の針路を紡ぐための、最初の獲物を探さねばならない。
その日の朝、黒煙街の路地裏は、いつも以上の不穏な熱気に包まれていた。脂ぎった魔力汚泥が流れる側溝の傍らに、人だかりができている。
「どけ、どけ! 審判所の検査だ!」
下級審判官ギローの紋章をつけた役人が、集まった貧民たちを乱暴に押し退けていた。その中心に横たわっていたのは、十二歳のスラムの少年、トビーの遺体だった。ルイの店にも時折、ガラクタの金属片を届けてくれた、人懐っこい少年だった。
役人はトビーの首元を一瞥し、面倒そうに羊皮紙にペンを走らせる。
「死因は魔力枯渇による衰弱死。事件性なし。第九等市民の自然死として処理し、カタコンベへ投棄しろ」
「待ってください!」
野次馬の中から悲痛な声が上がった。トビーの親代わりだった洗濯女のジャンヌが、泥に膝をついて懇願する。
「トビーは昨日まで元気でした! 魔力枯渇なんてあり得ない! 誰かに殺されたんです、どうか調べてください!」
「黙れ、第九等に発言権はない。審判所の決定は絶対だ」
役人は冷酷に吐き捨て、遺体を運ぶよう私兵に命じた。これがこの都市の「法」だった。魔力等級を持たない弱者は、殺されても裁判すら行われず、ただのゴミとして処理される。
ルイは群衆の影から、静かにその光景を見つめていた。彼の右目の視界が、不気味な宵闇の色に染まる。「虚無の右目」が起動し、世界から色彩が失われ、死者の残存する「影の輪郭」だけが鮮明に浮かび上がる。
トビーの遺体から、薄い青色の霧――魂の残滓である「霊霧」が、喉元から空中に立ち上っていた。そしてルイの目は見逃さなかった。トビーの衣服の襟元に、極小の焦げ跡があることを。それは魔力を強制的に吸い出すための魔導具「魂の精錬ランタン」が放つ、特有の熱によるものだった。
自然死ではない。ギローの私兵が、少年の魂を魔石にするために、生気を限界まで吸い尽くして殺害したのだ。
「死者は嘘をつかない」
ルイは外套の懐に手を入れ、ジャンから受け継いだ「黒鉄のハサミ」の冷たい感触を確かめた。トビーの霊霧が完全に霧散するまで、あと三時間もない。審判所が隠蔽した真実を暴くため、ルイは行動を開始した。
深夜、ルイは秘密裏に回収したトビーの遺体を、アトリエの作業台の上に横たえていた。部屋の灯りは極限まで落とされ、静寂が満ちている。
「トビー、お前の無念の声を、この世界に紡ぎ出す」
ルイは作業台の前に立ち、自身の足元に伸びる影を見つめた。彼は「黒鉄のハサミ」を右手で握りしめ、魔力を込める。ハサミの刃が、不気味な黒い光を放ち始めた。
「影糸縫合術・基本式『影紡ぎ』」
ルイはハサミを自身の影へと突き立て、物理的に切り裂く動作を行った。その瞬間、ルイの全身を、脳髄を直接剃刀で切り刻まれるような凄まじい精神的激痛が襲った。
「ぐっ……!」
歯を食いしばり、絶叫を喉の奥で押し殺す。自身の魂そのものを切り分ける苦痛は、慣れることなど決してない。切り裂かれた影が、ハサミの刃先から滑らかな漆黒の糸――「影糸」へと変化し、黒鉄の針穴へと吸い込まれていく。
一度目の縫合試行。ルイは激痛に耐えながら、トビーの喉元の一点に向けて針を突きだした。だが、その瞬間、あまりの激痛に魔力の制御が乱れ、影糸が空中で Jagged な針となって暴走しかけた。トビーの壊れかけた魂の器を傷つけそうになり、ルイは即座に術式をキャンセルした。
激しい呼吸の乱れ。額から冷たい汗が流れ落ちる。失敗すれば、トビーの魂は完全に崩壊し、二度と真実を語ることはなくなる。
さらに、等価交換の法則がルイの肉体を容赦なく破壊し始めた。右足のつま先から、氷を直接流し込まれたような冷徹な感覚が這い上がってくる。皮膚がインクを吸わせたように漆黒に変色し、筋肉の感覚が完全に消え去っていく。「第一段階:右足の黒化」の進行だった。
「まだだ……ここで倒れるわけにはいかない」
壊死の冷気が腰を越えて心臓に達しようとしたその時、ルイの胸の奥で、アルノ一族の始祖から受け継いだ「不滅の影」が激しく脈動した。その影が冷気の侵入を物理的に押し留め、壊死の進行を膝の手前で辛うじて凍結させた。
ルイは息を整え、仕立屋としての極限の呼吸法を調律した。手元の震えを完全に殺し、トビーの喉元の一点を見定める。死者の生前の未練と、自らの復讐の執念を波長を重ね合わせるように同調させていく。
「一針縫合(ファースト・ステッチ)」
無音の静寂の中、黒鉄の針がトビーの喉の皮膚を貫いた。黒い影糸が、一本の細いラインとなって皮膚を縫い合わせる。
縫合が完了した瞬間、トビーの遺体がかすかに痙攣し、その瞳がゆっくりと見開かれた。濁った瞳の奥に、青い霊霧が美しく立ち上る。ルイは激痛の代償として右足の膝から下の感覚を永久に失い、崩れ落ちそうになる身体を左手の杖で支えた。
そして、死んだはずの少年の喉から、かすれた、しかし明確な「声」が漏れ出した――。
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