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闇のボスの魔手、消えた見習い少年

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中央時計塔の暴走――『時震(タイム・クエイク)』が収束し、ルミリオンの街を包んでいた灰色の霧がゆっくりと晴れていく。しかし、私の心に安堵の兆しは微塵もなかった。空に浮かぶ時の神殿の黄金船が放つ威圧感もさることながら、私のエプロンのポケットの中で、祖父の遺品である『ギデオンの壊れた懐中時計』が、チリチリと不気味な震動を止めずにいたからだ。


「ハァ……、ハァ……」


 私は大賢者ユリウスの冷たい胸に抱えられたまま、時計塔の階段を駆け下り、這うようにして自身の時計工房へと戻った。ユリウスとの並列脳同期による過負荷で、頭痛が割れるように痛む。手袋に隠された私の右腕は、肘の手前まで冷たいガラスの結晶に侵食され、時折、黄金色の光を放ちながらピキリと不吉な音を立てていた。


「ステラ、無理をするな。君の心拍がこれ以上乱れれば、我々の命の砂も逆流する」


 ユリウスが私を床に降ろし、眼鏡の奥の青い瞳で私の状態を厳しく監視する。工房の1階店舗には、すでにレオンハルトとドラグニルが待ち構えていた。彼らもまた、寿命の減少による衰弱で肩を揺らし、険しい表情で私を見つめている。だが、彼らの視線が私に注がれた瞬間、工房の異様な静けさに全員が息を呑んだ。


「……静かすぎるわ」


 いつもなら、私が戻ると真っ先に駆け寄ってくるはずの、14歳の見習い少年テオの姿がない。彼の明るい声も、真鍮を磨く規則正しい音も聞こえなかった。


 私の心臓が、嫌な予感でドクリと跳ねる。私はガラス化した右腕をかばいながら、店舗の奥へと足を進めた。作業台の前にたどり着いた瞬間、私の息が止まる。


 床には、テオが何よりも大切にしていた、祖父から貰った『初めてのマイ・スパナ』が転がっていた。その周囲には、バラバラに散乱した時計の歯車と、そして――どす黒い、小さな血溜まりができていたのだ。


「テオ……? 嘘でしょう……!」


 私はその場に膝をつき、血溜まりを見つめた。私の固有能力『寿命の味覚(クロノ・テイスト)』が、鼻腔を突く。ツンとした鉄の匂いの中に混ざる、まだ若く、未完成な生命力の香り。間違いない、テオの血だ。


 作業台の上には、一枚の血に汚れた手紙と、不気味に「チクタク」と音を立てる奇妙な黒い懐中時計が置かれていた。私は震える手でその手紙を開いた。


『偉大なるクロノス一族の生き残り、ステラ・クロノスへ。

お前の大事な見習いガキは、我々ヴァルカン闇商会が預かった。命が惜しければ、今すぐ一人で、胸に融合した「命の魂砂時計」を持って「闇市場の地下闘技場」へ来い。お前が警察や自警団に知らせるか、あるいは一時間遅れるごとに、この時計に連動した吸引器がガキの寿命を一年分ずつ強制的に吸い出す。現在、ガキの残り寿命は――あと数日といったところだ』


「なっ……なんて残虐なことを……!」


 手紙を読み上げた私の声が、怒りで激しく震える。その時、横に置かれていた黒い懐中時計が「ジリリ」と鳴り、内部の魔導録音回路が起動した。


『お、お姉ちゃん! 来ちゃダメだ! こいつら、お姉ちゃんの胸の砂時計を――あぐっ、ああああああっ!』


 スピーカーから響いたのは、テオの悲痛な悲鳴と、肉体を痛めつけられる鈍い音だった。スピーカーの向こうで、ヴァルカンの下劣な笑い声が響く。『ハハハ! 聞こえるか、小娘。早く来ないと、このガキは干からびた老人の死体になるぞ』


「テオ……!」


 あまりの怒りに、私の視界が真っ赤に染まりかけた。だが、私は深く息を吸い込み、強引に理性を引き戻した。私はテオの血が流れた床に指先で触れ、再び『寿命の味覚』を研ぎ澄ます。


 ――鉄の味、そして微かなハーブの香り。血はまだ完全に凝固していない。そして、この生命力の「匂い」は、まだ致命的な崩壊を起こしていない。血の量も、テオの小さな体からすれば、脅しのためにわざと浅い傷をつけられて流されたものだ。


「……生きているわ」


 私は冷徹な声で呟いた。


「ヴァルカンは私をパニックに陥れるために、この録音と血溜まりを用意したのよ。テオの残り寿命が数日というのは本当でしょうけれど、今すぐに死ぬような傷は負わされていない。私をおびき寄せるための、ただの『餌』として生かされているわ」


 その時、工房の扉が再び開き、マルクスが青ざめた顔で飛び込んできた。


「ステラ! テオが、ヴァルカンのごろつきどもに拉致されて地下水道へ連れ去られたという目撃情報を得た! すぐに警備隊を動かして捜索しようとしたんだが……!」


 マルクスは悔しそうに拳を握りしめ、歯噛みした。


「ヴァルカンと裏で繋がっている商業ギルドの議員ガリウスが、政治的な圧力をかけてきたんだ。『確たる証拠もないのに地下水道を捜索することは、商業活動の侵害である』と……。捜査令状の申請が、上層部で完全に差し止められてしまった。クソッ、俺が警備隊長でありながら、法に縛られて動けないなんて……!」


「いいのよ、マルクス。最初から、あの悪党どもに帝国の法なんて通用しないわ」


 私は静かに立ち上がった。私の胸の『命の魂砂時計』が、怒りの熱量に呼応するように、黄金と赤の混ざり合った激しい光を放ち始める。


「私が、一人で行く」


「正気か、ステラ!」


 レオンハルトが、私の肩を掴んで引き留めようとした。彼の美しい金髪には、寿命の枯渇を示す白髪が混ざり、その手は微かに震えている。


「ヴァルカンの罠だ。奴はお前の砂時計を奪い、我々を老衰死させるつもりだ。お前が一人で行けば、奴の思う壺だ。……俺が行く。この身体が朽ち果てようとも、そのガキを連れ戻して見せる」


「いや、俺の影の棘で、闇市場ごと奴らを串刺しにしてやる」


 アルフォンスが昏い瞳を光らせ、床から影を伸ばそうとした。だが、その瞬間――。


「ぐっ……!?」

「あ、はぁ……!」


 レオンハルトとアルフォンスが、同時に胸を押さえてその場に膝をついた。彼らの頭上に浮かぶ残り寿命の数値が、赤く明滅し、激しい音を立ててカウントダウンを加速させる。時震の解決のために魔力を酷使し、さらに私と物理的な接触を断っていた時間が長すぎたのだ。彼らは今、命の瀬戸際である『秒生者(セカンド)』の領域へと転落しかけていた。


「二人とも、動かないで」


 私は冷たい視線を、膝をつく最強の覇王たちへと向けた。彼らは、世界を支配する覇者でありながら、今は私の温もりがなければ、歩くことすらできない無力な存在。支配と被支配が、完全に逆転しているのだ。


「あなたたちだけで行っても、闘技場にたどり着く前に老衰死するわ。……そして、私が一人で行けば、ヴァルカンに砂時計を抉り取られて、結局あなたたちも即死する。『一蓮托生』の意味を、もう忘れたの?」


 私は自身の右手の指先を、鋭いピンセットの先で小さく傷つけた。そこから流れた一滴の赤い血を、胸元で激しく明滅する『命の魂砂時計』の刻印へと直接擦りつける。


 ジ、と不気味な魔力音が響き、私の血が砂時計に吸い込まれた。その瞬間、私の心臓から、四人の心臓へと繋がる黄金の因果の鎖が、かつてないほど強固に輝き出す。砂時計のバルブが強制的に開放され、私の生命力が、四人の体内へと濁流のように流れ込んでいった。


「あ……、魔力が……還流してくる……」


 ユリウスが眼鏡を抑え、驚愕に目を見開く。ドラグニルの角が赤く燃え上がり、アルフォンスの左腕の傷が急速に塞がっていく。レオンハルトの白髪が、一瞬にして黄金の輝きを取り戻した。


 私は彼らを見下ろし、凛とした声で宣言した。


「私の大事な弟を傷つける奴は、神様だろうと許さない。……あなたたち、私の盾と矛になりなさい。私があなたたちの命を維持してあげる。その代わりに――あのクズどもを、一人残らず叩き潰しに行くわよ」


 その瞬間、四人の覇王たちの瞳に、これまでにない強烈な光が灯った。


 彼らは、お互いへの激しい敵対心やプライドを、初めて完全に心の奥底へと投げ捨てた。一人の時計師の少女が示した、絶対的な「覚悟」と「支配の美しさ」に、彼らの魂は本気で屈服し、魅了されていたのだ。


「御意に、我が主(マイ・レディ)」


 レオンハルトが、その場に跪き、自身の『誓約の白銀剣』を私に捧げるようにして頭を垂れた。


「貴女の怒りは、我が剣の怒りだ。そのガキを傷つけた者たちに、聖騎士の裁きを」


「面白い。お前がそこまで狂暴な顔をするなら、俺の影のすべてを捧げよう」


 アルフォンスが不敵な笑みを浮かべ、私の足元にひれ伏すように影を広げた。


「俺の番(つがい)を怒らせた羽虫どもだ。骨の一片も残さず、焼き尽くしてやる」


 ドラグニルが牙を剥き、黄金の瞳を獰猛に輝かせる。ユリウスもまた、静かにモノクルを光らせ、「数式的な殲滅プランは、すでに私の頭脳の中で完成している」と冷酷に微笑んだ。


「マルクス、あなたはここに残りなさい。自警団が動けば、ガリウスたちに私たちの動きが筒抜けになるわ。……オルロージュ、工房の留守を頼むわね」


「了解いたしました、ステラ様。ご武運を」


 アンティークな自動人形オルロージュが、静かに一礼する。


 私は四人の覇王たちを従え、夜の帳が下りたルミリオンの街へと歩み出した。目指すは、街の地下水道の奥深く、誰も立ち入ることを許されない禁忌の領域――『闇市場の地下闘技場』。


 テオ、今助けに行くわ。お姉ちゃんの大事な時計を狂わせた奴らに、本物の『時の恐怖』を教えてあげる。

HẾT CHƯƠNG

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