時震の咆哮、賢者と繋ぐ頭脳
「うそ……、中央時計塔が……!」
ルミリオンの街の中心にそびえ立つ、あの超巨大な真鍮のシンボルが、見たこともない歪み方で身悶えしていた。
ゴオオオオ、と地響きのような重低音が街中に響き渡る。それは物理的な震動ではない。時間の流れそのものが急激にうねり、引き裂かれる音――『時震(タイム・クエイク)』だ。昨日、私がギルドの監査官たちの前で『永久機関時計』を修復した際、ユリウスの魔力を借りて放った大規模な時間操作の残滓が、この街の時間の基盤である大歯車と最悪の形で共鳴してしまったのだ。
私の作業用エプロンのポケットの中で、祖父の遺品である『ギデオンの壊れた懐中時計』が「チリチリチリ!」と耳障りな金属音を立てて激しく逆回転していた。時間神の干渉、あるいは世界の理の崩壊を知らせる警告。胸元に融合した『命の魂砂時計』もまた、警告に応じるようにドクドクと不協和音を奏で、皮膚の裏側から焼け付くような熱を放っている。
「ステラ! 外が、外が大変なことになってる!」
工房の扉を蹴破るようにして飛び込んできたのは、幼馴染であり警備隊長を務めるマルクスだった。彼の端正な顔は恐怖に青ざめ、息を切らしている。
「中央時計塔の周囲の時間が狂い始めてるんだ! 触れた草木が一瞬で枯れ果てたかと思えば、広場の噴水の水が逆流して空へ昇っていく! このままじゃ、街全体の時間が崩壊して、住民全員が……!」
「修復が不完全だった永久機関時計の波動が、時計塔の古代魔導コアに干渉したか」
奥の部屋から静かに現れたのは、大賢者ユリウスだった。整えられた黒髪に、冷徹な青い瞳。彼は右目に嵌めた『ユリウスのモノクル』を指先で軽く調整しながら、外の異常な魔力波形を冷静に凝視していた。その背後では、レオンハルトが「私が同行しよう」と厳かに剣を構え、ドラグニルが「羽虫どもの街など、燃え尽きればいい」と吐き捨てつつも、私の身体を心配そうに睨みつけている。
「私が……行かなきゃ」
私はガラス化の痛みが残る右腕を左手で抱え、立ち上がった。昨日の今日で、私の右腕は手首から肘にかけて、朝光を浴びて黄金色に輝く半透明の結晶――生きた硝子へと変質しつつあった。指先を動かすだけで、ギチリと凍りつくような激痛が走る。だが、祖父が遺したこの街を、私のせいで崩壊させるわけにはいかない。
「その身体で登るつもりか、ステラ」
ユリウスが私の前に立ちはだかり、冷たい声で遮った。しかし、その瞳の奥には、いつもの冷徹な観察者としての光だけではなく、焦燥に似た昏い色が混ざり合っている。
「私に触れていなさい。君の心臓が止まれば、我々も死ぬ。……そして何より、君のその美しい脳が、壊れるのを見たくはない」
「なら、ユリウス。私を支えて」
私は彼の冷たい、けれど知性に満ちた手を強く握りしめた。その瞬間、私の胸の砂時計から黄金の光の糸が伸び、ユリウスの心臓へと繋がる。『寿命共生接続(ライフ・リンク)』。一時的に全盛期の魔力を取り戻したユリウスが、私の身体をふわりと抱き上げ、窓から跳躍した。レオンハルトとドラグニルが、激しい嫉妬を湛えた視線で私たちを見送るのがわかったが、今は構っていられない。
ルミリオンの中央広場は、まさに地獄絵図だった。
時計塔の周囲に漂う霧は灰色に染まり、物理法則を無視して渦巻いている。崩落した瓦礫が空中に静止し、あるいはスローモーションでゆっくりと落下していく。時間の流れが局所的に加速・減速を繰り返しているのだ。
「おい! 大歯車をロープで固定しろ! 回転を止めるんだ!」
マルクスが自警団を率いて、物理的な解決を試みていた。屈強な男たちが、大歯車に向けて太い魔導麻縄を投げかける。しかし、その縄が時計塔の放つ temporal wind(時間風)に触れた瞬間――。
「なっ……!?」
マルクスが絶句した。縄は一瞬にして茶色く変色し、数十年分の時間を一秒で駆け抜けたかのように風化して、灰となって霧散したのだ。人間の肉体が触れれば、どうなるかは火を見るより明らかだった。
「無駄だ、マルクス! 物理的な力じゃ、あの狂った『時の歯車』は止められない!」
私はユリウスに抱えられたまま、叫んだ。ユリウスは私を抱いたまま、崩落しかける時計塔の外壁の足場を、重力を無視した魔術のステップで軽々と登っていく。足元の石材が「サラサラ」と砂に還っていく中を、私たちは最上部へと突き進んだ。
時計塔の最上部、駆動室。
そこには、直径十メートルを超える超巨大な大歯車が、火花を散らしながら凄まじい音を立てて逆回転していた。カチカチカチカチと、狂ったように時を刻む音が鼓膜を灼く。中心部にある古代魔導コアの回路は、過負荷で真っ赤に充血し、今にも爆発しそうだった。
「ステラ、ここから先は物理的な修理と、魔導回路のハッキングを同時に行う必要がある。だが、この暴走速度では、君の肉眼では回路の接続点(ポート)すら視認できないはずだ」
ユリウスが私の背後に回り、私の身体を後ろから包み込むようにして強く抱きしめた。彼の長い指先が、私の胸元の砂時計にそっと触れる。彼の冷たい体温が、私の背中を通じてダイレクトに伝わってき、心臓が跳ね上がった。
「私の脳と、君の感覚を同期させる。私の『真理の解析眼』の視界を、君に貸し出そう。……大人しく私に身を委ねるんだ、ステラ」
ユリウスが囁くと同時に、彼の嵌めていたモノクルが青く発光した。
キィィィン――!
私の脳裏に、冷たい知性の濁流が流れ込んできた。視界が急速にクリアになり、私の琥珀色の瞳が、鮮やかなコバルトブルーへと染まっていく。ユリウスの脳と私の頭脳が、砂時計の因果線を介して完全に同期し、並列処理を開始したのだ。
その瞬間、世界が変わった。
猛烈な速度で逆回転していた大歯車が、まるで水の中に沈んだかのように、ゆっくりと、極限のスローモーションで動き始めた。飛び散る黄金の火花の一粒一粒が、空中で静止したように輝いている。これが、賢者の知性がもたらした『時間遅延』の視界。
「視える……! コアの第三バイパス回路、そこが焼き切れて、異常な逆流シグナルを送り続けているわ!」
「計算は私が引き受ける。君は手を動かせ。……一万通りの回転シミュレーションを開始する。唯一の『修理ポイント』は、次の歯車が噛み合う、コンマ〇〇二秒の隙間だ」
ユリウスの冷徹な声が、私の脳内に直接響く。彼の並列演算能力が、私の指先に完璧なタイミングを伝達してくる。私はガラス化して半分感覚を失っている右腕を、ユリウスの手によって上から包み込まれるようにして固定した。彼の温かい(いや、私よりもずっと冷たいはずの)手が、私のブレを完全に殺してくれる。
「いくわよ、ユリウス……!」
「ああ。私の魔力で、君の右腕の震動を中和する。恐怖を捨てろ、ステラ。君の後ろには、私がいる」
暴走する時間振動が、私の右腕をさらにガラス化させようと、鋭い針のような拒絶反応を放ってきた。しかし、ユリウスが自身の青い魔力を私の腕に流し込み、その破壊的な振動を自身の肉体で相殺してくれている。彼の美しい顔に、微かな苦痛の歪みが走るのがわかった。彼は自身の命を削って、私の華奢な腕を守っているのだ。
――今だ!
脳内で弾き出された唯一の「青い光の点」に向けて、私は左手に持ったピンセットを突き刺した。暴走する魔導コアの、極小の制御スイッチ。そこへ、ユリウスから借り受けた魔力を一点に集中させ、ハッキングを仕掛ける。
「システム・オーバーライド――過去の正常な回転リズムを、現在に『上書き』する!」
カチ、リ。
世界に、一際美しい、澄んだ真鍮の音が響き渡った。
狂ったように逆回転していた超巨大大歯車が、ピタリと動きを止めた。そして、一秒の静寂の後、ゆっくりと、今度は正方向へと、チクタクと重厚なリズムを刻み始めた。時計塔から放たれていた灰色の霧が晴れ、空中に浮いていた瓦礫が、重力に従ってガラガラと音を立てて地面へと崩れ落ちていく。街の時間の暴走は、完全に収束したのだ。
私は極度の精神的過負荷と疲労により、ユリウスの胸の中で完全に力尽き、へたり込んだ。鼻から、たらりと一筋の赤い血が流れ落ちる。
「よくやった、ステラ。君は本当に……私の想像を超える、最高の『研究対象』だ」
ユリウスは私の身体を抱きしめたまま、その冷たい指先で、私の鼻血を優しく拭った。彼の青い瞳は、熱い、底知れない独占欲で満たされている。彼の囁きが、私の耳元に甘く、冷たく響いた。
「君を解剖して調べたいと、最初は思っていた。だが……訂正しよう。君のこの素晴らしい頭脳も、この温もりも、他の男たちには一瞬たりとも渡したくない。君を誰の目にも触れさせず、私だけのものにしたい……。この執着を、君はどう責任取ってくれる?」
彼の冷徹な知性派としての仮面の下にある、狂信的な愛の深さに、私の心臓がドクリと跳ねた。しかし、その甘美な緊迫感を、最悪の影が打ち破る。
チリチリチリチリ――!
ポケットの中の壊れた懐中時計が、これまでで最も激しい、悲鳴のような振動を始めた。胸の砂時計が、警告の赤色に激しく明滅する。
私はハッとして、崩壊した時計塔の最上部の窓から、遥か彼方の空を見上げた。ルミリオンを包む霧の向こう、朝焼けの光を遮るようにして、巨大な、黄金色に輝く空中船が、ゆっくりと姿を現していた。
船首に刻まれているのは、世界の寿命を支配する、あの絶対的な紋章。
「時の神殿……。異端審問官長、サリエル……!」
私たちの時間操作の残滓を検知し、ついに「神の法の執行者」が、この街へと直接乗り込んできたのだ。最上部から見下ろす私の目に、その黄金の船が、冷酷な死の影を落としながら近づいてくるのが映っていた。
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