ギルドの罠、天才時計師の誇り
チクタク、チクタク、チクタク……。
夜明けの薄明かりが差し込むクロノス時計工房の二階で、私は重い身体を起こした。鼻腔をかすめるのは、昨夜の激闘の名残である焦げたオゾンの臭いと、アルフォンスの放った黒焔の残滓。ベッドの隣では、魔導猛毒を抑え込まれたアルフォンスが、まだ浅い眠りの中にいた。私の右腕は、手首から先が冷たく、まるで金粉を散りばめたような半透明の「ガラス結晶」に変質している。指先を動かそうとすると、ギチリと軋むような鈍い痛みが走った。最強の覇王から魔力を強制的に借用した代償は、確実に私の肉体を蝕んでいる。
「ステラ、無理をするな。まだ寝ていろ」
屋根裏部屋への階段から音もなく現れたのは、大賢者ユリウスだった。彼の青い瞳は、私のガラス化した右腕を痛ましげに見つめている。その背後からは、白銀の甲冑を纏ったレオンハルトと、不機嫌そうに角を震わせる竜王ドラグニルも姿を見せていた。アルフォンスの異変と深夜の急襲に気付いた彼らは、私への独占欲と心配から、一触即発の険悪な空気を漂わせている。
「大丈夫よ。今日はお店の片付けをしなきゃ……。みんなは奥の部屋に隠れていて。昨日の一件で、街の警備隊やギルドが動き出すかもしれないから」
私がそう言いかけた、まさにその瞬間だった。
一階の店舗の扉が、ドンドンドンドン!と、耳を劈くような荒々しい音で叩かれた。壊れたガラス戸が激しく振動し、不吉な予感に私の背筋が凍りつく。ポケットの中の『ギデオンの壊れた懐中時計』が、チリチリと不気味に逆回転を始め、危険を知らせるように細かく震えた。
「おい、平民の娘! ギルドの監査だ、今すぐ扉を開けろ!」
外から響いたのは、傲慢で聞き覚えのある声――競合である『クラフト時計店』の跡取り、ユーリ・クラフトの声だった。私は覇王たちに目で「隠れて」と強く指示し、手袋をはめてガラス化した右腕を隠すと、一階へと階段を駆け下りた。
扉を開けると、そこに立っていたのは、嫌らしい笑みを浮かべたユーリと、その後ろに控える時計職人ギルドの制服を纏った若い男だった。黒縁の眼鏡の奥から、冷徹で知的な視線を投げかけてくるその男――レオン・マイヤー監査官は、手に持った厚い書類の束を私に突きつけた。
「ステラ・クロノス。ルミリオン時計職人ギルド本部監査官のレオン・マイヤーだ。クラフト時計店からの告発に基づき、当工房に営業停止および差し押さえの通告を行う」
「営業停止……!? どういうことですか、マイヤー監査官。私に何の落ち度があるというの?」
私は動揺を押し殺し、冷徹に問い返した。すると、ユーリが壊れた壁の黒焦げた跡を指差して、勝ち誇ったように叫んだ。
「白々しいぞ、ステラ! この店舗の破壊跡、そして漂う不気味な魔力の残滓……! お前、ギルドの許可なく、この工房で危険な古代魔導具の違法製造を行っているだろう! 無認可の古代遺物改造は即座にライセンス剥奪、工具もすべて没収だ!」
ユーリの言葉に、私の心臓がドクリと跳ねた。昨夜のシャドウハントとの戦闘で、寝室だけでなく一階の店舗の一部まで黒焔で破損してしまっていた。それを彼らは「違法製造の証拠」としてこじつけたのだ。
ギルドの衛兵たちが、私の作業台に置かれた、祖父ギデオンの遺品である精密工具箱に手を伸ばそうとする。工具を没収され、工房を差し押さえられれば、覇王たちとの同居生活(生存接続)は維持できなくなる。彼らは私から離れれば、数分で急速に老化して死に至るのだ。この工房は、彼らの命を繋ぐ唯一の心臓部だった。
「待ちなさい!」
私は衛兵の手を鋭く払い、レオン・マイヤーの前に立ちはだかった。手袋の中の右腕が激痛を訴えていたが、私は一歩も引かなかった。
「ギルドの規律は絶対よ、マイヤー監査官。でも、規律の裏には『職人の品質と伝統の維持』という大前提があるはず。確たる証拠もないのに、ただの店舗の破損を理由に工具を没収するなんて、職人のプライドが許さないわ」
レオン・マイヤーは眼鏡の位置を直し、冷酷な瞳で私を見つめた。「規則は規則だ。だが……君がそこまで『職人の誇り』を口にするなら、ギルドの伝統に則った解決法を提示しよう」
彼はそう言うと、背後の衛兵が抱えていた頑丈な真鍮の箱を開け、中から一つの歪な時計を取り出してテーブルに叩きつけた。
「これは時の神殿からギルドに持ち込まれた、古代魔導時計『永久機関時計』の破損個体だ。複雑怪奇な多次元回路が施され、ギルドの特級時計師ですら修復を諦めた代物。これを、今この場で、君の技術だけで修理して見せろ。成功すれば、無認可改造の疑いを晴らし、営業停止処分を即座に撤回しよう。だが、失敗すれば……即刻、ライセンスを剥奪する」
「そんなの、不公平よ! 特級時計師すら直せないものを、どうして私が――」
「直せるはずがないさ!」
ユーリが嘲笑を浴びせる。「独学の落ちぶれたクロノス家の娘が、神殿の魔導時計に触れるなどおこがましい! マイヤー監査官、早く封印を!」
私はテーブルの上の魔導時計を見つめた。真鍮のフレームは黒ずみ、内部のギアは複雑に絡み合って、不気味な静寂を保っている。だが、時計師としての本能が、私の魂を揺さぶっていた。ここで逃げれば、すべてが終わる。
「いいわ。その決闘、受けて立つわ」
私は宣言し、作業用ゴーグルを額にかけた。レオン・マイヤーの目が、驚きに微かに見開かれる。
私は手袋をはめたまま、魔導時計の冷たい真鍮の表面にそっと触れた。脳裏に、私の固有特殊能力である『時の声を聞く力(サイコメトリー)』を集中させる。
――キィィィン、と耳鳴りのような音が響き、視界が反転した。
脳裏に流れ込んできたのは、100年前の光景。豪奢な宮殿の机から、この時計が激しく床へと落下する瞬間。その衝撃により、心臓部である『脱進機のガンギ車』の極小の軸が、わずかコンマ数ミリだけ歪み、噛み合わせが完全に狂ってしまった記憶。
「視えた……」
私は目を開け、ゴーグルを目元へと下ろした。手袋を脱ぎ捨てると、ガラス化した右腕が朝の光を浴びて黄金色に美しく輝いた。ユーリがその異様な腕を見て「な、なんだその腕は……!?」と息を呑んだが、私は無視した。手袋を外したことで、私の指先は『精密ピンセット操作』の極限の集中状態へと入る。
ピンセットを握る私の右手は、周囲の騒音を完全に遮断し、1ミリ以下のギアの噛み合わせへと寸分の狂いもなく吸い込まれていった。歪んだ軸を、極小の魔力針で物理的に矯正していく。
「バ、バカな……。あんな細かな作業を、肉眼で、しかもブレ一つなく進めるなんて……!」
ユーリが焦りを含んだ声を漏らす。レオン・マイヤーもまた、私の指先の「あり得ない精度」に釘付けになっていた。
だが、修理が佳境に入ったその時、時計の内部から不気味な黒い魔力波が立ち上った。神殿がこの時計に施した『情報封印呪術』が、外部からのハッキングを検知して自動起動したのだ。呪いのトゲが私の指先に迫り、脳を直接灼くような激痛が走る。
(くっ……、ここまで来て……!)
その時、私の背後に、目に見えない温かい気配が寄り添った。奥の部屋から、ユリウスが精神リンクを通じて、私に自身の微弱な魔力をバイパスしてくれたのだ。私はその知的な青い魔力を砂時計を通じて指先に収束させ、呪いの魔導回路の「隙間」へとピンセットを突き刺した。相反する魔力を強引に流し込み、呪いの回路だけをショートさせて爆破する。パチリ、と小さな火花が散り、黒い霧は霧散した。
焦ったユーリが、懐からこっそりと黒い磁気石を取り出し、私のピンセットを狂わせようと磁場を放った。だが、私は『時の声』で彼の企みを事前に察知していた。私は時計の真鍮製の地板の角度を微調整し、その磁力を物理的に反射・分散させることで、妨害を完全に無効化した。
最後の極小ギアが、カチリと完璧な音を立てて噛み合う。
――チクタク、チクタク、チクタク……!
100年の沈黙を破り、永久機関時計が、まるで生き返った心臓のように、美しく規則正しいリズムで時を刻み始めた。黄金の光の粒子が文字盤から溢れ出し、店舗内を優しく照らす。
「直った……。本当に、完璧に調律されている……」
レオン・マイヤーは、信じられないものを見る目で時計を見つめ、その場に立ち尽くした。ギルドの監査官としての冷酷な仮面が剥がれ落ち、一人の時計師としての深い敬意と驚愕がその瞳に浮かんでいた。彼はゆっくりと頭を下げた。
「私の負けだ、ステラ・クロノス。君の技術は、ギルドの特級職人すら遥かに凌駕している。無認可改造の疑いは完全に晴れた。営業停止処分は撤回する」
「そんな……! マイヤー監査官、何かの間違いだ! この女がそんな奇跡を起こせるはずが――」
「黙れ、ユーリ・クラフト」
レオンが冷徹に一喝した。「これ以上の侮辱は、ギルドの誇りが許さない。引き上げるぞ」
ユーリは悔しげに唇を噛み締め、私を睨みつけた。しかし、その瞳の奥には、恐怖や怒りだけではない、私の圧倒的な技術と、朝光に輝く凛とした美しさに魅了されてしまったような、熱く複雑な光が混ざり合っていた。彼は顔を赤く染めながら、逃げるように工房を飛び出していった。
監査官たちが去り、店舗に静寂が戻った瞬間、私は張り詰めていた緊張の糸が切れ、その場に崩れ落ちそうになった。精神力を極限まで磨り潰した代償として、鼻からたらりと一筋の赤い血が流れ落ち、頭を激しい知恵熱が襲う。
「ステラ!」
奥から駆け込んできたレオンハルトが、倒れかける私の身体をその逞しい腕でしっかりと抱き止めた。ユリウスとドラグニルも、私の血を見て顔色を変えている。
「無茶をしおって……。だが、見事な腕前だった」ユリウスが、私の血を優しく拭いながら、その瞳に研究欲を超えた深い熱を宿らせる。ドラグニルも私の手を強く握り、自身の熱量でガラス化の痛みを和らげようとしていた。
工房の営業権は死守した。だが、レオン・マイヤーが去り際に残した言葉が、私の胸に重く突き刺さっていた。
『これほどの技術だ。いずれ、時の神殿の耳にも届くことになるだろう。気を引き締めておくことだ』
神殿の追跡網が、すぐそこまで迫っている。私たちは生き延びるため、さらなる嵐の中へと足を踏み入れていくのだった。
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