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闇に潜む牙、影の魔王の甘い囁き

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チクタク、チクタク、チクタク……。


 深夜の時計工房の二階、手狭な寝室には、規則正しくもどこか息苦しい真鍮の鼓動だけが響いていた。窓の外は、ルミリオン特有の深い霧が夜の闇をさらに重く塗り潰している。


 大きな木製のベッドの上、私は身動きも取れずに天井を見つめていた。私の胸元――皮膚と融合した古代の遺物『命の魂砂時計』が、衣服越しに微かに黄金の熱を帯びている。そして、その熱に引き寄せられるようにして、私の身体を横からしっかりと抱きしめている存在があった。


「……おい。勝手に鼓動を乱すな。お前の心拍が狂うと、俺の胸が騒ぐ」


 耳元で、低く掠れた声音が囁いた。魔界の覇王、アルフォンスだ。

 彼の透き通るような白い肌は、私の体温を吸い取るように冷たい。漆黒の髪が私の鎖骨のあたりに散らばり、夜の闇よりも深いオプシディアンの瞳が、至近距離で私をじっと見つめていた。彼の長い腕が私の腰を容赦なく締め上げ、逃げる隙を一切与えない。


「乱したくて乱しているわけじゃないわ。……あなたがあまりにも強く抱きしめるからでしょう、アルフォンス」


「黙れ。これは『寿命共生接続』を安定させるための、不可避の接触だ。それとも何か? あの傲慢な騎士や、耳障りな竜の方が良かったとでも言うつもりか?」


 アルフォンスの声音に、冷酷な嫉妬のトゲが混ざる。今夜は『添い寝スケジュール管理法』に基づき、彼が私のベッドに入る番だった。肌を重ね合わせていなければ、数分で急速な老衰死を迎えるという『一蓮托生の真実』を突きつけられてから、この最強の覇王たちは、私という「命の配給者」に縋りつくことしかできなくなっている。


 アルフォンスの冷たい指先が、私の首元へと伸びた。その指が、かつて彼自身が怒りに任せて絞め上げた、微かに残る赤い指の痕をなぞる。


「まだ消えないな……。俺が刻んだ、お前の死の刻印が」


 彼の瞳の奥に、昏い独占欲と、それを覆い隠そうとする奇妙な罪悪感が揺らめいた。命を握られているという屈辱の裏で、彼は私の温もりに異常なほど依存し始めている。首元の痕に触れる彼の指先が、微かに震えていた。


「消してほしいなら、もっと優しくすることね、魔王様」


 私が皮肉めいて微笑んだ、その瞬間だった。


 枕元に置いてあった祖父ギデオンの遺品――文字盤の砕けた古い懐中時計が、突如として『チリチリチリ……!』と不気味な逆回転の振動を始めた。時間神の干渉、あるいは強力な『死の殺意』を感知した時の警告音。


 同時に、私の『寿命の味覚(クロノ・テイスト)』が、寝室の空気の中に混ざり込んだ「腐った泥と猛毒の臭い」を鋭く捉えた。甘いアルフォンスの魔力臭のなかに、明らかに異質な、命を刈り取るための鉄の味が混ざっている。


「――伏せて、ステラ!」


 アルフォンスの叫びと同時に、天井の闇が大きく歪んだ。


 音もなく降下してきたのは、全身を黒い包帯で覆った不気味な影。帝国暗殺ギルド『蛇の牙』の凄腕、シャドウハントだ。彼の持つ漆黒のダガーには、触れた者の時間を強制的に腐食させる魔導猛毒が妖しく光っていた。その切っ先が、私の喉元を目がけて一閃される。


 魔力を持たない私の肉体では、その超高速の刺突を避けることなど到底不可能だった。死の冷気が皮膚に届く。


 しかし、私の身体が切り裂かれる前に、視界が反転した。


 アルフォンスが私の肩を掴んで強引に引き寄せ、自身の身体を盾にするようにして私をベッドの奥へと押し込んだのだ。


 ――肉が裂ける、鈍い音がした。


「ぐっ……、ああああっ!」


 アルフォンスの短い悲鳴が耳元で響く。シャドウハントのダガーが、彼の左肩に深く突き刺さっていた。傷口から禍々しい黒い血が溢れ出し、猛毒の紫煙がジュウジュウと音を立てて彼の白い肌を灼いていく。


「アルフォンス……! 嘘でしょう、私を庇って……!?」


「気にするな……と言いたいが、流石に効くな、この毒は……」


 アルフォンスは苦痛に顔を歪めながらも、私を庇うようにその身を覆い続けた。全盛期の魔力を失い、残り寿命が極限まで低下している今の彼にとって、この一撃は致命傷になりかねない。それでも、彼の金の混ざった黒い瞳は、私を襲った暗殺者への凄まじい殺意で燃え上がっていた。


「羽虫が……。俺の獲物に、誰の許可を得て触れようとしている?」


 シャドウハントは無言のままダガーを引き抜き、再び影の中へと溶け込むように『影渡り』を発動した。物理的な肉体を一時的に無効化し、壁の影から次の不意打ちを狙う暗殺術。工房の周囲を隠密護衛しているはずの彼の側近『ヴェール』の目を盗み、ここまで侵入した執念は本物だ。


「ステラ、俺の胸に触れろ。魔力を……よこせ!」


 アルフォンスが、私の手袋をはめた右手を自身の胸元――狂おしく脈打つ心臓へと強く押し当てた。


「私の手袋が魔力を減衰させてしまうわ!」


「構うな! お前の右腕がガラス化するリスクなど、俺がその後にいくらでも引き受けてやる! 今すぐ、接続(リンク)を最大にしろ!」


 彼の必死の叫びに応え、私は手袋を強引に引き剥がした。生肌が彼の胸に触れた瞬間、私の胸元の『命の魂砂時計』が爆発的な黄金の光を放った。


 チクタクチクタクチクタク――!


 凄まじい速度で時を刻む音が寝室に鳴り響く。私の右腕の指先が、一時的な魔力の逆流によって冷たく硬い「ガラス結晶」へと変質していく激痛が走る。だが、その代償と引き換えに、アルフォンスの肉体に膨大な闇の魔力が急速に還流していった。


「はぁぁぁっ!」


 アルフォンスの瞳が漆黒に染まり、彼の影が生き物のように四方に広がった。彼は床の影に向けて、自身の血が混ざった魔力を叩きつける。


「『影縫いの針』――そこだ!」


 影の世界を移動していたシャドウハントの本体が、物理的に床の影に縫い止められ、実体化を強制された。暗殺者が驚愕に目を見開く。


「ステラ、俺の肩を抱け! お前の手で、この虫ケラを焼き尽くせ!」


 アルフォンスが私の腰を抱き寄せ、その強大な魔力のバイパスを私の指先へと集中させる。これこそが『魔力借用(スペル・シェア)』。


 私はガラス化しつつある右手をシャドウハントへと向け、人差し指を突き出した。アルフォンスの禍々しい黒い魔力が、私の指先に吸い込まれ、極限まで圧縮されていく。


「消えなさい――『黒焔の弾丸(シャドウ・バレット)』!」


 放たれたのは、光すらも吸い込む漆黒の炎の弾丸。弾丸はシャドウハントの胸の影を正確に貫き、次の瞬間、彼の内側から魔界の地獄の業火が爆発的に噴出した。


「――ッ!? ガ、アアアアアアアッ!」


 シャドウハントは悲鳴を上げる間もなく、黒い炎に包まれ、その肉体も、魂も、影さえも、一瞬にして灰へと帰していった。寝室の壁や家具が黒焔によって半壊し、パチパチと不気味な火花が散る。


 静寂が戻った部屋に、焦げたオゾンの臭いと、猛毒の残滓が漂う。


「ハァ、ハァ……、やったのね……」


 私が息を吐いた瞬間、アルフォンスの身体が、糸が切れたように私の上に崩れ落ちてきた。彼の左肩の傷口は、紫色の毒によって未だに侵食され続け、彼の体温は異常なほどに冷たくなっている。頭上の寿命数値が、不吉な速度で減少を再開していた。


「アルフォンス! しっかりして!」


「くそ、毒が……心臓に……。ステラ、離れるな……。お前の温もりがないと、俺は……」


 彼の足首に嵌められた『アルフォンスの影鎖の腕輪』が、彼の命の危機に共鳴してジャラジャラと悲鳴のような金属音を立てる。魔王としての冷徹なプライドは完全に消え去り、その瞳には、私という光を失うことへの狂気的なまでの恐怖と執着だけが宿っていた。


 私は彼を救うため、ガラス化の痛みに耐えながら、彼の冷え切った身体を両腕で強く抱きしめた。ベッドの上に二人で倒れ込み、彼の顔を私の首元――あの赤い指の痕がある場所に強く押し当てる。私の心臓の鼓動が、彼の弱まりゆく心拍を強制的に引き上げるように、チクタクと一定のリズムを刻み続けた。


「もっと強く抱け、ステラ……。お前の命の砂を、俺の中に注ぎ込め……。死にたくなければ、一瞬たりとも、俺から離れるな……」


 アルフォンスは私の首筋に牙を立てるようにして、掠れた声で甘く囁いた。彼の冷たい吐息が肌を擽り、その独占欲が私の魂の深くまで侵食していくのを感じる。


 その時、ベッドの脇、シャドウハントが消滅した灰の中に、焼け残った一枚の羊皮紙が落ちているのが見えた。

 そこには、帝国暗殺ギルドの紋章と、不吉な名が記されていた。


――『バルドゥール公爵』。


 この襲撃は、単なる闇市場の嫌がらせではない。帝国の中心から放たれた、私たちを破滅させるための陰謀の始まりだったのだ。私はアルフォンスを強く抱きしめながら、その黒い紙を冷たく見つめ、迫り来るさらなる嵐の予感に身を震わせるのだった。

HẾT CHƯƠNG

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