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胃袋を掴む角煮、獣王の牙が甘える時

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ひゅう、と冷たい隙間風が、歪んだ正面玄関の隙間から食堂へと吹き込んでくる。バルトスに蹴り壊されたドアの蝶番は、応急処置をしたものの、いまだ完全には閉まらない。

朝霧が立ち込める境界地帯の夜明け前。トウマ・クロガネは、食堂のカウンターの上に置かれた巨大な肉の塊を見つめていた。

行商人トッドが命懸けで運んできた、漆黒の毛皮に包まれた肉――『魔霧の猪肉』。氷の魔石に冷やされているというのに、その肉塊からは、荒々しくも不気味な赤黒い瘴気の揺らぎが立ち上っている。

トウマは自身の能力『魔力疲労の煙視』を凝らした。肉の繊維の奥底に、濁った赤色の、しかし極めて濃密な野生の魔力ラインが脈打つように走っているのが見える。


「トッドさんの警告が本当なら、森の奥にはガルダを狙うヴォルガンの暗殺部隊『影爪』が潜んでいる……。僕に戦う力はない。だけど、この宿屋の結界の中にいる限りは絶対に安全だ。そのためにも、まずは彼女の力を取り戻さなきゃいけない」


トウマは包帯の巻かれた右手を強く握りしめた。地下の古代炉を起動した際の切り傷が、微かに疼く。戦闘力ゼロの彼がこの無法地帯で日常を守り抜くためには、この肉を完璧に調理し、居候である元女帝たちの肉体を治療することが最優先だった。

トウマは意を決して、ずっしりと重い猪肉を両手で抱え、厨房へと運び込んだ。

清潔に磨き上げられたまな板の上に肉を置くと、トウマは母サヤの形見である『魔力調律の銀包丁』を鞘から抜いた。刃に刻まれた繊細なルーン文字が、トウマの『中和の魔力レベル1』に呼応して、静かに青白く発光する。


キィ……と、包丁の刃先が肉の表面に触れた瞬間、猪肉に残留していた野生の瘴気が、抵抗するように赤黒い火花を散らした。だが、トウマは怯まない。彼は『魔力疲労の煙視』で魔力ラインの歪みを見極めながら、銀包丁を滑らせた。食材の乱れた魔力ラインを綺麗に整え、余分な瘴気を含む血を完璧に抜き去っていく。

サク、サク、と、硬い弾力を持つ肉が、トウマの繊細な包丁さばきによって、美しい一口大の立方体へと切り分けられていく。赤身と脂身のバランスが完璧な、飴色の照りを予感させる見事な肉塊がまな板の上に並んだ。


その時、厨房の入り口のカーテンが、バサリと勢いよく跳ね上がった。


「おい、マスター! なんだか、とんでもねえ美味そうな匂いが漂ってきたぞ!」


現れたのは、金色の獣耳をピンと立たせ、立派な尻尾を左右に激しく揺らしたガルダだった。彼女は昨日、トウマから課された「裏庭の薪割り労働」を終えたばかりで、お腹がペコペコなのだ。ショート丈のウェイトレス服から覗く抜群のプロポーションが、期待感に満ちて微かに弾んでいる。

ガルダはまな板の上の生肉を見つめた瞬間、野生のライオンのようなぎらついた肉食獣の瞳になり、ゴクリと唾を飲み込んだ。


「おいおい、これ『魔霧の猪』の肉じゃねえか! こんな上等な肉、どこで手に入れたんだ? あたし、もう我慢できねえ。一切れ、生のまま食わせろ!」


そう言うが早いか、ガルダは鋭い牙を覗かせながら、剛腕を伸ばして生肉を掴もうとした。


「ダメだよ、ガルダ!」


パシッ、とトウマは彼女の手の甲を軽く叩いた。


「ひゃんっ!? な、何しやがるマスター!」


「生のままだと、強烈な野生の瘴気でお腹を壊しちゃうし、最悪は精神が狂暴化しちゃうってトッドさんも言ってた。ちゃんと僕が美味しく料理するから、お行儀よく食堂のテーブルで待ってて」


トウマがピシャリと叱ると、元女帝であるはずのガルダは、一瞬だけ不満そうに唸った。しかし、トウマの真剣な眼差しに圧されたのか、すぐに金色の獣耳をふにゃりと寝かせ、尻尾をだらりと床に垂らした。


「……ちぇっ、ケチ。あたし、薪割り頑張ったんだぞ。お腹と背中がくっつきそうなのに……しょんぼりだ」


大型犬のようにあからさまに落ち込む彼女の姿に、トウマは苦笑しつつも、「すぐに最高のご馳走を作るからね」と優しく声をかけた。その言葉に、ガルダの耳がピクリと跳ね上がり、嬉しそうに食堂の席へと戻っていった。


さて、ここからが本番だ。トウマは『神火の炉』の前に立ち、地下の隠し倉庫から引き継いだ永久の炎『神火の種火』を起動した。無色でありながら、空間を歪めるほどの熱量を持つ炎が、優しく五徳を包み込む。その上に、重厚な古代の遺物『神火の万能鍋』を据えた。


トウマは切り分けた猪肉の表面を、強火で一気に焼き上げた。ジュウウウッという小気味よい音と共に、肉の表面が香ばしく焼き固められ、極上の旨味と脂が内側に閉じ込められていく。次に、生姜、ネギ、そしてトッドから仕入れた塩と地酒を鍋に注ぎ、じっくりと煮込みに入った。

ここでトウマの真骨頂である『神火の熱量コントロール』が冴え渡る。彼は鍋の温度を1度単位で微調整し、自身の『中和の魔力レベル1』を、万能鍋を通じてスープの奥深くまで浸透させていった。


(この猪肉の硬い繊維を解きほぐすには、ただ煮込むだけじゃ足りない。僕の中和魔力で、野生の『怒り』と『瘴気』の魔力属性を完全にフラットにしなきゃいけないんだ)


極限の集中力の中、トウマの指先が微かに震え始める。神火の種火が激しく魔力を消費し、鍋のルーン文字が黄金色に輝いた。その瞬間、肉から染み出そうとしていた黒い瘴気が、万能鍋の内側でジュッ、と音を立てて無害な白い湯気へと熱分解されていく。

瘴気が消え去ると同時に、肉の繊維が魔法のように柔らかく解け始め、スープの飴色のタレと一体化していった。仕上げに、醤油と少量の甘みを加え、さらに弱火でコトコトと煮込む。


やがて、厨房から食堂の隅々まで、暴力的とも言えるほどに芳醇で、甘く香ばしい醤油と脂の香りが漂い始めた。それは、嗅ぐだけで胃袋が激しく自己主張を始めるような、究極の「飯テロ」の香りだった。


「お待たせ、ガルダ。特製の『魔霧の猪肉のトロトロ角煮』だよ」


トウマが食堂のテーブルに大皿を置いた瞬間、ガルダの瞳は完全に輝きを取り戻した。皿の上には、深い飴色に輝く、大ぶりの角煮が美しく盛り付けられている。箸で触れれば崩れてしまいそうなほどに柔らかく煮込まれた肉からは、豊潤な湯気が立ち上り、透明な脂身がぷるぷると震えていた。


「こ、これが、あの硬くて臭い猪の肉なのか……? 信じられねえ……」


ガルダは震える手で箸を握ると、我慢できずに大きな角煮を丸ごと口へと放り込んだ。


「はぐっ……!」


次の瞬間、ガルダの身体が硬直した。彼女の丸い瞳が、これ以上ないほどに大きく見開かれる。

口に入れた瞬間、歯を立てる必要すらなく、肉がホロホロと舌の上で解けていった。脂身の濃厚な甘みが口いっぱいに広がり、それが醤油ベースのコクのあるタレと完璧に絡み合う。野生の臭みは一切なく、あるのは肉本来の圧倒的な旨味と、身体の芯まで染み渡るような温かさだけだった。


「つ、冷てえ身体の奥が……溶けていくみたいだ……っ!」


ガルダが飲み込んだ瞬間、完璧に調律された肉の野生魔力が、彼女のズタズタに引き裂かれていた魔力回路へとダイレクトに流れ込んだ。トウマの中和魔力によってフラットに整えられたエネルギーは、一切の拒絶反応を起こすことなく、彼女の経絡を優しく包み込み、修復していく。


その時、食堂全体に地響きのような黄金の闘気が吹き荒れた。

ガルダの金色の獣耳がピンと直立し、背後に巨大な黄金のライオンの幻影が揺らめく。一時的な『獣神化の制限解除』が作動したのだ。彼女の魔力回路が全盛期の20%まで急速に回復し、その身体能力が一時的に目覚める。


「美味すぎる……! 美味すぎるぞ、マスター! 身体の中に、力が、力が満ちてくる……!」


ガルダは涙目を浮かべながら、猛烈な勢いで角煮を貪り食った。大皿に盛られていた山盛りの角煮は、ものの数分で綺麗に消え去り、彼女は皿に残ったタレまで名残惜しそうに舐め取った。


すっかり満腹になり、身体も心も温まったガルダは、ふにゃりと顔を弛緩させた。彼女の全身から立ち上っていた、戦闘中毒を示す「濁った赤」の煙は完全に消え去り、穏やかな桃色のオーラに包まれている。


「ふぅ……。食った、食ったぁ……。こんなに美味いもの、生まれて初めて食ったぞ……」


ガルダは満足そうに息を吐くと、椅子の隣に立っていたトウマを見上げた。その瞳には、かつての覇王としての獰猛さは微塵もなく、ただ純粋な、深い愛情と依存の光だけが宿っていた。


「マスタァ……」


不意に、ガルダがトウマの腰にしがみついた。そして、そのままトウマが座り直した椅子の膝の上へと、自身の頭をぐいぐいと押し込んできたのだ。


「えっ!? ガ、ガルダ? 急にどうしたの?」


「お前、すごいぞ……。あたし、お前の料理、一生食う。お前をあたしの『お抱え料理人』にしてやる。だから、もっと撫でろ……」


ガルダはトウマの太ももに顔を擦り付け、金色の獣耳をピコピコと動かしながら、完全に甘えきった声を上げた。彼女の立派な尻尾が、嬉しそうに床をパタパタと叩いている。トウマが戸惑いながらも、そっと彼女の耳の裏を撫でてやると、ガルダは「ふにゃあ……」と、とろけたような声を漏らして完全に身を委ねてきた。

普段の好戦的な「獣王」からは想像もつかない、ポンコツな甘えん坊獣人娘への変貌ぶりに、トウマは顔を真っ赤にしながらも、彼女の頭を撫で続けた。


しかし、その温かい日常の光景を、食堂の薄暗い影から見つめる視線が存在していた。


「……ガルダさん。随分と、はしたない姿ですね」


食堂の入り口に、箒を握りしめたエリシアが立っていた。彼女の美しい碧眼は完全に冷え切っており、額には青筋が浮かんでいる。箒を持つ手が、ミシミシと不穏な音を立てていた。


「あらあら。野獣の牙も、美味しいお肉の前ではただの甘えん坊の子猫ちゃんに成り下がるのね。……少し、お仕置きが必要かしら?」


エリシアの背後から、ヴェロニカが妖艶な、しかし底知れない殺気を孕んだ笑みを浮かべて現れた。彼女の足元の影が、嫉妬の感情に呼応するように不気味に蠢いている。


「え、エリシア、ヴェロニカ……! これは、その、ガルダの魔力回路を治療するために――」


トウマが慌てて弁明しようとするが、ガルダはトウマの膝を抱きしめたまま、食堂の影にいる二人に向けて鋭い牙を剥き出しにし、ガルル、と威嚇の声を上げた。


「うるせえ! マスターはあたしのマスターだ! この美味い角煮を食ったのはあたしだぞ! お前らには一口もやらねえ!」


「……言いましたね、野良猫」

「ふふ、ずいぶんと生意気な口を利くじゃない。お姉様たちが、少し躾をしてあげようかしら?」


食堂の中に、国家滅亡級の緊迫した嫉妬の嵐が吹き荒れる。トウマは、甘えてくるガルダを膝に乗せたまま、二人の女帝からの刺すような視線に冷や汗を流すしかなかった。


だが、彼らがそんな賑やかな「日常」に身を置いているその頃。

宿屋『黒鉄亭』を覆う結界の遥か外側、朝霧が深く立ち込める境界の森の暗闇の中で、いくつかの怪しく発光する黄色い瞳が、宿屋の建物をじっと見つめていた。


「……ガルダの魔力波形を確認した。一時的に闘気が跳ね上がったな。あのボロ宿に潜んでいるのは間違いねえ」


不気味な影が、闇の中で静かに爪を研ぎ澄ませる。獣王ヴォルガンが放った暗殺部隊『影爪』の牙が、確実に、宿屋の平穏を切り裂くために迫りつつあった。

HẾT CHƯƠNG

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