閉ざされた流通と、不敵な行商人の取引
ひゅう、と冷たい隙間風が、歪んだ正面玄関の隙間から食堂へと吹き込んできた。深夜の静寂の中、トウマ・クロガネは一人、古びたカウンターの前に立ち、手元の帳簿と睨み合っていた。
「……小麦粉が残り三日分。塩は、下手をすれば明日中には底を突くか」
トウマはため息を押し殺しながら、こめかみを押さえた。昼間の『元女帝たちの家事騒動』による疲労が、ずしりと肩に重くのしかかっている。特に牙獣国の元女帝であるガルダの驚異的な大食漢ぶりを思えば、この備蓄状況は「飢え」に直結する死活問題だった。
原因は明確だった。境界地帯の汚職警備隊長バルトスによる、姑息な嫌がらせだ。日中にトウマの宿屋『黒鉄亭』にみかじめ料を要求し、結界の力によって無様に撃退されたバルトスは、去り際に捨て台詞を残していった。その脅し通り、彼は境界の街『グレイス』からこの宿屋へと続く唯一の流通ルートを、自身の警備隊を使って強引に封鎖したのだ。
この無法地帯において、物資の遮断は死を意味する。ましてや、 Kokutettei は今、傷ついた三人の女帝たちを匿っているのだ。彼女たちの破損した魔力回路を治療するためには、栄養価の高い食事を絶やしてはならない。
(バルトスめ、力ずくで結界を破れないと悟って、兵糧攻めに切り替えたか……。だけど、ここで屈するわけにはいかない。父さんが遺したこの場所と、せっかく前を向き始めた彼女たちの日常を守るんだ)
トウマは右手の包帯を軽く締め直した。昼間の魔力炉起動による切り傷が、微かに疼いている。結界の出力は現在、最低限の『第1段階「局所防壁」』。建物内部しか守れないこの見えない盾を維持するだけでも、魔晶石の消費は進んでいく。
その時だった。
コツ、コツ、と、歪んだ木製ドアを遠慮がちに叩く音が響いた。
トウマは瞬時に身を硬くし、右手の『黒鉄の守護指輪』に意識を集中させた。彼の特殊能力である『害意の超感知』が、ドアの向こう側の気配を探る。もしバルトスの部下や、彼が唆した野盗の襲撃であれば、赤黒い濁った悪意の霧が感知されるはずだった。
しかし、脳裏に浮かび上がったのは、全く異なる色だった。
(……赤黒い殺意じゃない。これは、ぎらぎらとした強い『強欲と計算』。それに、押し潰されそうなほどの強烈な『肉体的疲労』の煙だ)
トウマの『魔力疲労の煙視』が捉えたのは、対象の胃のあたりから立ち上る、泥のように淀んだ灰黄色の不気味な煙だった。相手は極度の消化不良と、長旅による深刻な疲労に苛まれている。
トウマは静かにドアの閂を外し、歪んだ隙間から外を覗き込んだ。そこには、大きな革製の荷物を背負い、小刻みに震えている痩せ型の男が立っていた。茶色の旅装束は泥にまみれ、油断のならない細い目をキョロキョロと周囲に走らせている。
「……よぉ、旦那。こんな夜更けにすまねえな。冷たい風が身に染みる境界の夜だ、中に入れてもらえるかい?」
男は下卑た笑みを浮かべようとしたが、その顔は疲労で引きつっていた。境界地帯を往来する、目ざといが義理堅いことで知られる人間の行商人、トッドだった。
「トッドさん……! どうしてこんな時間に?」
「おいおい、声が大きいぜ、旦那。外にバルトスの犬どもが目を光らせてやがる。命が惜しけりゃ、早く中に入れてくれ」
トウマは素早くドアを開け、トッドを『黒鉄亭・食堂』へと招き入れると、すぐに閂を閉めた。トッドは背負っていた巨大な荷物を床にドサリと下ろすと、その場にへたり込み、荒い息を吐いた。
「はぁ、死ぬかと思ったぜ……。まさか警備隊の連中が、この宿へ続く街道を完全に封鎖してるとはな。俺は裏の獣道を這うようにして、なんとかここまで物資を運んできたんだ」
「街道の封鎖は本当だったんですね。トッドさん、物資を持ってきてくれたんですか?」
「ああ、旦那の頼みだからな。塩と、最高級の小麦粉、それにいくつかの希少な調味料だ。だが……」
トッドは細い目をさらに細め、懐から小さな算盤を取り出すと、不敵な笑みを浮かべた。
「商売ってのはリスクとリターンだ。バルトスを敵に回し、警備隊の目を盗んでここまで物資を運んだんだぜ? 当然、上乗せをさせてもらう。――仕入れ値は、通常の『三倍』だ。金貨で支払ってもらうぜ、旦那」
その法外な要求に、トウマは内心で冷や汗をかいた。現在の宿屋の財政状況では、通常の三倍の価格で食材を買い続ければ、一週間もしないうちに完全に破産してしまう。
「三倍、ですか……。それはさすがに、うちのような小さな宿には厳しいですね。普通にコッパー(銅貨)での支払いで、なんとか適正価格にしてもらえませんか?」
「ハッ、冗談言っちゃいけねえ。バルトスにバレたら、俺のキャラバンは丸ごと没収、最悪は奴隷落ちだ。そんな命懸けの取引、ただの銅貨じゃ割に合わねえよ。嫌なら、この物資は持ち帰るだけだ。もっとも、旦那の宿の食糧庫が空っぽなのは、お見通しだけどな?」
トッドは勝ち誇ったように、算盤の珠をパチパチと弾いた。彼はトウマの弱み(食糧難)を完璧に握っていると確信していた。
トウマは静かに思考を巡らせた。武力のない自分にとって、この商人を力で脅すことはできない。だが、彼から立ち上る「灰黄色の煙」は、先ほどよりもさらに濃くなっている。トッドは強気な態度を取りつつも、その身体は限界を迎えていた。
(トッドさんは、お金のために命を懸けているように見える。だけど、本当に求めているのは『リスクに見合う安全』と、彼自身の『健康』だ。長旅と警備隊への恐怖で、彼の胃腸は完全に悲鳴を上げている。なら、僕が提示すべきカードは――)
トウマは一歩前に出ると、トッドの目をまっすぐに見つめた。
「トッドさん。お金での交渉の前に、一つ提案があります。この宿屋の敷地内が、どんな場所かご存知ですか?」
「ああん? ただのボロ宿だろ。バルトスの剣を曲げたっていう、不気味な噂は聞いたがね」
「ここは『完全中立の絶対結界』に守られた場所です。この敷地内にいる限り、たとえ三大帝国の皇帝であっても、あなたから物資を略奪することは絶対にできません。武器を抜くことすら不可能な、世界で最も安全な『取引場所』なんです。――僕と取引を続ける限り、あなたはこの安全な中立空間での『独占販売権』を得ることになります」
「な、何だと……?」
トッドの算盤を弾く手が止まった。無法の境界地帯を生きる商人にとって、「絶対に略奪されない安全な拠点」がどれほど喉から手が出るほど欲しいものか、理解できないはずがなかった。
「さらに、トッドさん。あなたのその身体、かなり限界のはずです。胃がキリキリと痛み、冷や汗が止まらないでしょう? そんな状態で、明日の朝、無事にグレイスの街まで帰れるとは思えません」
「な、なぜそれを……!?」
トッドが驚愕に目を見開いた。トウマは微笑みながら、厨房へと歩みを進めた。
「少し待っていてください。旅の疲れを癒やす、特別なものを用意します。交渉は、それを食べてからにしましょう」
トウマは厨房に入ると、すぐに『神火の炉』に火を入れた。無色の、しかし圧倒的な熱量を持つ古代の炎が、優しく大釜を包み込む。トウマは母サヤから教わった薬草学の知識を総動員し、トッドが運んできたばかりの高品質な米をほんの少しだけ使い、『魔力調律の銀包丁』で経絡を整えた特殊なハーブを刻んだ。
(彼の胃腸の経絡は、恐怖による緊張で完全に収縮している。必要なのは、胃壁を優しく保護し、体内の魔力循環をフラットに戻す『温かさ』だ)
トウマは『神火の熱量コントロール』の技術を使い、一分一秒の狂いもなく火加減を調整した。食材に含まれる野生の魔力が、トッドの傷ついた身体の周波数へと完璧に『調律』されていく。やがて、厨房から、嗅ぐだけで胃の腑がじんわりと温まるような、甘く香ばしい香りが漂い始めた。
完成したのは、透き通るような美しい『魔力調律重湯』(魔力調律重湯)だった。
「お待たせしました、トッドさん。これを食べてみてください」
トウマが食堂のテーブルに重湯の器を置くと、トッドは半信半疑のままスプーンを手に取った。「ただの重湯じゃねえか……」と呟きながらも、その香りに抗えず、一口、口へと運ぶ。
その瞬間、トッドの身体がビクリと震えた。
「な、なんだこれ……っ!?」
重湯が喉を通った瞬間、まるで温かい陽だまりが胃の中に直接滑り込んできたかのような、劇的な衝撃が走った。緊張で石のように硬く knotted(結び目)になっていた彼の胃腸が、驚くべき速度で優しく解きほぐされていく。全身の血流が劇的に改善され、指先の冷えが消え去り、長旅の重い疲労感が、湯気となって体外へ抜けていくような感覚だった。
「胃の痛みが、消えた……? それに、こんなに身体が軽くなるなんて、あり得ねえ……! これは、最高級の回復薬(ポーション)以上だぞ!」
トッドは夢中になって重湯を貪り食った。最後の一滴まで綺麗に飲み干した時、彼の顔には本来の健康的な血色が戻り、立ち上っていた灰黄色の煙は完全に消滅していた。
トウマはそれを見届け、静かに微笑んだ。
「これが、僕の『魔力調律調理法』です。トッドさん、僕と通常の適正価格で取引を約束してくれませんか? その代わり、あなたがこの宿に来るたび、この料理と、結界による絶対的な安全を無償で提供します。警備隊の目を盗むための『境界物々交換ネットワーク』の裏ルートも、一緒に構築しましょう。これこそが、あなたにとって最大の『リターン』になるはずです」
トッドは空になった器を見つめ、それからトウマの穏やかだが確信に満ちた瞳を見つめた。彼は算盤を懐へとしまい、観念したように両手を挙げた。
「……ハハ、参ったぜ、旦那。ただの平民のせがれだと思ってたら、とんでもねえ化け物だ。金貨を積まれるより、この宿の安全と、旦那の飯を確保する方が、商人として遥かに賢い選択だ」
トッドは不敵に笑い、トウマの差し出した手を強く握りしめた。
「わかったよ。バルトスの検問を迂回する、古い山道の裏ルートを使って、必要な小麦粉と塩は定期的に極秘で届けてやる。通常の適正価格でな。その代わり、ここに来た時は、あの美味いスープをたらふく食わせてくれよ?」
「ええ、約束します、トッドさん」
トウマは深く安堵した。これで宿屋の食糧危機は回避され、バルトスの兵糧攻めを戦わずして打破する『境界物々交換ネットワーク』の第一歩が確立されたのだ。
「そうだ、旦那。今回の裏取引の成立記念に、面白いものを一つ仕入れてあるんだが、興味はあるかい?」
トッドは悪戯っぽく笑うと、巨大な荷物の底から、厳重に氷の魔石で冷やされた漆黒の毛皮に包まれた肉の塊を取り出した。ずしりとした重量感と共に、食堂に濃厚な、しかしどこか引き締まった野生の魔力の気配が広がる。
「これは……野生の魔獣の肉ですか?」
「ただの魔獣じゃねえ。『魔霧の森』の深部に生息する『魔霧の猪肉』(魔霧の猪肉)だ。普通の人間が食えば、その強烈な野生の瘴気で精神が狂暴化しちまう禁忌の肉だが、旦那のその『神火の万能鍋』なら、完璧に無毒化して極上のご馳走に変えられるだろ?」
トウマはその肉を見つめ、自身の『魔力疲労の煙視』を凝らした。肉の奥底に眠る、荒々しくも極めて高純度な肉体活性のエネルギーが、鮮やかな赤色の光として視覚化される。
(この肉……凄まじい魔力だ。もしこれを完璧に調律して調理できれば、ガルダの破損した魔力回路を劇的に再生させることができるかもしれない)
「ありがとうございます、トッドさん。この肉も、ありがたく仕入れさせてもらいます」
「毎度あり、旦那。これで俺たちの秘密の取引は完璧に成立だ」
トッドは嬉しそうに荷物をまとめ、夜明け前の闇に紛れて帰る支度を整えた。しかし、彼が歪んだ正面玄関のドアに手をかけた瞬間、その足がピタリと止まった。
トッドは細い目を極限まで鋭くし、振り返ると、トウマの耳元に顔を近づけた。その声からは、先ほどまでの商人としての軽快さが完全に消え去り、境界地帯の裏情報を握る男としての、深刻な冷たさが帯びていた。
「……旦那。最後に、一つだけ『無料の情報』を置いてってやる。ただし、耳の痛い話だ」
「え……?」
「グレイスの闇市で、不穏な噂が流れてる。牙獣国を追放された前女帝――ガルダ様の生存を嗅ぎつけたらしい。ガルダ様の異母弟であり、現在の王位を簒奪した獣王ヴォルガンの直属の暗殺部隊……『影爪』の首狩り部隊が、すでにこの近くの森の奥で動き出しているそうだ」
トウマの背筋に、氷水を流し込まれたような激しい悪寒が走った。
「首狩り部隊……。ガルダを、狙って……?」
「ああ。奴らは獲物の匂いを絶対に逃がさねえ狂犬どもだ。旦那の宿の結界がどれほど頑丈でも、一歩外に出れば、その首は一瞬で撥ねられる。ガルダ様を外に出すんじゃねえぞ。……じゃあな、旦那。お互い、命だけは大切にしようや」
トッドはそれだけを言い残すと、音もなく歪んだドアから滑り出し、夜明け前の冷たい霧の中へと消えていった。
食堂に取り残されたトウマは、カウンターの上に置かれた『魔霧の猪肉』の重みと、右手の指輪の冷たい感触を確かめるように見つめた。宿屋の平穏を守り抜いた安堵も束の間、女帝たちの過去がもたらす、より凶暴で容赦のない「死の影」が、すぐそこまで迫りつつあった。
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