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働かざる者食うべからず:元女帝たちの家事騒動

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「……はぁ。ドアの修理、本当に高くつきそうだ」


 トウマ・クロガネは、バルトスが乱暴に蹴り飛ばしたせいで歪んでしまった正面玄関の木製ドアをそっと閉め、小さくため息をついた。隙間風がひゅうひゅうと食堂に入り込み、小雨の湿った空気が肌を撫でる。


 床には、先ほど結界の物理攻撃反射によってバターのようにねじ曲げられたバルトスの鉄剣の残骸が、無惨に転がっている。それは、この宿屋『黒鉄亭』が誇る『第1段階「局所防壁」』の絶対的な威力を示す、動かぬ証拠だった。


 食堂内は静まり返っていた。テーブル席からは、三人の亡命女帝たちがそれぞれの表情でトウマを見つめている。


「トウマ様……怪我はございませんか?」


 最初に声をかけたのは、ソラリア聖帝国の元女帝、聖女エリシアだった。白金の髪を少し乱しながら、彼女は心配そうに碧眼を揺らしている。バルトスという本国の腐敗した兵士の出現によって、彼女の心には「追手が……ルシウスの影が……」という、昏睡中にうなされた不安が再び頭をもたげていた。


「大丈夫だよ、エリシア。僕は一歩も動いていないし、結界が全部弾いてくれたからね」


 トウマは包帯の巻かれた右手のひらを無意識に握りしめた。中和魔力の活性化によって微かに傷口が疼いているが、それを彼女たちに悟らせるわけにはいかない。


「フン、あの程度の雑魚、あたしが万全なら爪の一振りで消し炭にしてやったものを」


 牙獣国ガルディアの元女帝、獣王ガルダが不機嫌そうに金色の獣耳をぴくぴくと震わせた。先ほどバルトスを退散させるために放った『威圧』の反動で、彼女の『調律・治癒期』に入ったばかりの魔力回路は少なからず疲労していた。肩で荒い息を吐きながら、悔しそうに八重歯を噛み鳴らしている。


「あら、強がりを言うものではないわ、野獣の女王さん。今のあなたは、薪の一本もまともに持ち上げられないでしょう?」


 常闇の魔国アビスの元女帝、魔帝ヴェロニカが、妖艶な紫の瞳を細めてクスリと笑った。彼女はトウマの結界が持つ「暴力の中和」という絶対的な特異性に深い興味を抱いており、その視線はトウマの右手に嵌められた『黒鉄の守護指輪』へと向けられていた。


「お前こそ、毒で身体がまともに動かないくせに、偉そうに言うな!」


 ガルダが立ち上がろうとするが、足元がふらつき、また椅子にドサリと座り込んでしまう。


 トウマはそんな彼女たちのやり取りを見つめながら、カウンターの奥から三枚の白い布――宿屋のロゴが刺繍された特製のエプロンを取り出した。そして、それをテーブルの上に静かに置く。


「さて、みんな。バルトスたちは追い払ったけれど、これで一件落着というわけじゃない。ドアは壊されたし、僕たちの食糧や、結界を維持するための『魔晶石』を買うお金も必要だ」


 三人の視線が、トウマとエプロンに集まる。


「そこで、だ。我が黒鉄亭には、父ジンの代から伝わる絶対的なルールがある。――『労働対価・食事提供の原則』。働かざる者、食うべからず、だ」


 その言葉に、食堂の温度が一瞬で凍りついた。


「ろ、労働……? この私が、ですか?」


 エリシアが信じられないというように自身の胸に手を当てた。神聖なる聖帝国の頂点に立ち、何百万もの信徒に傅かれていた彼女にとって、他人のために働くという概念そのものが存在しなかった。


「あたしに平民の下働きをしろって言うのか!? ふざけるな!」


 ガルダが獣耳を逆立たせて吼える。ヴェロニカもまた、面白がるような笑みを消し、冷ややかな視線をトウマに送った。


「面白い冗談ね、店主さん。魔帝たるこの私に、雑用を命じるなんて。それとも、あなたのその『結界』を以て、私たちを強制労働でもさせるつもりかしら?」


「まさか。そんな強制をするつもりはないよ」


 トウマは首を振った。そして、カウンターの奥から、昨夜彼女たちの命を繋ぎ止めた、あの奇跡のスープが残した温かい香りを漂わせる大釜を指差した。


「ただ、この宿屋は慈善事業じゃない。みんなを匿い、あのスープを提供し、安全なベッドを用意するには、それ相応のコストがかかる。もし働かないというなら、宿泊費として相応の金貨を支払ってもらう。それも無理なら……残念だけど、今日の夕食は抜き、部屋の利用も断らせてもらうよ」


「くっ……!」


 ガルダの喉がゴクリと鳴った。彼女の胃袋は、すでにあのスープの魔力に満ちた美味しさを完全に記憶していた。今朝から何も食べていない彼女のお腹が、タイミング悪く「グゥゥゥ」と大きな音を立てる。


 エリシアも頬を赤らめ、視線を泳がせた。ヴェロニカはトウマの目をじっと見つめ、彼が本気であることを悟る。この青年は、相手が女帝であろうと、宿屋のルールを曲げるつもりは毛頭ないのだ。


「……わかりました。お皿を運んだり、床を掃いたりすれば良いのですね? ソラリアの皇族として、無銭飲食などという不名誉は受け入れられません」


 エリシアが、プライドを保つように毅然とエプロンを手に取った。それに続くように、ガルダが「チッ、飯のためだ!」とエプロンをひったくり、ヴェロニカが「ふふ、可愛い店主さんの頼みなら、少し遊んであげてもいいわね」と、妖艶に微笑みながらエプロンを腰に巻いた。


「よし、それじゃあ『適材適所のシフト管理規則』に従って、みんなの業務を割り振るよ」


 トウマは父の手帳を参考に、彼女たちの特性に合わせたシフトを発表した。


「エリシアは、丁寧な物腰を活かして『接客と食堂の掃除』。ガルダは、その強靭な身体を活かして『黒鉄亭・裏庭での薪割りと力仕事』。ヴェロニカは、頭脳明晰だから『帳簿管理と仕入れの計算』だ。いいかい?」


「「「了解(わかったわ/フン!)」」」


 こうして、かつて世界を揺るがした三人の女帝たちによる、前代未聞の「家事労働」が幕を開けた。――しかし、それはトウマにとって、想像を絶する大騒動の始まりに過ぎなかった。


「お、お掃除くらい、魔法を使えば一瞬ですわ!」


 食堂の掃除を任されたエリシアは、古びた箒を手にしながら、自慢の聖光魔導を唱えようとした。彼女の指先から、埃を吹き飛ばすための光の粒子が放たれる――はずだった。


 ――フワリ。


 だが、彼女が放った光の術式は、空気に触れた瞬間に黄金の波紋によって優しく包み込まれ、ただの温かい微風となって消え去ってしまった。宿屋の『敷地内完全非武装の掟』は、攻撃魔法だけでなく、いかなる「害意を伴わない魔術の行使」をも、結界の安定のために一時的に中和・制限してしまうのだ。


「えっ……? 私の魔法が、消えた……?」


「言っただろう、エリシア。この宿の中では、魔法に頼ることはできないんだ。自分の手で、雑巾がけをしてほしい」


 カウンターの奥からトウマが苦笑しながら声をかける。エリシアはショックに固まりつつも、「じ、自分の手で……」と、不器用に箒を握り直した。しかし、彼女の動きはあまりにもおぼつかない。床を掃くというよりも、埃を周囲に撒き散らしているだけだった。


 さらに、彼女が洗ったばかりの皿を棚に運ぼうとした時のことだった。不慣れなエプロンの裾に足を引っ掛け、エリシアの体が大きく傾いた。


「あ、きゃっ!?」


 ガシャーン!!!


 食堂に、陶器が激しく砕け散る絶望的な音が響き渡った。トウマが買い直したばかりの、白いスープ皿が五枚、床の上で粉々に砕け散っている。


「う、嘘……。わ、私が、お皿を……割って……?」


 エリシアは箒を落とし、青ざめた顔で破片を見つめ、今にも泣き出しそうな表情で立ち尽くした。かつて帝国の儀式で一寸の狂いもない所作を見せていた聖女が、皿洗いでこれほど無様を晒すとは、本人にとっても悪夢以外の何物でもなかった。


「だ、大丈夫だよ、エリシア! 怪我はないかい? 破片は僕が片付けるから、動かないで!」


 トウマが慌てて厨房から飛び出し、彼女を気遣う。エリシアは恥ずかしさと申し訳なさで、白金の髪で顔を隠すように俯いてしまった。


 一方、宿屋の裏手にある『黒鉄亭・裏庭』からは、さらに破壊的な音が響き渡っていた。


 ――ドゴォォォン!!!


「な、何事だ!?」


 トウマが裏庭へ駆けつけると、そこには立ち込める土煙の中に、呆然と立つガルダの姿があった。


 彼女の足元には、真っ二つに割れた薪……ではなく、木っ端微塵に粉砕された薪割り用の極厚の丸太台と、深くクレーターのようにひび割れた大地の姿があった。ガルダの手には、刃がぐにゃりと曲がった薪割り用の斧が握られている。


「お、おい、ガルダ……これ、どうしたんだい?」


「いや……あたしは、ただ、この薪ってやつを割ろうとしただけなんだが……。ちょっと斧を振り下ろしたら、この台が勝手に弾け飛びやがったんだ!」


 ガルダは金色の尻尾を気まずそうに揺らしながら、言い訳をするように叫んだ。彼女の『獣力闘気』は呪いによって制限されているが、元々の肉体強度と怪力は規格外。普通の人間用の薪割り台や斧では、彼女の「ちょっとした力加減」にすら耐えられず、一撃で自滅してしまうのだ。


「はぁ……。ガルダ、力仕事が得意なのは良いことだけど、道具を壊しちゃ意味がないよ。もっと、こう……優しく、薪の繊維に沿って刃を当てるんだ」


「優しく、だと……? あたしの辞書にそんな生ぬるい言葉はねえ!」


 ガルダは顔を真っ赤にしてそっぽを向いたが、壊してしまった道具に対する罪悪感からか、耳がしょんぼりと伏せられている。


 そんな二人の騒動をよそに、食堂のカウンターでは、最も静かで、しかし最もトウマの心臓に悪い「労働」が行われていた。


「ねえ、店主さん。この仕入れの数字、少しおかしくないかしら?」


 ヴェロニカが、宿屋の古い帳簿を開きながら、トウマにぴったりと身体を寄せてきた。艶やかな黒髪から、甘く危険なハーブのような香りがトウマの鼻腔をくすぐる。タイトなウェイトレス制服の胸元が、トウマの腕に微かに触れていた。


「え、あ、う、うん? どこかな……?」


 トウマは顔を真っ赤にしながら、必死に視線を帳簿へと落とした。ヴェロニカはそんな彼の純情な反応を面白がるように、耳元でふっと息を吹きかける。


「ここよ。この『魔晶石』の購入費と、結界の維持エネルギーの相関関係。あなたの書き方、ただの計算じゃないわね? まるで、地脈の魔力循環を数式で調律しているような……。あなた、本当にただの平民の宿屋の息子?」


 彼女の紫の瞳が、鋭くトウマの横顔を観察する。ヴェロニカは、トウマが帳簿に書き残した独自の財務計算の中に、魔術的な「財務調律」の極めて高度な才能が隠されていることを見抜いていた。この青年は、ただ料理が上手いだけの平民ではない。彼女の猜疑心に満ちた知性が、トウマの持つ「知略」を本格的に認め始めていた。


「あ、はは……。それは、父さんの古い手帳に書いてあった計算式をそのまま真似しているだけだよ」


 トウマは冷や汗を流しながら、右手の守護指輪を隠すように帳簿をめくった。


「ふふ、そういうことにしておいてあげるわ。でも、この仕入れルートを少し見直せば、無駄な出費をさらに二割は削減できるわよ? 私の言う通りにしてくれたら、今夜、特別な『ご褒美』をあげてもいいけれど?」


 ヴェロニカはドSな笑みを浮かべ、トウマの顎をそっと指先で持ち上げた。トウマの顔は限界まで赤くなり、頭から湯気が出そうなほどだった。


 ――夕方。


 一日中の大騒動を終え、食堂には再び静けさが戻っていた。エリシアが不器用に掃き清めた床は、所々埃が残っていたが、彼女の努力の跡が見て取れた。裏庭には、ガルダが(何十本もの斧をダメにしながらも)なんとか綺麗に積み上げた薪の山があり、カウンターには、ヴェロニカが完璧に整理し直した、一分の隙もない美しい帳簿が置かれていた。


 トウマは、疲れ果ててテーブルに突っ伏している三人の前に歩み寄った。そして、ポケットから、バリクがプレスして作った木製の小さなコインを三枚、彼女たちの前に置いた。


「はい、これ。今日の分の給与だよ」


 三人が顔を上げ、不思議そうにそのコインを見つめる。


「これは『クロガネ・コイン』。我が黒鉄亭の敷地内でのみ使える、特別な通貨だ。労働を終えた君たちには、毎日このコインが支払われる」


 エリシアが、そっと木製のコインを指先で拾い上げた。バリクのプレスによって『鉄樹』の美しい木目が浮き出たコインは、不思議な温もりを帯びている。


「これが……私が、生まれて初めて、自分の手で稼いだ価値……」


 エリシアの碧眼に、言葉にできない感動の光が宿った。ただ命令し、与えられるだけだった彼女の人生において、自らの労働の対価として得たこの一枚のコインは、帝国のどんな黄金の財宝よりも重く、彼女の傷ついた尊厳を優しく癒やしていく。


「へぇ……これが、あたしの分け前か。悪くないな」


 ガルダも嬉しそうにコインを指先で弾き、キャッチした。ヴェロニカはコインの木目を愛おしそうに撫で、トウマに向けて微笑んだ。


「ええ、最高の給与だわ、店主さん。これで、あの美味しいスープを注文してもいいかしら?」


「もちろん。そのコイン一枚で、今夜の特製スープと、温かいパン、そして部屋の利用権と交換だよ」


 トウマが厨房から運んできたのは、神火の炉でじっくりと煮込まれた、カブとハーブの温かい薬膳スープだった。湯気と共に立ち上る優しい香りが、彼女たちの疲れた体と経絡を内側から優しく包み込んでいく。


 彼女たちは、自身の手で稼いだコインをトウマの貯金箱へと誇らしげに入れ、スープを口にした。一口飲むたびに、一日の労働の疲れが嘘のように消え去り、食堂には温かい笑顔が咲いた。不器用な家事騒動の末に、彼女たちは宿屋の「家族」としての第一歩を、確かに踏み出したのだ。


 夜が更け、小雨は完全に上がっていた。雲の切れ間から、境界地帯の冷たい月光が黒鉄亭を照らし出す。


 トウマは食堂の片付けを終え、歪んだ正面玄関のドアの隙間から外の様子を窺った。バルトスが言い残した「ゴロツキ野盗団」の脅威が、頭から離れなかったからだ。


 その瞬間、トウマの脳裏に、冷たい針で刺されたような鋭い不快感が走った。――『害意の超感知』の起動。


(――っ! この空気の澱みは……!)


 トウマは息を潜め、歪んだ木製ドアの隙間から、月光に照らされた荒野の境界線を見つめた。


 宿屋の敷地を示す絶対結界の境界線――そのわずか数メートル外側、暗い岩陰や枯れ木の影に、音もなく蠢く複数の「影」があった。月光を反射させないよう、黒い布で武器を覆った男たちが、宿屋の建物の構造や結界の揺らぎを観察するように、じっとこちらを監視している。


 それは、バルトスが唆した野盗団『黒の牙』の偵察部隊だった。彼らは、宿屋を完全に焼き払うための襲撃計画を着々と進めていたのだ。


 トウマは指輪を嵌めた右手を強く握りしめ、静かに奥歯を噛み締めた。宿屋の平穏な日常の裏側で、無法者たちの冷酷な牙が、すぐそこまで迫りつつあった。

HẾT CHƯƠNG

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