強欲な警備隊長と、宿屋を覆う見えざる盾
どしゃりと乱暴な音が、静まり返った食堂に響き渡った。
昨夜の嵐は小雨へと変わっていたが、吹き込んできた風は境界地帯特有の泥の臭いを含んで冷たい。蹴り開けられた木製の重い扉の向こうから、ぬかるんだ土足をそのまま食堂の床へと踏み込んできたのは、金属の擦れる嫌な音をまとった男たちだった。
「おいおい、トウマ! 生きてるかぁ? 今月の『みかじめ料』を回収しに来てやったぞ!」
下卑た笑い声を響かせながら入ってきたのは、この境界地帯を管轄する聖帝国の汚職警備隊長、バルトスだった。ビール腹を無理やり鎧に詰め込んだ脂ぎった顔に、不遜な笑みを浮かべている。その背後には、ネズミのような細い目をせわしなく動かす腰巾着の部下、ヘンリーが揉み手をしながら続いていた。
トウマは食堂のカウンターの奥で、静かにエプロンを整えた。昨夜、倒れ込んできた三人の女性――エリシア、ガルダ、ヴェロニカの暴走する経絡を抑えた際に負った右手のひらの傷が、包帯の下でじわりと疼く。だが、その痛みを表情には出さず、トウマは穏やかな声で応対した。
「バルトス隊長、おはようございます。ですが、当宿への土足での立ち入りはご遠慮いただいています。それと、みかじめ料なら先週、正規の税額をお支払いしたはずですが」
「あぁん? あれは本国に送る分だろ。俺たちがこの無法地帯でお前のケツを守ってやってる分の『特別営業許可料』がまだなんだよ。おい、トウマ。払えなきゃあ、このボロ宿を今日限りで叩き潰してやってもいいんだぞ?」
バルトスはそう言って、近くにあった木製の丸テーブルを乱暴に蹴り飛ばした。ガタガタと音を立ててテーブルがスライドするが、不思議なことに、床を削るような破壊の音は響かなかった。宿屋の空気が、その衝撃をほんのわずかに吸収したかのように。
テーブル席に座っていた三人の女帝たちの視線が、一瞬にして冷たく険しいものへと変わる。白金髪のエリシアは、かつて自らが統治していた帝国の末端の兵士が、これほどまでに腐敗している事実に碧眼を曇らせた。彼女の脳裏に、昏睡中にうなされた「追手……ルシウスの影」という不吉な言葉がよぎる。ガルダは八重歯をギリと噛み鳴らし、ヴェロニカは紫の瞳の奥に底知れぬ闇を湛えて指先を蠢かせた。
しかし、彼女たちの魔力回路は未だ『枯渇・破損期』の初期段階。宿屋の結界内では暴力が強制的に制限されているため、手出しはできない。
「……おい、隊長。あそこに美味そうな女たちがいるぜ。しかも、上等な身なりをしてやがる。みかじめ料の代わりに、あの女どもを俺たちの詰所に連れていこうじゃねえか」
ヘンリーがねっとりとした視線をエリシアたちに向けながら、バルトスの耳元で囁いた。バルトスは下卑た目を細め、「ひひ、そいつはいい」と頷く。
その瞬間、トウマの脳裏に鋭いアラートが響いた。彼の特殊能力である『害意の超感知』が、男たちの明確な「略奪」と「暴力」の意思を、赤黒い澱みのような空気の震えとして完璧に捉えたのだ。
(――来る。彼らは本気で僕を殺す気はない。だけど、力ずくで彼女たちを奪い、宿屋を脅迫するつもりだ)
トウマは右手の『黒鉄の守護指輪』に意識を集中させた。宿屋の地下機械室にある古代魔力炉とリンクするその指輪を通じて、宿屋を覆う結界を起動する。現在、結界の出力は建物内部のみを守る最低限の『第1段階「局所防壁」』。だが、それで十分だった。
「おい、お前ら、大人しく付いてきな!」
ヘンリーが下品な笑みを浮かべ、カウンターの裏にいるトウマを背後から羽交い締めにしようと、勢いよく飛びかかった。
――ドンッ!
「ぶふぉっ!?」
奇妙な鈍い音が食堂に響いた。ヘンリーの身体が、トウマの背後数センチの空間で、まるで目に見えない分厚いゴムの壁に衝突したかのように激しく弾き返されたのだ。ヘンリーは床をごろごろと転がり、鼻を押さえて呻き声を上げた。
「痛ってえええ!? な、なんだ!? 今、何にぶつかったんだ!?」
「ヘンリー、何をもたもたしてやがる!」
部下の無様な姿にバルトスが激昂した。彼は腰の重厚な鉄剣をガチャリと引き抜き、トウマに向けて突きつけた。
「おい、トウマ。小細工をしてんじゃねえぞ! 俺をコケにするなら、そのガキの首を今すぐ撥ねて――」
「バルトス隊長」
トウマは一歩も退かなかった。鉄剣の鋭い刃先が目の前に迫っているにもかかわらず、その黒い瞳は静かで、底知れない決意に満ちていた。
「当宿の第一の鉄則をお忘れですか。――『敷地内完全非武装の掟』。この結界の中では、いかなる暴力も機能しません。武器を収めてお引き取りください。さもなければ、当宿のルールがあなたを排除します」
「ハッ! ただの平民のガキが、脅し文句を吐いてんじゃねえ!」
バルトスは怒り狂い、トウマの脳天を目がけて力任せに鉄剣を振り下ろした。金属が空気を切り裂く鋭い音が響く。エリシアが思わず「トウマ様!」と叫び、立ち上がろうとした。
だが、刃がトウマの頭上わずか数十センチに達した瞬間。フワリと、食堂の空気に黄金色の幾何学ルーンが浮かび上がった。結界の物理攻撃反射機能が、最大出力で稼働したのだ。
――キィィィィィン!
耳を劈くような金属の悲鳴が上がった。バルトスが渾身の力で振り下ろしたはずの鉄剣は、トウマの頭上に展開された見えざる盾に衝突した瞬間、まるで熱したバターのようにぐにゃりと曲がり、螺旋状にねじ切れてしまった。
「なっ……あ、あがががががっ!?」
さらに、結界が吸収した衝撃のエネルギーが、等価反射の法則に従ってバルトスの右腕へと逆流した。凄まじい衝撃波が彼のガントレットを粉々に砕き、腕の骨に激痛を走らせる。バルトスはねじ曲がった剣の柄を放り出し、自身の右腕を抱えて床へと転がり回った。
「腕が! 俺の腕がァァァ! 貴様、一体何の禁忌魔術を使いやがった!?」
「魔術ではありません。宿屋の『ルール』です」
トウマは静かに、曲がった鉄剣の残骸を見つめた。玄関の扉がバルトスの最初の乱暴なキックによってわずかに歪んでしまっている。修復にはバリクの力が必要になるだろう。そのささやかな被害に対するため息を、トウマは飲み込んだ。
のたうち回るバルトスと、怯えて立ち上がれないヘンリー。その哀れな小悪党たちの背後に、ゆっくりと「影」が伸びた。
「……おい」
低く、地響きのような、しかしどこか鈴の鳴るような澄んだ声が、食堂の奥から響いた。
バルトスが恐怖に引きつった顔を上げると、そこには金色の獣耳を逆立たせ、鋭い八重歯を覗かせたガルダが立っていた。彼女の魔力回路はまだ万全ではない。しかし、トウマのスープによって一時的に安定した彼女の体内から、牙獣国の支配者としての圧倒的な『威圧』の波動が、黄金の闘気の残滓を伴って放たれていた。
「あたしたちの主(マスター)に、その汚ねえ鉄クズを向けようとしたな……?」
ガルダの瞳が、本物の野獣のように金色に爛々と輝く。その背後に、巨大なライオンの影が揺らめいたように見えた。全盛期の数パーセントにも満たない威圧。だが、ただの汚職兵士であるバルトスにとっては、魂を直接握り潰されるような絶対的な恐怖だった。
「ひっ……、ひぃぃぃぃっ!」
バルトスは恐怖のあまり失禁しかけ、ねじ曲がった剣を置き去りにして、ヘンリーの襟首を掴みながら這いずるようにして後退った。歪んだ正面玄関の扉を押し開け、泥水の中に転がり落ちる。
「お、覚えてやがれ……! こんなボロ宿、タダじゃおかねえ! この境界地帯を牛耳る『ゴロツキ野盗団』のドッグに頼んで、お前ら全員、皆殺しにして、この宿ごと焼き払わせてやるからなァァァ!」
捨て台詞を吐き散らしながら、汚職警備隊長とその部下は、小雨の降る荒野の彼方へと無様に逃げ去っていった。
静まり返った食堂で、トウマは歪んでしまった扉を静かに閉め、ぽつりと言った。
「……ドアの修理、高くつきそうだな」
その言葉は、これから宿屋「黒鉄亭」を襲うであろう、無法者たちの嵐を予感させるに十分な、静かな決意を秘めていた。
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