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黒鉄亭の鉄則:武器を置き、スープを飲め

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嵐の余韻が残る、静かな朝だった。


 窓の外では、昨夜の猛威が嘘のように細い雨がしとしとと降り注ぎ、境界地帯の荒野を灰色に濡らしている。宿屋「黒鉄亭」の二階客室。トウマ・クロガネは、徹夜の看病による極度の疲労で重くなった身体を無理やり動かし、一階の厨房へと下りていた。


「はぁ……。なんとか熱は下がってくれたけど、まだ油断はできないな」


 トウマはズキズキと痛む右手のひらを見つめた。昨夜、倒れ込んできた三人の女性――エリシア、ガルダ、ヴェロニカの暴走する魔力を直接中和した際の傷跡が、今も赤く疼いている。だが、立ち止まっている暇はなかった。彼女たちの魔力回路は『枯渇・破損期』という最悪の状態にある。通常の回復薬を身体が拒絶してしまう以上、今すぐ彼女たちの胃に優しく、かつ魔力回路を内側から癒やす食事を用意しなければならない。


「母さんの教えてくれた薬草の知識と、父さんの遺産……これを使うしかない」


 トウマは厨房の奥に鎮座する、古代文明の遺物『神火の万能鍋』の前に立った。地下の隠し倉庫から引き揚げたこの鍋の下では、無色の『神火の種火』が静かに、しかし超高熱の熱気を湛えて揺らめいている。


 調理台に向き直ったトウマは、母サヤの形見である『魔力調律の銀包丁』を握りしめた。その瞬間、刃に刻まれた繊細なルーン文字が青白く発光し、トウマの『中和の魔力レベル1』と共鳴を始める。トウマは『魔力疲労の煙視』で視認した彼女たちの魔力の淀みを思い出しながら、食材の選定に入った。


「エリシアには精神を安定させる聖教国のハーブ、ガルダには闘気を補う牙獣国の岩塩、ヴェロニカには毒素を分解する魔国特有の根菜……。これらを僕の魔力で調和させる」


 銀包丁が食材に触れるたび、野生の乱れた魔力ラインが綺麗に整えられていく。サク、サクと小気味よい音が厨房に響き、食材は『神火の万能鍋』へと投入された。無色の炎が鍋底を舐めると、食材に含まれる野生の毒性や魔力の暴走成分が一瞬で熱分解され、優しく澄んだ黄金色のスープへと変化していく。立ち上る湯気は、嗅ぐだけで身体の芯から強張りが解けるような、甘く香ばしい香りを放ち始めた。


 その頃、二階の客室では、信じられない事態が起きていた。


「……うっ」


 最初に意識を取り戻したのは、白金髪の少女――ソラリア聖帝国の元女帝、エリシアだった。彼女はまだ重い身体を起こし、周囲を見回した。そこは見慣れた豪華な宮殿ではなく、簡素だが温かみのある木造の部屋だった。そして、隣のベッドに目を向けた瞬間、彼女の碧眼が驚愕に染まった。


「な……っ!? なぜ、牙獣国の獣王がここに……!? それに、常闇の魔国の魔帝まで……!」


 その声に反応するように、金色の獣耳を持つガルダ、そして漆黒の角を持つヴェロニカが同時に目を開けた。彼女たちもまた、自らの置かれた状況と、目の前に並ぶ「宿敵」たちの姿を視認し、一瞬にして全身の血を沸騰させた。


「あぁん? 光の聖女じゃねえか……。なんであたしが、こんなお高くとまった女と同じ部屋に寝てんだよ!」


 ガルダが八重歯を剥き出しにして唸り、ベッドから飛び起きた。全身の傷が悲鳴を上げるのも構わず、彼女は野生の闘気を無理やり引き出そうとする。


「ふふ、奇遇ね。まさか追放された負け犬同士、同じ墓場に放り込まれるなんて。ルシウスの仕掛けた罠かしら?」


 ヴェロニカが妖艶な笑みを浮かべながらも、その紫の瞳の奥に冷徹な殺意を宿し、指先を蠢かせる。彼女たちの間には、一触即発の、国家滅亡級の緊迫感が張り詰めた。


「お前たち、裏切り者の手先か! あたしの首を獲りに来たんだろ!」


 ガルダが咆哮し、トウマの襟首を掴むかのように、ヴェロニカに向けて鋭い爪を突き出して跳躍した。魔力回路が破損しているとはいえ、その肉体は獣王のもの。まともに喰らえば木造の宿屋など一瞬で半壊する――はずだった。


 フワリ、と食堂の空間全体に、目に見えない黄金の波紋が広がった。


「なっ……がはっ!?」


 次の瞬間、ガルダの身体から一瞬にして全ての筋力が抜け落ちた。まるで重力が十倍になったかのように、彼女の強靭な身体は床へと叩きつけられ、平民並みの力しか出せなくなってしまったのだ。床に突っ伏したガルダは、信じられないというように自身の掌を見つめた。


「なに、身体に力が入らねえ……!? あたしの闘気が、消された……?」


「あら、お転婆な野獣ね。少し大人しくしておきなさい――深淵の影よ!」


 ヴェロニカが冷笑し、ガルダを縛り上げようと影魔法の術式を編む。だが、彼女の足元に浮かび上がろうとした紫色の魔法陣は、形を成す前に霧のように儚く霧散してしまった。


「あら……? 私の術式が、完全に中和された……?」


 ヴェロニカの余裕に満ちた表情が初めて引きつる。エリシアもまた、自らの身を守るために聖なる光を呼び起こそうとしたが、彼女の放った微弱な光の粒子は、宿屋の天井と壁に吸い込まれるようにして消滅した。エリシアは自身の無力さに頬を赤らめ、愕然とする。


「私の聖光が……吸い取られた……? この空間、一体何なのですか……!?」


 世界を統べていた三人の女帝が、ただの木造の建物の中で、完全に「無力な少女」へと引き下げられていた。彼女たちが恐怖と混乱に震える中、パタパタと静かなスリッパの音が階段から響いてきた。


「お食事中はお静かに、お嬢さん方」


 現れたのは、白いエプロンを身につけた、黒髪の地味な青年――トウマだった。彼は両手に三つのスープボウルが乗った木製のトレイを抱え、困ったような、しかしどこか温かい微笑みを浮かべて食堂へと入ってきた。


「ここは宿屋『黒鉄亭』です。そして、当宿には絶対のルールがあります。――『敷地内完全非武装の掟』。この結界の中では、いかなる暴力も、敵対的な魔法も機能しません。ですから、どうか武器を置いて、席に着いてください」


「貴様……、何者だ? この結界は、お前の仕業か!?」


 ガルダが床から立ち上がり、鋭い眼光でトウマを睨みつける。だが、トウマは全く怯むことなく、彼女たちの前に静かにスープボウルを並べていった。


「僕はただの宿屋の主人、トウマ・クロガネです。昨夜、嵐の中で倒れていたあなたたちを救った、ただの平民ですよ。さあ、冷めないうちにどうぞ。あなたたちの傷ついた身体のために、特別に調律して作ったスープです」


 ボウルから立ち上る、言葉にできないほど芳醇な香りが、食堂の張り詰めた空気を一瞬で支配した。エリシアの故郷を思わせる清涼なハーブの香り、ガルダの野生を刺激する豊かな塩気、そしてヴェロニカの冷えた身体を温めるスパイシーな芳香。それは、彼女たちがお互いに敵対していることすら忘れさせるほど、強烈に胃袋を刺激した。


「……毒は、入っていないでしょうね?」


 ヴェロニカが疑り深い目でスープを見つめる。トウマは苦笑し、自ら一口スープを口に含んでみせた。


「当宿はお客様に毒を盛るような真似はしません。働かざる者食うべからず、がうちの原則ですが……今回は特別に『前払い』です。さあ、食べてください。身体が悲鳴を上げているはずです」


 その言葉に促されるように、最も空腹に耐えかねていたガルダが、野性的な本能のままにスプーンをひったくり、スープを口に運んだ。一口、ゴクリと飲み込んだ瞬間――彼女の金色の獣耳がピクリと跳ね上がった。


「うっ……、うまぁぁぁいっ!?」


 ガルダは驚愕の声を上げ、なりふり構わずスープを貪り始めた。それはただ美味いというだけではなかった。スープが喉を通るたび、彼女の断裂しかけていた闘気の経絡に、まるで温かい真綿が染み込んでいくかのような、劇的な自己回復の感覚が広がっていたのだ。


「な、何だこれ……。身体が、身体が温けえ……! 傷が痛まねえぞ……!」


 その様子を見たエリシアとヴェロニカも、たまらずスープを口にした。エリシアは、上品にスプーンを運んだものの、その味が舌に触れた瞬間、碧眼からポロポロと涙をこぼした。


「あぁ……。なんて、なんて優しい味なのでしょう……。体の中で、暴走していた聖痕の熱が、優しく溶けていくようです……」


 ヴェロニカもまた、一口飲むごとに、心臓を蝕んでいた「冥界の毒」が、トウマの『魔力調律調理法』によって完璧に分解され、身体の外へと排出されていくのを感じていた。彼女は底知れぬ恐怖と、それ以上の圧倒的な魅力に震えながら、トウマを見つめた。


「ふふ……。私の毒を、料理だけでここまで完璧に無毒化するなんて。お坊や、あなた本当にただの平民かしら?」


 三人の女帝は、無言でスープを飲み干した。あれほど殺気立っていた食堂の空気は、温かいスープの湯気によって、完全に穏やかな日常のそれへと塗り替えられていた。彼女たちは器を静かに置き、長年の戦いと裏切りの緊張から解放された安堵感に、思わず深く息を吐き出した。


 だが、その平穏な静寂は、長くは続かなかった。


 ドォン!


 宿屋の正面玄関の扉が、乱暴な足音と共に激しく蹴り開けられた。金属の擦れ合う不快な音が、静まり返った食堂へと容赦なく響き渡る。


「おい、トウマ! 生きてるかぁ? 今月の『みかじめ料』を回収しに来てやったぞ!」


 不遜な笑い声と共に、宿屋の敷地内へと踏み込んできた影。トウマは静かに溜息をつき、エプロンを整えながら玄関へと視線を向けた。彼女たちの平穏な日常を守るための、最初の試練が、すぐ目の前まで迫っていた。

HẾT CHƯƠNG

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