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雨夜の来訪者、三人の傷だらけの女帝

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嵐の咆哮が、宿屋『黒鉄亭』の古びた木枠の窓をガタガタと激しく揺らしていた。


 無法の境界地帯を包み込む漆黒の夜。天空を引き裂く稲光が、食堂の窓ガラスを青白く染めるたび、カウンターに置いた父の古い手帳が影を長く伸ばす。つい先ほど、地下の機械室で僕の血が古代の魔力炉を起動させ、宿屋の四隅に埋め込まれた『宿屋の絶対結界石』が青い光の防壁――『第1段階「局所防壁」』を展開したばかりだった。その余韻に浸る暇すら、この嵐は与えてくれない。


 ズキリ、と右手のひらの切り傷が痛んだ。バルブを回そうとして滑らせた時の傷口からは、まだ微かに血が滲んでいる。それをエプロンの端で拭おうとした、その時だった。


 ドンドンドンドンドンドン!


 嵐の風音を切り裂くように、正面玄関の重厚な木製ドアが、激しく、そして不規則に叩かれた。ノックというにはあまりにも乱暴で、まるで命の灯火を振り絞って縋りつくような、悲痛な響きがこもっていた。


「……ッ!? だ、誰だ……!?」


 僕は思わず身構えた。この無法の地で、夜間に宿屋のドアを叩く者がまともな旅人であるはずがない。借金取りか、それとも略奪を狙う野盗か。僕は生唾を飲み込み、食堂のカウンターの裏に隠してあった護身用の古い鉄の火かき棒を握りしめた。戦闘力など皆無の僕にとって、それが唯一の武器だった。


 だが、ドアの向こうから聞こえてきたのは、金属が擦れ合う冷たい音と、荒い息遣い。そして、ズルズルと何かが崩れ落ちるような鈍い音だった。ただの襲撃にしては、様子が奇妙すぎる。


「客を断らない……それが、父さんの宿屋のルールだろ、トウマ」


 自分自身に言い聞かせるように呟くと、僕は火かき棒を構えたまま、玄関の引き戸へと一歩ずつ近づいた。ドアの隙間から、境界地帯の冷たい雨風が吹き込んでくる。意を決して、僕はカンヌキを外し、重い木扉を勢いよく引いた。


「うわっ……!」


 凄まじい暴風雨と共に、冷たい雨の雫が僕の顔を濡らす。しかし、僕の動きを完全にフリーズさせたのは、嵐の寒さではなかった。玄関の土間に、なだれ込むようにして倒れ込んできた『それ』を視界に捉えた瞬間、僕は言葉を失った。


 そこには、血を流し、泥に塗れ、息も絶え絶えになった三人の女性が、お互いに重なり合うようにして倒れていたのだ。


「な、なんだこれ……。怪我人……? いや、この人たちは一体……」


 嵐の闇の中でも、彼女たちが放つ異様なまでの存在感と、この世の者とは思えないほどの神々しい美しさは隠しきれていなかった。だが、その美貌は、あまりにも無残に傷つけられていた。


 一人は、息を呑むほどに美しい白金の髪を持つ女性。しかし、その髪は血と泥で汚れ、身に纏った純白の聖衣はズタズタに引き裂かれている。彼女の胸元や手首からは、まるで金色の光が吹きこぼれるようにして、不思議な血液が流れ落ちていた。


 もう一人は、輝く金色の獣耳と立派な尻尾を持つ、抜群のプロポーションの獣人娘。だが、その強靭そうな肉体は無数の鋭い爪痕で刻まれ、誇り高き革鎧は真っ赤な血に染まっている。獣の毛並みは所々焦げており、凄まじい戦闘の痕跡を物語っていた。


 最後の一人は、艶やかな黒髪に、頭部から覗く小さな漆黒の角が特徴的な、魔族の女性。彼女の肌は雪のように白いが、その細い首筋や四肢には、不気味な深紫色に脈打つ血管のような紋様が浮かび上がっていた。彼女の体からは、冷たい闇の魔力と、鼻を突くような毒の気配が漂っている。


「うっ、はぁ……、はぁ……っ」


 三人は完全に意識を失いかけており、ただ苦痛に満ちた呻き声を漏らすことしかできていない。その身体は、まるで魂の根源である魔力回路が内側から爆発しているかのように、激しく震えていた。


 ――『枯渇・破損期』。


 母サヤから教わった薬草学の知識が、僕の脳裏にその最悪の言葉を浮かび上がらせた。魔力回路がズタズタに引き裂かれ、魔法を使用することはおろか、生命を維持する力すらも底をつきかけている極限の状態。このまま放置すれば、数時間と持たずに彼女たちの命の灯火は消えてしまうだろう。


「とにかく、中に入れないと……!」


 僕は火かき棒を放り出し、泥まみれの彼女たちを必死に抱きかかえた。戦闘力ゼロの僕にとって、大人の女性、それも鎧を纏った彼女たちを運ぶのは骨の折れる作業だったが、火事場の馬鹿力で一人ずつ食堂のソファへと運び込んだ。


 その瞬間、黒髪の魔族の女性――『魔帝ヴェロニカ』の体から、じわりと紫色の霧が立ち上った。それが僕の腕や首筋に触れた瞬間、パチパチと皮膚を焼くような激痛が走る。


「つっ……! なんだこれ、毒……魔力の毒か!?」


 それは、彼女の崩壊しかけた深淵魔力回路から漏れ出している、制御を失った「冥界の毒」だった。まともに触れれば、常人なら一瞬で身体が腐食してしまうほどの猛毒。しかし、僕の身体に触れた瞬間、僕の血に宿る『中和の魔力レベル1』が無意識のうちに発動した。


 ジュッ……と、僕の皮膚に触れた紫の霧が、音を立てて無色の湯気へと変わっていく。僕の魔力が、彼女の狂暴な毒の属性を「フラット」に中和し、無害化していくのだ。


「……ふぅ。僕のこの冴えない魔力も、こういう時は役に立つんだな」


 僕は痛む手をさすりながら、食堂の棚から、父が遺した低級の回復薬を取り出した。まずはこれを飲ませて、体力を回復させようと考えたのだ。僕は白金髪の女性――『聖女エリシア』の頭を優しく持ち上げ、回復薬のボトルを彼女の青ざめた唇に当てた。


「頼む、飲んでくれ……」


 ゆっくりと、赤い液体が彼女の喉へと流れ込む。だが、次の瞬間だった。


「ゴホッ……! ウ、ウゥッ……!」


 エリシアの身体が激しく拒絶反応を起こし、彼女は回復薬を吐き出した。吐き出された液体には、細かな光の粒子が混ざっている。それどころか、彼女の体表に刻まれた金色のルーンが激しく明滅し、呼吸がさらに浅くなってしまった。


「ダメだ……! 魔力回路が完全に壊れているせいで、外部からの魔力を含んだ回復薬を身体が受け付けないんだ。このままじゃ、良かれと思って与えた薬が、彼女たちの身体を内側から焼き尽くしてしまう……!」


 焦りが僕の背中を冷たい汗で濡らす。普通の医療も、通常の魔法治療も通用しない。この極限状態の怪我人を前にして、戦闘力のない僕に一体何ができるというのだ。


 その時、僕の視界が不自然に歪んだ。目の前の彼女たちの身体から、立ち上る空気の揺らぎが、はっきりと「色」を帯びて見え始めたのだ。母の遺した古い薬術書に記されていた、人間の経絡から放出される魔力の淀みを捉える感覚――『魔力疲労の煙視』が、僕の脳裏で初めて覚醒した瞬間だった。


 エリシアの胸元からは、焦げ付いたような不気味な「白い煙」が激しく波打つように立ち上っている。それは彼女の聖痕が暴走し、自身の肉体を焼き尽くそうとしているサインだった。


 獣耳の女性――『獣王ガルダ』からは、濁りきった「赤い煙」が、まるで死にかけの火の粉のように散っている。肉体と闘気の限界以上の酷使による、経絡の完全な断裂。


 そしてヴェロニカからは、淀んだ「紫色の煙」が、泥のように重く滴り落ちていた。心臓を蝕む冥界の毒が、彼女の深淵魔力回路を完全に塞いでいる。


「……そうか。整えなきゃいけないんだ。彼女たちの体内で暴走している魔力の『歪み』を、僕の力で……!」


 僕は覚悟を決めた。火傷を負うことも恐れず、僕は両手を伸ばし、エリシアの熱い胸元と、ガルダの傷だらけの肩、そしてヴェロニカの毒に侵された首筋へと、交互に直接手を当てた。


「僕の『中和』の力よ、届け……! 彼女たちの痛みを、全部まっさらにしてくれ……!」


 僕の右手のひらの傷口から、温かくも冷たくもない、完全に無色透明な僕の中和魔力が、彼女たちの体内へと流れ込んでいく。それは、彼女たちの体内で狂暴に反発し合っていた神聖魔力、野生の闘気、そして冥界の毒を、優しく包み込み、その破壊的な属性を一つずつ解きほぐしていった。


 ジュウウウ……と、食堂の中に、彼女たちの暴走魔力が中和される不思議な音が響く。ヴェロニカの毒霧が消え去り、エリシアの体を焼いていた金色の高熱が平熱へと下がり、ガルダの激しい呼吸が、徐々に穏やかな寝息へと変わっていく。


「はぁ……はぁ……、よかった。ひとまずは、最悪の回路崩壊だけは食い止められたみたいだ」


 極限の集中力による疲労で、僕の視界がぐらりと揺れた。だが、まだ安心はできない。食堂の冷たいソファに彼女たちを寝かせておくわけにはいかない。僕はふらつく足取りで、彼女たちを一人ずつ背負い、宿屋の2階へと続く階段を上った。


 父さんが僕に遺してくれた、最も安全で静かなプライベート空間――『黒鉄亭・2階客室』。


 僕は、まだ埃を払ったばかりの清潔なベッドに、彼女たちを優しく横たえた。白金髪のエリシア、獣耳のガルダ、黒角のヴェロニカ。それぞれ異なる傷を抱え、異なる国から逃げてきたであろう彼女たちは、宿屋の絶対結界に守られたこの部屋で、生まれて初めて外部の脅威を気にすることのない、深い安眠の淵へと落ちていった。


 僕はエリシアの枕元に腰掛け、冷たい水で濡らしたタオルを彼女の額に置いた。外は大嵐が窓を叩き続けているが、この部屋の中だけは、信じられないほど静かで、温かい空気が満ちている。僕は彼女たちの顔を一人ずつ見つめながら、一晩中、寝ずに看病を続けた。


 夜が明けようとする頃、僕の体力は限界に達し、エリシアのベッドの脇でうつむきかけていた。その時、僕の手を、エリシアの細い指先がギュッと強く握りしめた。


「……っ、う……、うぅ……!」


 エリシアは目を開けないまま、悪夢にうなされるように顔を歪め、激しく身体を震わせ始めた。その小さな唇から、漏れ出してきたのは、震えるようなうわ言だった。


「追手が……ルシウスの影が、私を……。逃げなきゃ……殺される……っ!」


 その怯える呟きは、これからこの宿屋に巻き起こるであろう、嵐以上の嵐を予感させるに十分だった。僕は彼女の手を優しく握り返しながら、窓の外の白み始めた境界地帯の荒野を見つめ、静かに息を呑んだ。

HẾT CHƯƠNG

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