境界の廃墟と、父が遺した小さな奇跡
三つの覇権国家――気高き光を掲げる宗教国家『ソラリア聖帝国』、武力こそがすべてを支配する獣人国家『牙獣国ガルディア』、そして冷徹なる闇の魔族が統べる『常闇の魔国アビス』。
それら巨大な大国が互いに刃を突きつけ合い、血煙を上げ続ける無法の境界地帯。その荒涼とした渓谷の崖際に、ぽつんと取り残されたように佇む古びた木造の建物があった。それが、僕――トウマ・クロガネの新たな我が家であり、亡き父が遺した唯一の遺産である宿屋『黒鉄亭』だ。
「はぁ……。わかってはいたけれど、これはさすがに酷いな」
僕は埃の積もった食堂のカウンターに、厚い書類の束をドサリと置いた。それは、父であるジン・クロガネ(ジン・クロガネ)が遺した、天文学的な額の借用書の山だった。普通の人間なら、見た瞬間に逃げ出すか、絶望して首を括るレベルの負債だ。
おまけに、この宿屋があるのは世界で最も危険な境界地帯。外を一歩歩けば、凶暴な魔獣や飢えた野盗、あるいは他国の斥候が獲物を求めて目を光らせている。戦闘力などこれっぽっちもない、ただの平民である十九歳の僕にとって、ここで生きていくだけでも奇跡に近い状況だった。
「でも、逃げるわけにはいかない。ここは、父さんと母さんが守り抜いた場所なんだから」
僕はエプロンの紐をきゅっと結び直した。僕の手には、剣を握るためのタコはない。代わりに、母であるサヤ・クロガネ(サヤ・クロガネ)から叩き込まれた、薬草を調合するための繊細な指先の感覚と、料理の技術があった。そしてもう一つ、僕の身体には、生まれつき奇妙な力が宿っていた。
それは、他者を傷つけるような攻撃力は一切ないが、あらゆる魔術的な異常や属性の偏りを「平ら」にしてしまう、不思議な魔力。僕自身はそれをただの『中和の魔力レベル1』(中和の魔力レベル1)と呼んで、日々の生活のちょっとした雑用にしか使っていなかった。熱すぎるスープを冷ましたり、薬草の毒性を抜いたりするだけの、地味で無力な力だ。
「よし、まずは掃除から始めよう」
僕は雑巾とバケツを手に取り、まずは宿屋の心臓部である『黒鉄亭・厨房』(黒鉄亭・厨房)へと向かった。埃まみれの作業台を拭き、錆びついた調理器具を磨いていく。かつて父が「どんな旅人でも、ここではただの家族だ」と笑っていた、温かい食堂の風景を思い出しながら。
一通り厨房の片付けを終えた僕は、次に宿屋の地下へと続く、暗く湿った階段を下りていった。そこは、宿屋の水回りと暖房を管理するための『黒鉄亭・地下機械室』(黒鉄亭・地下機械室)だ。錆びついた巨大な配管と、見たこともない古びた魔導機械が所狭しと並んでいる。
「うわぁ、こっちは厨房以上にボロボロだ。ボイラーのバルブも完全に固着しているな……」
僕は地下の奥深く、地熱を利用して温水を作るための古いバルブに手をかけた。力を込めて回そうとするが、何十年も放置されていたかのようにビクともしない。僕は足を踏ん張り、全身の体重をかけてバルブを押し込んだ。
「くっ、動け……! 動いてくれ……!」
キィ、と金属が軋む嫌な音が響いた瞬間、僕の手が錆びた配管の鋭いエッジに滑った。痛みが走ると同時に、手のひらから赤い血がじわりと滲み出る。
「痛っ……!」
僕は思わず手を離した。その拍子に、傷口から流れた僕の血が、バルブの背後にある壁面に滴り落ちた。そこには、煤と埃で完全に覆い隠されていた、複雑な幾何学模様の金属プレートが埋め込まれていたのだ。
ジュッ、と奇妙な音がして、僕の血が金属プレートに吸い込まれていく。血に含まれる僕の『中和の魔力レベル1』が、プレートの奥深くに眠っていた古代の術式に触れた瞬間だった。
ゴゴゴゴゴ……!
地下室全体が、まるで大地震が起きたかのように激しく揺れ動いた。僕が慌てて後退りすると、金属プレートが青白く発光し、目の前の強固な石壁が左右へと割れていく。埃が舞い散る中、現れたのは、父の古い手帳にも記されていなかった未知の隠し扉だった。
「な、なんだこれ……? こんな場所に、隠し部屋があったなんて……」
恐る恐る足を踏み入れると、そこは空気すらも澄み切った、不思議な空間だった。埃一つないその部屋の壁には、びっしりと古代の魔導ルーンが刻まれている。こここそが、父ジンが遺した伝説の『「神火の隠し倉庫」』(「神火の隠し倉庫」)だったのだ。
部屋の中央には、見たこともない重厚な鉄製の炉が鎮座していた。その炉の制御盤に、僕の血が残した魔力の波動が伝わっていく。システムが僕の血統を「大地の番人」の末裔として認証したのだ。
シュオオオオ……!
突如、炉の内部から、一切の煙を伴わない、透き通った無色の炎が立ち上った。それこそが、どんな毒や魔力の暴走をも熱分解し、食材を完璧に調和させる永久の炎――『神火の種火』(神火の種火)だった。
それと同時に、宿屋の建物の四隅、地中に深く埋め込まれていた巨大な四つの結晶――『宿屋の絶対結界石』(宿屋の絶対結界石)が、地鳴りのような共鳴音を響かせて起動を始めた。地下の魔力炉から、純粋な地脈のエネルギーが結界石へと一気に充填されていく。
ふわりと、宿屋全体を包み込むように、温かく穏やかな青い魔力のドームが広がっていくのが見えた。宿屋の建物内部を外敵から完全に保護し、あらゆる暴力を無力化する絶対不可侵の防壁――『第1段階「局所防壁」』(第1段階「局所防壁」)が、ついにその産声を上げたのだ。
「すごい……。身体が、すごく温かい……」
起動の魔力ショックによる軽い目眩を感じながらも、僕はその場に座り込み、自分の右手のひらを見つめた。僕の微弱な『中和の魔力』が、この巨大な宿屋の結界を呼び覚ました。その事実に、僕の胸には、言葉にできない熱い感情が込み上げてきた。
父さんは、この力を僕に遺してくれたんだ。無法の嵐が吹き荒れるこの境界地帯で、傷つき、疲れた旅人たちが、武器を置いて、ただの「家族」に戻れる場所。そんな温かい奇跡のような宿屋を、僕の手で再建してみせる。
「やってやる。ここを、世界で一番温かい宿屋にするんだ」
僕は強く拳を握りしめ、立ち上がった。その決意を祝福するかのように、神火の炉は優しく揺らめき、宿屋を温かい空気で満たしていく。
――しかし、奇跡の起動がもたらした光は、無法地帯の闇を静かに照らし出してしまっていた。
ゴツ、ゴツ、ゴツ……。
突如として、宿屋の外の天候が激変し、猛烈な大嵐の風音が建物を揺らし始めた。その暴風雨の音に混じって、宿屋の正面玄関へと近づいてくる、地響きのような不穏で重苦しい足音が、一歩、また一歩と近づいてくるのが聞こえた。金属が擦れ合う冷たい音が、不気味に響き渡る。
宿屋の絶対結界が起動した直後、境界の闇から引き寄せられるように現れた、最初のお客様。その正体は、まだ僕には知る由もなかった。
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