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没落令嬢の盾、闘神の牙を剥け

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ズシン、ズシンと、雪を踏みしめる重苦しい鉄靴の音が、凍てつくグランツ領の静寂を無慈悲に切り裂いていた。


「ユリア・グランツ! 大人しく出てきて我が主、ヴァルター侯爵閣下の軍門に降れ! さもなければ、この薄汚い村を畑ごと焼き払い、領民の命でその不遜な借金を支払わせるぞ!」


エルム村の広場に響き渡る卑劣な怒声。声を張り上げているのは、ヴァルター侯爵が金で雇った冷酷非道な私兵隊長、ブラッド・アイアンだった。血の汚れがこびりついた分厚い黒鉄の甲冑を纏い、肩には打撃時に爆発を引き起こすという凶悪な魔導武器『爆裂の鉄槌』を担いでいる。彼の背後には、同じく重装甲で身を固めた私兵団百名が整然と隊列を組んでおり、逃げ惑う領民たちを家畜のように包囲していた。すでに村の干し草の山がいくつか炎上し、黒い煙が冬の青空を汚している。


「……騒々しいですね。近所迷惑という物理的な損失を、彼らは理解していないようです」


グランツ伯爵邸の二階、寝室の窓からその光景を見下ろしながら、ユリア・グランツは冷徹に銀縁の眼鏡を押し上げた。伝説の霊草『スノー・ロータス』のおかげで最悪の肺熱からは回復したものの、身体はまだ重く、指先には微かな痺れが残っている。神々との「魂の仮縫い」の代償により、触覚と味覚が一時的に麻痺しているのだ。指で触れるシーツの感触すら恐ろしいほどに遠い。だが、ユリアの青い瞳に宿る知性の光は、いささかも衰えていなかった。


「お嬢様、まだ病床から立ち上がるのは無茶でございます! ここは老骨にお任せを……」


老執事セバスが痛ましげに声をかけるが、ユリアは首を振った。


「セバス、我が家の家計簿において、これ以上の施設の破壊や領民の負傷は、将来の税収を損なう『完全な純損失』です。会計士として、一ペニーの無駄も見過ごすわけにはいきません。……ミーナ、罠の準備は?」


影から滑り出るようにして部屋に飛び込んできたのは、幼馴染の女狩人ミーナだった。彼女は「魔導樫の長弓」を背負い、緊張で小麦色の肌を強張らせている。


「準備万端よ、ユリア! あんたが事前に設計してくれた『領地防衛の地形罠戦術』、ルートBの落とし穴と地滑りの仕掛けはすべて自警団が配置についたわ。でも、敵は百名の重装歩兵よ。私たちの貧弱な自警団じゃ、正面からぶつかったら一瞬で粉砕されちゃう……!」


「正面から戦う必要はありません。重装甲は防御力に優れる反面、この雪上においては自重による沈み込みと、慣性による制動の遅れという致命的な『維持コスト』を抱えています。ミーナ、彼らを誘い込みなさい。合図は、あなたの口笛です」


「了解!」


ミーナが風のように窓から飛び出していく。ユリアがふと視線を落とすと、ベッドの脇、自分の影が不自然に濃く蠢いていることに気づいた。影神ゼノが、いつでも彼女を影の中に引きずり込んで守れるよう、息を潜めて待機しているのだ。その過剰なまでの保護本能に微かな吐息を漏らし、ユリアは部屋を出て、邸の玄関へと向かった。その隣を、赤い髪を激しく逆立てた闘神レグスが、音もなく並んで歩く。彼の真紅の瞳は、怒りと焦燥で獣のようにぎらついていた。


「おい、小娘。病み上がりの体に冷たい風を通してんじゃねえよ。大人しく俺の背中に隠れて、その生意気な帳簿でもつけてやがれ」


「レグス様、私は管理者です。現場の指揮を放棄することはできません。それに、あなたこそ雪山での凍傷と打撲が完治していないはずですが?」


「はっ、この程度の傷が闘神の俺に響くかよ! あの鉄屑を纏ったゴミどもが、俺の『労働の対価(特製肉料理)』を脅かそうとしてるんだ。俺の目の前で我が物顔をしてる奴らは、一匹残らず叩き潰してやる!」


レグスは背中に背負った「錆びた闘神の大剣」の柄に手をかけた。だが、彼は剣を抜こうとはしなかった。神力を失っている今、不用意に魔法的な武器を使えば、ユリアの家計簿の掟第2条『無断神力使用の罰金制度』に引っかかり、翌日のおかずの肉を減額されることを、彼は本能的に恐れていたのだ。口では反発しながらも、完璧にユリアのルールに飼い慣らされている姿は、どこかコミカルですらあった。


邸の門扉が乱暴に蹴り開けられ、ブラッド・アイアン率いる私兵団がグランツ邸の前庭へと侵入してきた。彼らの足元は、ユリアの計算通り、深い雪に足を取られて著しく鈍っている。


ピィー――ッ!


その瞬間、森の奥からミーナの鋭い口笛が響き渡った。それを合図に、自警団のマルティンたちがロープを引く。重装歩兵たちの足元の雪原が突如として崩落し、隠されていた巨大な落とし穴が口を開けた。


「うわあああ!?」

「落とし穴だ! 引け、引け!」


重い甲冑の重量が災いし、前衛の兵士たち数十名が次々と穴の中へと滑り落ちていく。穴の底には、レグスが怪力で突き刺した鋭い星鉄の針金が張り巡らされており、落ちた兵士たちは身動きを封じられた。


「おのれ、卑劣な罠を……! 突撃しろ! 数で押し潰せ!」


怒り狂ったブラッドが『爆裂の鉄槌』を振り回し、自ら先頭に立って突撃してきた。彼の突進力は凄まじく、立ち塞がろうとした若い警備兵のマルティンが、恐怖に顔を青ざめながら槍を突き出す。


「こ、ここから先は通さない……!」

「失せろ、雑魚が!」


ブラッドが鉄槌を横一線に薙ぎ払った。ドォンという爆発音と共に衝撃波が走り、マルティンの槍は木っ端微塵に粉砕され、彼はその衝撃で雪原へと吹き飛ばされた。ブラッドは追撃を加えようと、容赦なく鉄槌を振り上げる。マルティンの命は風前の灯火だった。


「――おい、誰の許可を得て俺の『特訓相手』に手を上げてんだ?」


冷酷な、地獄の底から響くような声が、ブラッドの動きを完全に凍りつかせた。


突如としてマルティンの前に立ち塞がったのは、赤髪の闘神レグスだった。彼は大剣を背負ったまま、武器すら構えずに、ただ圧倒的な肉体の威圧感だけでブラッドを睨みつけていた。レグスの全身から立ち上る、神力を失ってもなお金剛石並みの硬度を誇る「闘気」の圧力が、周囲の雪を円形に吹き飛ばしていく。


「何だ、このガキは……! 死ねぇ!」


ブラッドは咆哮し、全力で『爆裂の鉄槌』をレグスの脳頭部へと振り下ろした。打撃の瞬間に魔力が暴走し、凄まじい爆炎と衝撃波がレグスの身体を包み込む。ドガァァァン!という大爆発が前庭を揺らし、自警団の面々が「レグス様!」と悲鳴を上げた。


しかし、もうもうと立ち込める黒煙の中から現れたのは、傷一つ負わずに不敵な笑みを浮かべるレグスの姿だった。彼は「闘気の肉体強化」のみで、爆裂の衝撃波を完全に無傷で耐え切っていたのだ。その超人的な肉体強度に、ブラッドの顔が甲冑の奥で驚愕に歪む。


「嘘だろ……魔導爆発を直撃させて、無傷だと……!?」


「温いな。天界のガキの喧嘩の方が、まだマシな火力を出しやがるぞ」


レグスは冷たく言い放つと、ブラッドの次の打撃を待つことなく、一歩踏み出した。その足取りは、負傷しているはずの身体とは思えないほど神速だった。ブラッドは慌てて鉄槌を構え直そうとしたが、レグスは神鉄の大剣すら抜かず、ただの「拳」を強く握りしめた。


「俺の女主に、その汚い鉄屑を向けるなと言ったはずだ」


その瞬間、レグスの胸元で、見えないはずの【運命の聖糸】が黄金色に激しく明滅した。ユリアを守りたいという、彼の奥底にある狂おしいほどの執着と怒りが、魂の核(コア)に眠る闘神としての本源的な神格を刺激したのだ。レグスの真紅の瞳に、一時的ながらも神聖な、赤く燃え盛る「闘神の炎」が宿る。これこそが、彼の神力回復段階『微覚醒(感情依存)』の瞬間だった。


「おおおおお!」


レグスが拳を振り下ろした。極限の筋力と、微覚醒した闘気の炎が融合した究極の物理攻撃――【闘神の一撃(肉体版)】が炸裂する。


空気が物理的に圧縮され、キィィィンという鼓膜を突き破るようなソニックブームが発生した。レグスの拳が、ブラッドが防御のために掲げた『爆裂の鉄槌』の強固な鉄頭部と正面から激突する。


パキィィィン!


次の瞬間、あり得ない金属の破砕音が響き渡った。ヴァルターから与えられたというブラッドの自慢の魔導武器が、レグスの拳の圧力に耐えかねて、まるでガラス細工のように粉々に砕け散ったのだ。さらに拳の勢いは衰えず、ブラッドの分厚い鋼鉄の胸当てへと直撃した。


ゴハァッ!という、肺からすべての空気を吐き出すような悲惨な絶叫と共に、ブラッドの巨大な身体が、まるで大砲から射出された砲弾のように後方へと吹き飛んだ。彼は前庭を数十メートルも滑り、背後にあった樹齢数百年の巨大な大木へと激突。メキメキと音を立てて大木の幹に深い亀裂が入り、ブラッドはそのまま意識を失って雪の中に沈んだ。胸当てはレグスの拳の形に深く陥没している。


「ひ、一撃で、隊長が……!?」

「化け物だ! この屋敷には、本物の化け物が住んでいるぞ!」


生き残った私兵たち百名は、レグスの常軌を逸した圧倒的な暴力と、その背後に佇むユリアの冷徹な眼差しを前にして、完全に戦意を喪失した。彼らは武器を地面に投げ捨て、その場に跪いて降伏の意を示した。自警団のマルティンやミーナたちが、信じられないものを見る目でレグスを見つめている。


「ふぅ……。少しは、いい砂袋になったな」


レグスは肩を回しながら、真紅の瞳の炎を消し、ユリアへと振り返った。その顔には、まるで「俺の強さを見たか」とでも言いたげな、子供のような不器用な誇らしさが浮かんでいる。だが、彼の身体は過度の筋肉の酷使により、微かに震えていた。


ユリアは冷静に歩み寄り、懐から『グランツ家の家計簿』を取り出して、素早くペンを走らせた。


「レグス様。お見事な防衛でした。ですが……」


ユリアは銀縁の眼鏡を指先で押し上げ、冷たい視線で彼を睨みつけた。


「エルム村の畑の一部が、彼らの侵入によって焼き払われました。これは来期の収穫量に対する深刻な『損失』です。さらに、あなたの現在の筋肉の酷使状態を計算するに、回復のために必要なプロテイン――つまり、明日の『特製肉料理』の消費量は、通常の三倍に跳ね上がります。これは我が家の予算において、一時的な『巨大な赤字要因』となります」


「は、ハンバーグが三倍食えるってことか!? だったら、赤字だろうが何だろうが、俺の労働の成果だろうが!」


レグスは顔を赤くして抗議したが、ユリアは容赦なく帳簿に赤い文字で記帳を続けた。


「却下します。肉の増量は認めますが、そのコストを相殺するため、捕縛したブラッド隊長以下、生存者全員を『グランツ鉱山』での無給の炭鉱夫として一生の強制労働刑に処します。これで、我が家の『労働資産』は大幅にプラスに転じます」


「……あんた、本当に鬼だな」


レグスは呆れ果てたように呟いたが、その瞳には、自分たちの命や存在を「資産」として誰よりも必要としてくれるユリアへの、狂おしいほどの愛着と所有欲が、より深く刻まれていた。彼は泥だらけの大きな手で、ユリアの華奢な肩を強引に引き寄せ、自らの胸元へと抱き寄せた。


「まあいいさ。俺の身体の維持費は、あんたが生涯をかけて支払い続けやがれ、俺の冷たい財務大臣」


「……レグス様、公衆の面前での過度な接触は、自警団の士気に影響します。離れてください。一回につき、明日の肉をさらに一品減額しますよ」


ユリアの冷徹な一言に、レグスは慌てて手を離し、顔を赤くしてそっぽを向いた。その微笑ましい(神々にとっては深刻な)やり取りに、領民たちからも温かい笑いが漏れかけた、その時だった。


正門の外から、不気味に響く馬車の車輪の音が、再び前庭の空気を凍りつかせた。


現れたのは、ヴァルター侯爵の紋章が刻まれた漆黒の馬車。そして、そこから降り立ってきたのは、グランツ家の債権を買い取り、執拗に不当な返済を迫る強欲な金貸しゴブセック・ローゼン、そして、ヴァルターの親戚であり汚職を繰り返す悪徳地方役人のマイヤー・シュミットだった。彼らの背後には、帝国地方裁判所の公式な印章を掲げた「差し押さえ執行官」たちが、冷酷な表情で整然と隊列を組んでいた。


「グランツ領主代理、ユリア・グランツ! これ以上の不法な抵抗は無駄だ! 我々は帝国法に基づき、このグランツ伯爵邸、および領土すべての『即時差し押さえ令状』を執行しにやってきた!」


ゴブセックが不気味に細長い手で、公文書をこれ見よがしに掲げ、歪んだ笑みを浮かべた。


「大人しくこの屋敷から退去しろ! さもなければ、お前たち全員を、国家への反逆者としてその場で処刑する!」


マイヤーが汚職に塗れた冷たい声を響かせ、執行官たちに門を突破するよう指示を出す。ヴァルター侯爵が仕組んだ、武力侵攻に続く「法的な最終兵器」の到来。グランツ邸の門前に、再び絶望的な緊張感が漂い始めた。

HẾT CHƯƠNG

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