冷徹な会計士の墜落と、命がけの雪山登山
「防衛予算、算出……。ヴァルター侯爵領からの私兵団の進軍ルートは三路。これに対する自警団の配備コストは、銀貨、零……」
グランツ伯爵邸の執務室。凍てつく深夜の静寂の中、ユリア・グランツは羽ペンを握ったまま、机の上の羊皮紙に数字を書き連ねていた。
経済封鎖を仕掛けてきた強欲商人ベッカーを破産に追い込み、領内の食料危機を解決したばかりだ。しかし、一息つく間もなく、ヴァルター侯爵が百名もの重装私兵団を動かしたという報せが届いた。一ペニーの無駄も許されないこの貧乏領地を、今度は「暴力」という理不尽が襲おうとしている。
「私が……ここで倒れるわけには、いきません。もし私が機能停止すれば、領地経営のすべての計算式が瓦解し、莫大な純損失が発生する……」
呟いた声は、自分でも驚くほど掠れていた。眼鏡の位置を直そうと手を持ち上げたが、指先が微細に震え、視界がぐにゃりと歪む。額から発せられる熱は、すでに思考を正常に維持できる限界を超えていた。連日の不眠不休の書類仕事、そして容赦なく体温を奪う冬の極寒が、元宮廷会計士の華奢な肉体を蝕んでいたのだ。
「姉上……? 姉上、顔色が真っ赤です! もう休んでください!」
隣で書類の整理を手伝っていた実弟のルークが、悲痛な声を上げてユリアの肩を揺すった。その小さな手が触れた瞬間、ユリアの身体は糸の切れた人形のように、ゆっくりと椅子の背から滑り落ちた。
「姉上!?」
ガタァン、と激しい音を立てて羽ペンが転がり、インクが白紙の予算書を黒く汚していく。ルークの悲鳴に近い叫び声が、古びた屋敷の廊下へと響き渡った。
数秒と経たずに、執務室の扉が激しく押し開けられた。最初に入ってきたのは、太陽の光を編んだような金髪を振り乱したバルドルだった。その琥珀色の瞳は、かつてないほどの恐怖と動揺に満ちている。その後ろからは、燃えるような赤髪の闘神レグスが、獣のような鋭い足取りで踏み込んできた。
「ユリア!? 嘘だろ、おい……!」
バルドルが床に倒れたユリアを、壊れ物を扱うように抱き起こした。彼の白いエプロンが、ユリアの熱い吐息で微かに湿る。触れた彼女の身体は、まるで燃え盛る炉のように熱かった。
「熱すぎる……! レグス、早くベッドへ! セバス、医師を、早く!」
「チッ、あの頑丈な小娘がなんで急に……!」
レグスは悪態をつきながらも、バルドルからユリアの身体を奪うようにして軽々と抱き上げた。その腕に伝わるあまりの軽さと、消え入りそうな命の鼓動に、闘神の真紅の瞳が激しく揺れる。普段は傲慢で、人間に仕えることを屈辱としていた男神たちが、今はただ、目の前の小さな少女の「機能停止」に、魂を掻きむしられるような焦燥を感じていた。
寝室へと運ばれたユリアの枕元で、領内の老医師ガレノスが、使い古した銀の聴診器を当てて厳しい表情を浮かべていた。白髪のぼさぼさ頭を掻きむしり、彼は深く溜息をつく。
「過労と極寒による肺熱だ。それも、何日も前から限界を超えていたのを、気力だけで隠し通していたな。このお嬢様は、数字を計算する頭は天才的だが、自分の身体の『維持費』を計算することを完全に怠っておられた」
「先生、姉上は助かるのですか!?」
ルークが泣きそうな顔でガレノスの外套の袖を掴んだ。背後に控える老執事セバスも、いつもの穏やかな微笑みを完全に消し去り、拳を固く握りしめている。
「普通の薬草では熱を下げるのが間に合わん。このままでは三日と持たずに、脳が焼き切れてしまうだろう。……助ける方法は、ただ一つ。領地の最北端、あの雪崩が頻発する『銀嶺の崖』の絶壁にのみ自生する、伝説の霊草【スノー・ロータス】が必要だ。だが、あそこはマイナス四十度の絶対零度の世界。普通の人間が行けば、崖を登る前に凍死する」
ガレノスの言葉が終わるか終わらないかのうちに、レグスが壁を殴りつけた。
「だったら、俺が行く。あの小娘に死なれたら、俺の労働の対価(特製肉料理)を誰が払うんだよ! 不渡りを出す前に、無理やりにでも叩き起こしてやる!」
「僕も行くよ、レグス」
バルドルが静かに、しかし絶対の拒絶を許さないトーンで言った。
「ユリアが消えるなんて、そんなの、僕の光が再びあの冷たい暗闇に沈むのと同じだ。彼女を失うくらいなら、僕の魂が凍りついたって構わない」
二人の神の瞳には、かつて天界でクーデターに敗れた時以上の、狂気的な執着と決意が宿っていた。彼らにとって、ユリア・グランツという少女は、もはや単なる「家計簿の管理者」ではなく、自分たちの存在を定義する「絶対の光」そのものだったのだ。
「待て、お前たち。神力がほぼゼロの状態で、あの極寒の崖に挑むのがどれほど無謀か分かっているのか?」
部屋の隅の影から、影神ゼノが音もなく現れた。その深い紫色の瞳には、二人に対する嫉妬と、自分自身がユリアの影を離れられないことへの苛立ちが混ざり合っている。
「ゼノ、お前はここでユリアの影を守れ。不審なネズミが一匹でも近づいたら、影の中に引きずり込んで引き裂け。……行くぞ、バルドル」
レグスは背中に「錆びた闘神の大剣」を背負い、ユリアがかつて予算を削って購入してくれた「巨獣の毛皮」の外套を羽織った。バルドルもまた、白いエプロンを外し、冷たい風が吹き荒れる外へと一歩を踏み出した。
領地最北端、銀嶺の崖。
そこは、天界からの墜落の衝撃を直接受けたため、地形が鋭く歪んだ絶対の死地だった。吹き荒れる猛吹雪は、視界を完全に白一色に染め上げ、マイナス四十度の冷気が牙を剥いて神々の肉体を苛む。神力を失った彼らの身体は、一歩進むごとに熱を奪われ、関節が悲鳴を上げていた。
「くそっ……! 身体が、重い……! 天界にいた頃なら、こんな吹雪、一息で吹き飛ばせたのに……!」
バルドルが凍傷で赤紫に腫れ上がった手で顔を覆い、雪の中に膝を突きかけた。彼の琥珀色の瞳から流れた涙が、頬を伝う前に凍りついて白い結晶となる。だが、その前に立つレグスが、彼の腕を強引に掴み上げた。
「立て、光の! あの小娘は、毎日こんな冷たい部屋で、一ペニーの狂いもなく帳簿をつけてたんだぞ! 神の俺たちが、この程度の寒さで音を上げてんじゃねえ!」
レグスの咆哮が、猛吹雪の音をかき消した。彼の燃えるような赤髪は凍りつき、唇は紫に変色していたが、その瞳に宿る闘志の炎だけは、少しも衰えていなかった。レグスは「巨獣の毛皮」をバルドルの肩へと押し付け、自らは粗末なシャツ一枚で、猛烈な風を押し返すように進み続けた。
その時、雪原の奥から、不気味な咆哮が響いた。雪と同化した半透明の皮膚を持つ、氷の魔獣「氷牙狼」の群れが、彼らの「神格の残気」を嗅ぎつけて現れたのだ。
「チッ、邪魔な羽虫どもが……! 俺のストレス解消の砂袋にしてやる!」
レグスは背中の大剣を抜こうとしたが、寒さで指の筋肉が硬直しており、柄を握ることができない。魔獣の一頭が、鋭い氷の牙を剥いてレグスの喉元へと飛びかかった。
「レグス!」
バルドルが叫び、指先から微弱な光の魔力を放った。日々の洗濯労働で得た、わずか『〇・一%』の神力――【光の簡易浄化法】の応用だ。極限まで絞り込まれた光の障壁が、レグスの目の前で魔獣の牙を受け止め、激しい火花を散らした。魔術の反動で、バルドルの指先から血が噴き出し、それが雪の上に赤い花のように散る。
「ナイスだ、バルドル!」
障壁に阻まれて体勢を崩した魔獣の脳頭部を、レグスは鍛え上げられた強靭な拳で、上空から直接殴りつけた。闘神の肉体強度は、神力を失ってもなお金剛石並みだ。ドン、という重々しい打撃音と共に、魔獣の氷の頭蓋骨が粉々に砕け散り、雪原へと沈んでいく。
残りの魔獣たちが、レグスの常軌を逸した物理的な暴力に恐怖を感じ、尻尾を巻いて猛吹雪の奥へと逃げ去っていった。だが、彼らには一息つく時間さえ残されていない。ユリアの命の砂時計は、今も刻一刻と落ち続けているのだ。
「崖の上だ……! あそこに、咲いている!」
バルドルが、氷壁の最上部を指し示した。猛吹雪の合間、垂直に切り立った絶壁の頂点に、微かに青白い光を放つ一輪の美しい花が見えた。伝説の霊草【スノー・ロータス】だ。
しかし、そこへ至る道は、命綱なしでは登ることすら不可能な、凍りついた絶壁だった。バルドルは空中を飛んで登ろうと試みたが、神力不足のため、数メートル浮かび上がったところで魔力が底をつき、雪原へと激しく叩きつけられた。全身に激しい打撃を負い、彼の口から微量の血が吐き出される。
「バルドル! 無茶をするな、お前の薄い身体じゃ骨が砕けるぞ!」
「でも、あそこまで登らないと……ユリアが、死んじゃうんだ……!」
バルドルは凍りついた手で、必死に氷の壁にしがみついた。爪が剥がれ、白い氷壁に赤い血の筋が引かれていく。その必死な姿に、レグスはチッと舌打ちをすると、大剣を雪に突き刺し、バルドルの背中をポンと叩いた。
「おい、俺の肩に乗れ。俺の跳躍力と、お前の光の足場を合わせるんだ。小細工なしの、力技で行くぞ!」
「レグス……。うん、分かった!」
バルドルがレグスの強靭な肩にまたがり、レグスは深く腰を落とした。彼の鍛え上げられた大腿四頭筋が、爆発的なエネルギーを溜め込むように膨らむ。
「おおおおお!」
レグスが地を蹴って跳躍した。神力なしの純粋な肉体能力だけで、彼は十数メートルもの高さを一気に飛び上がった。だが、重力に従って身体が落下し始める。その瞬間、バルドルが凍傷の手に全魔力を集中させ、レグスの足元へと光の硬質なプレートを展開した。
「そこだ!」
レグスはその光の足場を強く踏み台にし、さらに上方へと再跳躍した。神々の完璧な連携と、人間の「強固な意志と肉体の鍛錬」を信じた泥臭い登山法。二人は、猛吹雪を切り裂きながら、一歩ずつ、確実に絶壁の頂上へと迫っていった。
最後の跳躍。レグスの指先が、崖の縁を強く掴んだ。彼はバルドルの身体を、崖の上の平地へと力強く押し上げた。
「バルドル、早く毟り取れ!」
バルドルは雪の上に転がりながらも、目の前にある青白い光の花へと手を伸ばした。彼の指先が、スノー・ロータスの冷たい茎に触れた、その刹那。
ドクン――!
二人の胸元、そして遠く離れた伯爵邸のベッドで横たわるユリアの胸元で、見えないはずの赤い魔導糸が、まばゆい黄金の光を放って激しく発光した。
それは、地下の礼拝堂で見つかった【運命の聖糸】。ユリアの命の危機と、神々の「彼女を絶対に救う」という狂気的な執着が魂レベルで共鳴し、最初の仮縫いの契約が、強く、深く結ばれた瞬間だった。
「――獲ったよ、ユリア……!」
バルドルは、傷だらけの手で白い花を優しく包み込み、胸に抱きしめた。琥珀色の瞳から、今度は温かい涙が溢れ出し、氷の花の表面を濡らした。
数時間後、グランツ伯爵邸の寝室。
ガレノス医師が、持ち帰られたスノー・ロータスを素早く調合し、ユリアの青白い唇へと流し込んだ。霊草の絶対的な治癒効果が、彼女の体内を巡り、暴走していた熱を一瞬にして沈静化させていく。ユリアの呼吸は次第に穏やかになり、額の熱も引いていった。
「ふぅ……。大した神さまだ。神力を失ってなお、あの地獄のような崖から生きて戻り、この花を持ち帰るとはな」
ガレノスが感心したように、部屋の隅でボロボロになって座り込んでいるレグスとバルドルを見つめた。二人の身体は凍傷と打撲で満ちており、バルドルはエリザから手当てを受けながら、痛みに顔をしかめていた。だが、その目はじっと、ベッドの上のユリアを見つめ続けていた。
「う……ん……」
ユリアの長い睫毛が微かに震え、ゆっくりと瞳が開かれた。眼鏡のないぼやけた視界の中、心配そうに覗き込むルークの顔と、その背後でボロボロになりながら安堵の表情を浮かべる男神たちの姿が映る。
「ルーク……? それに、皆さん……。私は、どのくらい機能停止していたのでしょうか。……私の病気による『時間の浪費』は……」
「姉上! もう、目が覚めてすぐに数字の話をしないでください!」
ルークが泣きながらユリアの胸に飛び込んだ。ユリアは戸惑いながらも、その温かい頭を不器用に撫でた。そして、身体の奥底から湧き上がる、神々との奇妙な「魂の繋がり」の温もりに気づき、胸元に手を当てた。
だが、安堵の空気は、突如として切り裂かれた。
地響きのような重々しい足音が、雪を蹴立てて屋敷の正門へと近づいてくるのが、静まり返った寝室の窓越しに響いてきたのだ。それは、金属の甲冑が擦れ合う冷たい音だった。
「――来たか」
レグスが真紅の瞳を鋭く光らせ、錆びた大剣の柄に手をかけた。ヴァルター侯爵の私兵隊長ブラッドが率いる、百名の重装私兵団。経済の戦いに敗れた強欲な大貴族が、ついに「暴力」という名の最終手段を使い、グランツ領を蹂躙しにやってきたのだ。
ユリアは、サイドテーブルに置かれた『銀縁の会計眼鏡』を手に取り、ゆっくりと耳にかけた。その瞳から、病み上がりの弱さは一瞬で消え去り、冷徹な会計士の光が戻っていた。
「皆さん。病み上がりの私に、これ以上の『無駄な支出』をさせないでください。……我が領地の資産を脅かす害虫どもを、完璧に排除しに行きますよ」
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