冬を閉ざす経済封鎖と、神の悪知恵
凍てつく風が、グランツ伯爵邸の古びた窓枠をガタガタと揺らしていた。暖炉の火は細く、すきま風が容赦なくユリアの灰金色の髪をなでる。しかし、彼女が机の上で羽ペンを走らせる速度が鈍ることはなかった。
「――よし。バルトロ商会から勝ち取った前払い金五百ゴールドの記帳、および魔力回復薬の初期出荷分の原価計算、すべて完了しました」
ユリアは銀縁の会計眼鏡を人差し指で押し上げ、ふう、と小さく息を吐いた。手元にある『グランツ家の家計簿』には、奇跡的な黒字の数字が整然と並んでいる。バルドルの神力によって浄化された水源から生まれた【魔力回復薬(エコノミー版)】は、隣領の豪商バルトロメウスの手によって、凄まじい勢いで金貨へと姿を変えつつあった。
だが、安堵の時間は一瞬で切り裂かれる。
「ユリア! 大変だよ!」
バタン、と勢いよく扉が開いた。入ってきたのは、ポニーテールにまとめた栗色の髪に雪をまぶした、幼馴染の女狩人ミーナだった。彼女の小麦色の肌は、寒さとは異なる恐怖で青ざめている。
「どうしました、ミーナ。我が家の敷地内での大声は、執務効率を三%低下させます。落ち着いて報告を」
「そんな悠長なこと言ってる場合じゃないって! 大変なんだ、エルム村の市場が……! ヴァルター侯爵の息がかかった御用商人のベッカーが、領地に続く東の関所とすべての街道の通行権を買い占めたんだよ! 塩や小麦粉、冬を越すための生活物資の流通が、完全に止められちゃった!」
「……食料流通の経済封鎖、ですか」
ユリアの瞳が、氷のように冷たく澄み渡った。眼鏡の奥の眼光が、冷徹に数字を弾き始める。
「ベッカー・クライン。ヴァルター派の有力商人ですね。奴らは、魔力回復薬の成功で我が家が息を吹き返すのを恐れ、物理的な兵糧攻めに切り替えてきたというわけですか」
「それだけじゃないんだよ! ベッカーの奴、買い占めた塩をエルム村の広場に持ち込んで、普段の十倍の価格で売りつけてるの!『嫌なら飢え死にしろ』って……! このままじゃ、レグスが狩ってくれた魔獣の肉を塩漬けにして保存することもできないし、領民たちが冬を越せないよ!」
ミーナは拳を握りしめ、悔しさに唇を噛んだ。塩の価格が十倍。それは貧しい領民たちにとって、死刑宣告に等しい。Preserve(保存)のための塩がなければ、冬の生命線である【備蓄用塩漬け肉】を作ることもできず、領地は飢餓に陥る。
「おや、それはまた……ずいぶんと古典的で、悪趣味な嫌がらせだね」
部屋の隅、影の中から滑り出すようにして、一人の男が姿を現した。ゆるやかにウェーブした緑がかった銀髪を揺らし、知恵神エルメが、胡散臭いほどに美しい微笑を浮かべてユリアに近づく。その手には、星鉄の玉でできた極小の【知恵神のそろばん】が握られていた。
「エルメ様。足音を立てずに移動する行為は、私の心拍数を一時的に上昇させ、事務作業のエネルギーロスを招きます。あとで家計簿の雑費からペナルティを引いておきますね」
「おや、手厳しいな、可愛い主様(マイレディ)。だが、この危機を乗り切るためなら、私の『悪知恵』をいくらでも貸してあげるよ? もちろん、特別な報酬をくれるなら、だけどね」
エルメは細縁の眼鏡を指先で弄びながら、ユリアの机に両手を突き、顔を覗き込んできた。エメラルドグリーンの瞳が、獲物を狙う蛇のように怪しく光る。
「結構です。まずは現状の『数字』を整理しましょう」
ユリアはエルメの美しい顔を平然と無視し、紙にペンを走らせた。彼女が起動したのは、宮廷会計士時代に編み出した独自の分析術――【帳簿式魔力消費計算】の応用である。
「ベッカーが市場を独占できているのは、街道を物理的に封鎖し、他からの供給をゼロにしているからです。しかし、買い占めという戦術は、維持コストが極めて高い。塩や小麦粉といった重量物は、保管するだけで倉庫の維持費、および魔力防湿の管理コストが毎日発生します。ベッカーが今回動員した資金と、ヴァルター侯爵への高利の金利を計算するに……奴の資金繰りの限界値は、あと三日」
「ふむ、さすがは私の主だ。数字だけで敵の首元を正確に捉えている。そう、ベッカーは今、高値で塩を売り抜かなければ、自分自身が莫大な金利の波に飲まれて破産する。つまり、奴も崖っぷちなのさ」
エルメはそろばんの玉を『パチ、パチ』と小気味よい音を立てて弾いた。その瞳には、知恵の神としての冷酷な計算が宿っている。
「なら、主様。私たちの取るべき道は一つだ。奴の塩を一切買わず、かつ市場に『圧倒的に安価な塩』を大量に投入して、奴の保有する在庫の価値を完全に暴落(クラッシュ)させる。どうかな?」
「言うのは簡単だけど、どうやって塩を仕入れるの!?」
ミーナが焦れたように叫んだ。「街道はベッカーの私兵に封鎖されてるんだよ!」
「おや、可愛い狩人さん。忘れたのかい? 私たちには、バルトロ商会という強力な『裏の同盟者』がいる。あそこの会頭は利益のためなら、教会の目すら掻い潜る男だ。封鎖されていない隣領の極秘ルート――【地下密輸ルート】を使って、安価な塩を大量に運び込ませればいい」
エルメは不敵に微笑み、ユリアの『グランツ家の家計簿』を指し示した。
「バルトロ商会への手数料は、今回の売上から十五%のマージンを支払う。これで彼らも喜んで動くはずだ。主様、この『緊急投資』、許可してくれるかな?」
ユリアは眼鏡の奥の瞳を細め、家計簿の予算シートを睨んだ。バルトロ商会への手数料十五%は小さくないコストだが、領民の飢餓を防ぎ、ベッカーを社会的に抹殺するためには、最も費用対効果の高い「投資」だった。
「――承認します。これは領地の防衛に必要な『緊急投資』として、家計簿の特例枠で処理します。エルメ様、バルトロ商会への連絡と、市場価格の操作を任せます。一ペニーの無駄も出さないよう、完璧にやってください」
「御意のままに、私の可愛い財務大臣」
エルメは優雅に一礼すると、そろばんを懐に収め、闇に溶けるようにして部屋を後にした。
翌朝、エルム村の広場は、重苦しい熱気に包まれていた。雪の積もる広場の中央には、高級な絹の服を着た太った男――ベッカー・クラインが、大柄な護衛たちを従えてふんぞり返っていた。彼の前には、大量の塩が詰まった袋が山積みにされている。
「おい、貧民ども! 塩が欲しければ、一袋につき帝国銀貨十枚だ! 払えないなら、その薄汚い魔獣の肉ごと腐らせて、飢え死にするがいい!」
ベッカーは金の懐中時計をこれみよがしに見せびらかしながら、冷酷な笑い声を上げた。領民たちは、絶望と怒りに震えながらも、生きるために大切な銀貨を差し出そうとしていた。
そこへ、冷たい、しかし凛とした声が響き渡った。
「そこまでにしなさい、ベッカー・クライン」
群衆が割れ、灰金色の髪をなびかせたユリアが歩み出てきた。その後ろには、不敵な笑みを浮かべたエルメが控えている。
「おや、これはグランツ領主代理の没落令嬢様ではないか。何をしに来た? お前も、私に頭を下げて塩を恵んでもらいに来たのか?」
「いいえ。私は、我が領地における『不当な価格吊り上げ』による市場の混乱を是正しに来たのです。あなたの提示している価格は、適正市場価格の十倍。これは帝国商業法における『暴利行為』に該当します」
「ハハハ! 法だと? この雪深い辺境で、誰がそんなものを守る! 流通を支配しているのはこの私だ。私が塩を売らなければ、お前たちは全員飢え死にするのだからな!」
ベッカーは傲慢に胸を張った。だが、ユリアは一切動じることなく、懐から『グランツ家の家計簿』をパッと開いた。
「流通を支配している、ですか。その仮定(前提)自体が、すでに破綻しています」
「何……?」
その瞬間、広場の入り口から、凄まじい馬蹄の音が響き渡った。雪を蹴立てて現れたのは、バルトロ商会の紋章が描かれた、頑丈な大型荷馬車の列だった。荷台には、真っ白に輝く高品質な塩の袋が、これでもかと山積みにされている。馬車を率いていたのは、バルトロ商会の使者マルコだった。
「お待たせいたしました、ユリア様! 隣領より、極秘ルートにて調達した特級塩、計五トン、無事に到着いたしました!」
「な、何だと!? 馬鹿な! 街道はすべて我が私兵が封鎖していたはずだぞ!」
ベッカーは顔を真っ青にし、懐中時計を落としそうになりながら叫んだ。エルメはそろばんを『パチパチ』と弾きながら、ベッカーの前に一歩踏み出した。
「おや、君の雇った程度の低い工作員たちのことかい? 彼らなら今頃、森の奥でゼノの『影の罠』に嵌まって、音もなく泥の中で眠っているよ。今頃は、冷たい雪のベッドで良い夢を見ているんじゃないかな?」
「ひっ……!」
エルメの冷酷な微笑みに、ベッカーの背筋に冷たいものが走った。ユリアは冷徹に眼鏡を押し上げ、驚愕する領民たちに向かって大声を上げた。
「領民の皆さん! 本日より、グランツ領主府は、バルトロ商会と共同で、特級塩を【一袋につき帝国銀貨一枚】――通常の適正価格で販売します! 数量の制限はありません。どうぞ、必要な分だけお買い求めください!」
「おおおおお!」
広場に、地鳴り collective な歓声が沸き起こった。領民たちはベッカーに見向きもせず、バルトロ商会の馬車へと殺到していく。ベッカーが十倍の価格で売りつけようとしていた塩は、一瞬にしてただの「誰も見向きもしないゴミ」と化した。
「そ、そんな馬鹿なことが……! 私はこの塩を買い占めるために、ヴァルター侯爵様から巨額の資金を借り入れているのだぞ! これが売れなければ、私は……私は破産する!」
ベッカーは崩れ落ちるように地面に膝を突き、山積みの塩袋にしがみついた。彼の頭上では、エルメがそろばんを弾きながら、死神のような美しい笑みを浮かべて囁いた。
「私の計算通りに動けば、明日にはあの強欲商人は塩の山に埋もれて破産しますよ、主様」
ユリアは、冷たくベッカーを見下ろした。経済のルールを無視し、他者の命を毟り取ろうとした者が辿る、当然の結末(不渡り)だった。
だが、勝利の余韻に浸る間もなく、広場に緊張した足音が響いた。ミーナが、険しい表情で息を切らしながらユリアの元へと走ってきたのだ。
「ユリア、大変だよ! さっき境界線近くの斥候から連絡があったの。ヴァルター侯爵が、ついに合法的な手段を諦めて……重装私兵団を動かし始めたって! こっちに向かって進軍してきてる!」
その報告を聞いた瞬間、ユリアの脳裏に、次なる巨大な物理的脅威がよぎった。経済の戦いは終わったが、次は「暴力」による強奪が始まろうとしていた。
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