奇跡の水と、隣領の冷徹な豪商
「――村の井戸水が、どす黒く濁っている?」
極寒の風が吹き抜けるエルム村の広場。ユリア・グランツは、銀縁の会計眼鏡を指先で押し上げながら、息を切らして報告に走ってきた厩務員の少年ディーターを見つめた。
数日前、悪徳親族ギルバートを法の刃で叩き伏せたばかりだというのに、休む暇など一秒も与えられないらしい。ユリアの隣では、太陽の光を編み込んだような金髪をなびかせた光神バルドルが、心配そうに琥珀色の瞳を揺らしている。
「ユリア、僕も行くよ。村の人たちが苦しんでいるなら、放っておけない」
「ええ、バルドル様。ですが、これは単なる自然発生した疫病ではありません。タイミングが良すぎます」
ユリアは冷徹に状況を分析していた。ギルバートの背後にいる悪徳侯爵ヴァルター。彼が、グランツ領の経済活動を完全に麻痺させるために仕組んだ卑劣な工作テロ――【水源汚染】である可能性が極めて高かった。もし領民が全滅すれば、領地再建どころか、明日生き残るための労働力すら失われてしまう。それは、我が家計簿における「回復不能な最大級の損失」を意味していた。
ユリアは、買い出し人のヨハンが手配した頑丈な木製荷車に乗り込み、バルドルと共にエルム村の水源へと急行した。到着した井戸の周囲には、すでに顔色の悪い領民たちが倒れ込み、苦しげに呻いている。皮膚には、どす黒い血管のような模様が浮かび上がっていた。
「うう……水が、喉が焼けるように熱い……」
「これはひどい……。悪意に満ちた、淀んだ魔力を感じます」
バルドルが井戸を覗き込み、美しい眉をひそめた。ユリアは眼鏡のフレームに軽く触れ、自身の鑑定スキルである【資産査定眼】を起動した。レンズの奥に、不気味な黒い数式が浮かび上がる。
(――やはり。これは畑を枯らし、人体を蝕む禁忌の『腐食毒薬』。ヴァルターの工作員が投げ込んだものですね。通常の医師や薬草では、解毒に金貨数十枚分の高価な薬材料が必要となります。我が家の現在の予算では、一滴たりとも購入不可能です)
つまり、物理的な治療はコストの面から完全に不渡り(不可能)である。ユリアは冷たい視線を井戸水に向けた。
「バルドル様。あなたの出番です」
「僕の? でも、僕の神力はまだほんの少ししか……」
バルドルは、ユリアから支給された「安価な白いエプロン」をぎゅっと握りしめ、自信なさげに視線を落とした。現在の彼の神力回復度は、日々の洗濯労働によって得たわずか『〇・一%』。だが、ユリアは彼の琥珀色の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「問題ありません。あなたの本質は『絶対の光』。出力を極限まで絞り、水中の毒素だけを狙い撃ちにするのです。我が家の家計の掟、第2条――【無断神力使用の罰金制度】は、私が許可した『緊急の投資』においては適用されません。つまり、今回に限り、おかずの肉の減額は免除します」
「肉が……減らない!? それに、ユリアが僕を信じて、必要としてくれている……!」
バルドルの頭上の【感情の視覚化グラフ】が、一瞬でピンク色と赤色に跳ね上がった。
【感謝:95%】【独占欲:80%】
「やってみるよ、ユリア! 君の期待に、僕は全力で応えてみせる!」
恍惚とした表情を浮かべたバルドルは、井戸の縁に美しい両手を添えた。彼が精神を集中させると、その指先から、まばゆくも温かい黄金の光が微細な振動波となって水面へと注ぎ込まれた。これこそが、彼の神聖魔術――【光の簡易浄化法】である。
ジュウウウ、と不気味な黒い霧が水面から蒸発し、どす黒く淀んでいた井戸水が、一瞬にして水晶のように透き通った清らかな水へと変貌していく。光の粒子が井戸の底まで浸透し、毒素を完全に分解・浄化していく光景は、息を呑むほど神々しかった。
「すごい……井戸の水が、光ってる……!」
倒れ伏していた領民たちが、這いずるようにして井戸の水を口に含んだ。その瞬間、皮膚の黒い斑点が消え去り、彼らは劇的な速度で回復し、その場に立ち上がった。
「病が消えた!? 奇跡だ……領主様と、あの美しいお方が、私たちを救ってくださった!」
領民たちが歓喜の声を上げ、ユリアとバルドルの前にひれ伏す。バルドルは「ユリア、できたよ!」と、犬のように尻尾を振らんばかりの笑顔でユリアの袖を引いた。その頭上では、ユリアへの狂信的な信仰を示すグラフが激しく明滅している。
しかし、ユリアの視線はすでに、その清らかな水へと注がれていた。眼鏡の鑑定レンズが、驚異的な数値を弾き出していたからだ。
(――ただの水ではありませんね。バルドル様の光の魔力が極限まで希釈され、微弱な精神安定と、魔力を十五%即座に回復させる薬効が残留しています。これは……既存の市場で取引されている『魔力回復薬』と同等、あるいはそれ以上の価値があります)
ユリアは、脳内のそろばんを高速で弾いた。
(製造コストは、我が屋敷の地下から湧き出る湧き水と、バルドル様の『実質タダ』の魔力のみ。ボトル代を含めても、一本あたりの原価は一ペニー以下。これを市場価格の半額――帝国銀貨二枚で販売すれば、純利益率は九十九%を超えます。これこそが、我がグランツ領を救う最初の商品――【魔力回復薬(エコノミー版)】です!)
ピンチを最大のチャンス(利益)に変える。宮廷会計士としてのユリアの血が、冷たく、しかし熱く沸き立った。彼女は即座に、領内の空き瓶をかき集め、湧き水をボトル詰めする作業ラインを構築した。
「ヨハン。この薬瓶を荷車に積みなさい。これから隣領の『商業都市バルタ』へ向かいます」
「ええっ!? お嬢様、バルタを支配するバルトロ商会の会頭バルトロメウス様は、帝国東部で最も冷徹な豪商として有名です。没落した我が家の怪しい薬など、まともに相手にしてくれるでしょうか……」
買い出し人のヨハンは、恐怖にガタガタと震えながら荷馬車の手綱を握った。だが、ユリアは冷たい笑顔を崩さない。
「相手が冷徹な商人だからこそ、交渉の余地があるのです。数字は嘘をつきません。彼が利益に聡い大人であるなら、この商品の『圧倒的な原価率と需要』を理解できないはずがありませんから」
ユリアは、フード付きの外套でバルドルの目立つ金髪を完全に覆い隠し、ヨハンと共に雪に閉ざされた境界線を越えた。目指すは、活気に満ちた大商業都市バルタである。
高大な城壁をくぐり、魔導馬車が行き交うバルタの街並みを進む。バルトロ商会の豪華な応接室に通されたユリアは、重厚な革の椅子に深く腰掛け、静かに眼鏡の位置を直した。対面に座る男――バルトロメウスは、立派な口髭を蓄え、上質な絹の外套を羽織った恰幅の良い紳士だった。その細い瞳の奥には、一瞬で相手の資産価値を見抜くような、冷酷な知性が光っている。
「――さて、グランツ領主代理。没落したグランツ家が、わざわざ我が商会に何の用かね? 過去の債務の猶予を求めにきたのなら、お引き取り願いたいが」
バルトロメウスは、手元のお茶を優雅にすすりながら、ユリアを値踏みするように見下した。その態度は、徹底的な利益至上主義者のそれだった。同行したヨハンは、緊張のあまりテーブルの下で書類を握りしめ、今にも失神しそうになっている。ユリアはテーブルの下で、ヨハンの書類を冷たく押さえて発言を制止した。
「ご挨拶ですね、バルトロメウス様。私は物乞いに来たのではありません。あなたに、大陸一の利益をもたらす『新規の商業契約』を提示しに来たのです」
ユリアは、懐から一本の青く澄んだボトルを取り出し、大理石のテーブルの上に静かに置いた。これこそが、バルドルの光で浄化された【魔力回復薬(エコノミー版)】である。
「ほう? それはただの水に見えるが」
「魔力を十五%即座に回復させ、肉体の疲労を和らげる『魔力回復薬』です。まずは、そちらの【真実の天秤】で、その純度と価値を査定していただけますか?」
バルトロメウスは不審げに眉を動かしたが、懐から鑑定用の天秤を取り出し、ボトルの液体を数滴垂らした。天秤がまばゆい青い光を放ち、針が「特級純度」の領域へと一気に振り切れた。豪商の細い瞳が、驚愕に微かに見開かれる。
「……確かに、純度は一級品だ。だが、どこの馬の骨とも知れぬ辺境の没落領地で作られた薬だ。安全性も市場価値も保証されていない。我が商会が買い取るとしても、一本につきせいぜい『銅貨五枚』が限界だな。ブランド力のない商品は、買い叩かれるのが市場のルールだ」
バルトロメウスは即座にポーカーフェイスを取り戻し、冷酷な価格交渉(買い叩き)を仕掛けてきた。一般的な回復薬の市場価格は銀貨四枚。それを銅貨五枚(実質タダ同然)で引き取ろうというのだ。ヨハンが絶望に顔を青くした。しかし、ユリアはフッと鼻で笑った。
「買い叩きですか。交渉の引き出しとしては、少々陳腐ですね、バルトロメウス様」
「何だと?」
「私は『資産査定眼』を使い、事前にバルタの市場データを全て監査してきました。現在、隣領の冒険者ギルドでは、冬のダンジョン攻略の本格化に伴い、低級回復薬が深刻な品薄状態にあります。ギルドの在庫は例年の四十%以下。冒険者たちは、通常の二倍の価格を支払ってでも薬を求めています。この需給の歪み(ショート)を前にして、ブランド力などという曖昧な数字に何の意味がありますか?」
ユリアは、懐から素早く一枚の原価計算書と市場統計シートを取り出し、テーブルの上を滑らせてバルトロメウスの目の前に突きつけた。
「この回復薬は、一本あたり『帝国銀貨二枚』で販売しても、競合商品の半額です。市場に投入した瞬間、冒険者たちの需要を百%独占できる。その場合の月間予測純利益は、金貨千枚。これを銅貨五枚で買い叩こうなど、商人の計算式としてあまりにも不健全です」
バルトロメウスは、突きつけられた書類の「一ペニーの狂いもない完璧な統計数字」を凝視し、口髭をピクリと震わせた。没落令嬢と侮っていた相手が、自分以上の「数字の怪物」であることに気付いたのだ。しかし、彼はまだ諦めない。
「フン……数字の上では美しいな。だが、グランツ領からこのバルタまでの街道は、冬の雪崩と魔獣によって流通が滞っている。輸送コストと破損リスクを計算すれば、銀貨二枚での取引など、我が商会にとっては割に合わん負債だ」
「物流のボトルネック(遅延)ですか。それについても、すでに解決策を『減価償却済み』です」
ユリアは、不敵な笑みを浮かべてバルドルを振り返った。バルドルがフードを外すと、その彫刻のように整った美貌と、琥珀色の瞳が露わになる。バルトロメウスがその圧倒的な存在感に息を呑む中、ユリアは冷徹に告げた。
「我がグランツ領主府は、闘神レグス様が直接手なずけた野生の【魔導馬】を用いた、超高速の極秘物流システムを構築しました。雪崩も魔獣も、彼らの機動力の前には存在しないも同義。通常の三分の一の時間で、一本の破損もなく、このバルタの倉庫へ直接納品してみせます。輸送リスクは全て我が領主府が負担(ヘッジ)しましょう」
「な……魔導馬を、物流のエンジンとして実用化したというのか!?」
バルトロメウスは、ついにその冷徹な仮面を完全に崩し、椅子から身を乗り出した。魔導馬による高速物流。それが事実なら、この冬の時期における物資の独占権は、バルトロ商会を大陸一の商会へと押し上げる決定打となる。
「私の提示する条件は一つです。バルトロ商会に、この『魔力回復薬(エコノミー版)』の【独占販売権】を付与します。その代わり――」
ユリアは、ペンを走らせて契約書の最終行に数字を書き込んだ。
「――開発資金および初期投資の担保として、今すぐ【金貨五百枚】の現金を、前払い(アドバンス)として支払っていただきます」
金貨五百枚。それは、ヴァルター侯爵への返済額(金貨千枚)のちょうど半分。領地を救うための、最初の巨大なキャッシュ(現金)だった。バルトロメウスは、ユリアが提示した完璧なビジネスモデルと、その冷徹な瞳をじっと睨みつけた。沈黙が、応接室の重苦しい空気を支配する。
「……はは、はははは!」
やがて、バルトロメウスの口から、低く、そして地鳴りのような笑い声が漏れ出た。彼はユリアの提示した原価計算書を深く睨みつけ、不敵な笑みをその顔に浮かべた。
「面白い。没落令嬢と侮っていたな、ユリア・グランツ殿。いや……元宮廷会計士の『数字の魔女』よ。よかろう、その契約、我が商会が全て買い取らせてもらおう!」
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