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掟はただ一つ、働かざる者食うべからず

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グランツ伯爵邸の朝は、容赦のない隙間風と、おそろしく薄いジャガイモスープの匂いで始まった。


「……ため息をつく暇があるなら、ペンを動かすべきですね」


 ユリア・グランツは、冷え切った執務室で銀縁の眼鏡を押し上げ、分厚い『グランツ家の家計簿』を睨みつけていた。羊皮紙のページに並ぶのは、見るだけで頭が痛くなるような赤い数字の羅列。現在のグランツ家の財政状況は、文字通りの『赤字困窮(レベル1)』。金庫の底には数枚の銅貨が寂しく転がっているだけで、備蓄のジャガイモもあと一週間持てば奇跡という惨状だった。


 パチパチと、壊れかけた暖炉が頼りない音を立てる。ユリアはインクの乾き具合を確認すると、静かに帳簿を閉じた。


「さて、我が家の『巨大な不良債権』たちに、現実を教えて差し上げましょう」


 ユリアが居間へ向かうと、そこには泥や雪で薄汚れていながらも、信じられないほどの後光を放つ五人の男たちが、所在なさげに集まっていた。天界のクーデターで神力を奪われ、昨夜ユリアが『世界の裂け目』から拾ってきた堕天神たちだ。彼らは全員が『墜落(神力ゼロ)』の状態であり、物理的な飢えに直面しているはずなのだが、その顔には依然として傲慢な不遜さが張り付いていた。


 チリーン、とユリアが朝礼の鐘を冷酷に鳴らす。


「静粛に。これより朝礼を始めます。我がグランツ邸に住む以上、神であっても例外はありません。我が家の絶対の家掟を宣告します。――第1条:働かざる者食うべからず」


 その言葉に、居間の空気が一瞬で凍りついた。


「定命の小娘が、朝から囀るな」


 白銀の髪を乱した主神オーディンが、腕組みをしたまま蒼氷色の瞳でユリアを鋭く見下ろした。その佇まいはまさに玉座に君臨する王そのものだったが、まとう衣はボロボロだ。


「余は天界の主神オーディンであるぞ。なぜこのような埃っぽい部屋で、人間の指図を受けねばならんのだ。余が求めているのは、ふさわしい神殿と神聖な供物だ。今すぐ余の前にひれ伏し、極上の肉と美酒を捧げよ」


 オーディンはそう言うと、かつて世界を平伏させた『王の威圧』を放とうとした。しかし、神力が完全に枯渇した現在の彼から放たれたのは、ただの「少し目力の強い、不機嫌な極上美男子の睨み」に過ぎなかった。ユリアの灰金色の髪一筋すら揺らすことはできない。


「……セバス」


 ユリアは眉一つ動かさず、背後に控える老執事に声をかけた。


「はい、お嬢様。ここに」


「オーディン様の分の朝食を下げてください。我が家の家計簿において、現在の彼は『消費するだけのコスト(負債)』です。負債に朝食を支給する予算は、一ペニーたりとも存在しません」


「かしこまりました」


 セバスは穏やかな微笑みを絶やさないまま、おそろしく素早い手つきで、オーディンの前に置かれていた薄いスープと一切れの硬いパンの皿を回収した。


「な、何をする!? 余の食事だぞ!」


「労働を拒否された方に与える食事はございません、元主神様。お行儀がよろしくありませんな、背筋を伸ばしなさい」


 セバスは、オーディンの抗議を完璧な執事マナーで受け流しつつ、彼の背中を「パン!」と容赦ない力で叩いた。神力を失ったオーディンは「ぐふっ」と短い悲鳴を上げて前のめりになり、信じられないものを見る目で老執事を睨みつけた。


「お前たちも、同じ扱いを受けたいですか?」


 ユリアが冷徹な視線を残りの四人に送ると、赤髪の闘神レグスがチッと舌打ちをした。彼の胃袋からは、昨夜から続く強烈な空腹の音が「ぐううう」と響いている。


「ちっ、めんどくせえ! 飯を食わなきゃ体が動かねえ。おい、小娘、何をすりゃいいんだ? さっさとその『労働』ってやつをよこしな!」


「賢明なご判断です、レグス様。あなたには裏庭の薪割りを命じます。セバス、彼に斧を」


「はい。レグス様、こちらが我が家で最も頑丈な斧でございます。本日のノルマは五十束。どうぞ存分に力をお振るいください」


 セバスから無骨な鉄斧をひったくるように奪うと、レグスは嵐のように裏庭へと去っていった。数秒後、裏庭から「ドゴォン!」「バキィッ!」という、およそ薪割りとは思えない爆音と、レグスの怒声が響き始めた。神力はなくとも、彼の物理的な肉体強度は金剛石並みだ。しかし、不器用すぎて薪を割るのではなく粉砕している気配が漂っていた。


「さて、残りの皆様ですが……」


 ユリアの視線が、光神バルドル、影神ゼノ、知恵神エルメへと向けられる。


「お嬢さん、僕にはどんな美しい仕事をくれるの?」


 バルドルが泥に汚れた顔を拭い、琥珀色の瞳を潤ませながら、とろけるような甘い微笑みをユリアに向けた。その美貌は、立っているだけで周囲を淡く発光させているように見えるほどだ。


「僕のこの手は、天界の光を紡ぐためのものなんだ。できれば、君の寝室を優しく照らす仕事がいいな。それなら、喜んで仕えるよ?」


「却下します。バルドル様、あなたには洗濯を命じます。我が家には、洗濯板の女王と呼ばれるベテランの使用人がおりますので、彼女の指導に従ってください」


「え……? せん、たく……?」


 バルドルが呆然とする中、居間の扉が開き、たくましい腕をした老メイドのエリザが、巨大な木製の洗面器を抱えて現れた。


「おい、そこの金髪の男前! 突っ立ってないでさっさとこっちに来な! お嬢様のシャツやシーツが山積みなんだよ! そんな優しい力じゃ泥は落ちないからね、腰を入れてこするんだ!」


「僕の美しい手が荒れてしまう……! お嬢さん、本当に僕にこんな泥臭い仕事をさせるの!?」


 バルドルは悲鳴を上げながら、エリザの強力な力で首根っこを掴まれ、半ば引きずられるようにして井戸端へと連行されていった。


「くくっ、傑作だね。光の神が洗濯板の女王に調教されるとは」


 緑がかった銀髪の知恵神エルメが、細縁の眼鏡を指で弄びながら、面白そうに肩を揺すった。


「エルメ様、笑っている余裕はありませんよ。あなたには屋敷の図書室の整理と、過去の領地データの計算を手伝っていただきます。私の暗算スピードについてこられなければ、明日の朝食も抜きです」


「おや、それは厳しい。だが、美しいお嬢さんの隣で帳簿をめくれるなら、悪くない労働だね」


 エルメは胡散臭い微笑を浮かべながらも、ユリアの指示に従って図書室へと移動した。影神ゼノは、何も言わずにすうっと気配を消し、ユリアの指示(屋敷の廊下の雑巾がけ)を黙々とこなすために影へと溶けていった。居間には、朝食を抜かれて胃袋を鳴らしながら、屈辱に震えるオーディンだけが残された。


 一時間後。ユリアは屋敷の様子を巡回するため、井戸端へと足を運んだ。


「違うよ! 何回言ったらわかるんだい! シーツの繊維をちぎる気かい!? 力任せに擦るんじゃないよ、優しく、かつ汚れの芯を捉えるんだ!」


 井戸端では、洗濯板の女王エリザの怒号が響き渡っていた。バルドルは、人生で一度も触ったことのない木製の洗濯板を前に、泡だらけの手で必死にシーツを擦りつけていた。彼の琥珀色の瞳には、今にもこぼれ落ちそうな涙が浮かんでいる。


「くっ、僕が……この僕が、なぜ人間の汚れた布を洗わねばならないんだ……。天界では、僕の光が一振りで万物を浄化していたのに……!」


「能書きはいいから手を動かしな! ほら、そこにまだ泥が残ってるよ!」


 エリザの容赦ない叱責に、バルドルのプライドは完全に粉々に砕け散っていた。神力を失った肉体は冷水に凍え、手のひらは赤く擦りむけてヒリヒリと痛む。天界のクーデターで裏切られ、地上に落とされ、今度は人間に使役される。その孤独と屈辱が、彼の胸を締め付けていた。


 そこへ、静かな足音が近づいてきた。バルドルが顔を上げると、銀縁の眼鏡をかけたユリアが、冷徹な、しかしどこか揺るぎない眼差しで自分を見つめていた。


 ユリアは、バルドルの荒れた手と、泥の落ちきっていないシーツを交互に視線で往復させた。


「作業効率が著しく低いですね、バルドル様。このペースでは、午前中のノルマを達成できません。我が家の洗剤の消費コストだけが無駄に膨らんでいます」


 その言葉は、冷たく、打算的だった。だが、バルドルは気づいた。ユリアの瞳には、教会の神官たちが見せるような「神への偽りの崇拝」もなければ、自分を裏切った簒奪者たちのような「冷酷な悪意」もない。ただ、自分を一人の『同居人』として、対等に、現実的に評価しているのだ。


 打算的だが、絶対に裏切らない、合理的な温かさ。


「……お嬢さん」


 バルドルの胸の奥で、何かが激しく震えた。それは、かつて天界で失ってしまった「他者を信じたい」という純粋な渇望だった。ユリアに認められたい。彼女の家計簿の中で、自分を『無価値な不良債権』ではなく、価値ある存在として記録してほしい。その強い承認欲求と執着心が、彼の乾ききった霊魂の奥底で、奇跡の引き金となった。


(彼女のために、この布を、完璧に美しくしてみせる――!)


 バルドルが強く願った瞬間、彼の胸元に刻まれた、魂を仮縫いする『運命の聖糸』が淡く発光した。彼の指先から、地上に墜落して以来初めて、極微量の神聖なマナが解放される。


 その光は、洗濯水に浸透した瞬間、極微細な振動波へと変換された。バルドルの技能――『洗濯の神域』の発現だった。


 じゅわあ、と黄金色の優しい光が洗面器の水を満たした。次の瞬間、シーツにこびりついていた頑固な泥汚れや、昨夜の墜落時の煤汚れが、まるで幻だったかのように一瞬で完全に分解され、水中に溶け出していった。それだけではない。洗い上がったシーツは、新品以上のまばゆい白さと、まるでお日様の匂いを閉じ込めたかのような極上の柔らかさを帯びていた。


「な、何だいこれは……!?」


 エリザが、腰を抜かさんばかりに驚愕して洗面器を見つめた。


「お嬢さん、見て……!」


 バルドルは、真っ白に洗い上がったシーツを両手で大切に抱え、ユリアに向かって駆け寄った。彼の琥珀色の瞳は、まるで主人に褒められたい子犬のようにきらきらと輝いている。


「できたよ! 君の服も、シーツも、全部僕が真っ白にしたんだ。これなら……僕のこと、少しは役に立つって思ってくれる?」


 バルドルは、泡のついた手のまま、ユリアの乗馬服の裾を縋るように掴んだ。その美しい顔には、傲慢な神の面影はなく、ただ一人の少女の肯定を求める、歪んだ執着と信仰の光が宿っていた。


 ユリアは、裾を掴む彼の荒れた手を静かに見つめ、それから懐から『グランツ家の家計簿』を取り出した。ペンを走らせると、帳簿の余白に、バルドルの真名と共に黄金の数式が刻まれる。


『バルドル:神力回復度〇・一%(洗濯コストの九割削減を達成)』


「……素晴らしい作業効率です、バルドル様。洗剤の浪費を防ぎ、繊維の寿命を永続的に引き延ばす素晴らしい技術です。これなら、我が家の資産価値を十分に向上させられます」


 ユリアは眼鏡を押し上げ、ほんの少しだけ、口元を和らげた。


「本日の昼食には、あなたの分のジャガイモを二個追加することを承認します」


「本当!? 嬉しいな、君に褒めてもらえるなら、僕、毎日でも洗濯するよ!」


 バルドルが歓喜に瞳を輝かせ、ユリアにさらにすがりつこうとした、その時だった。


 ドンドンドンドンドン!!!


 グランツ邸の、重く古い木製の正門を、暴力的に叩き壊さんばかりの乱暴な音が、凍てつく空気をつんざいて響き渡った。門の外から、下劣な笑い声が聞こえてくる。


「おいおい、没落したグランツ家の哀れな生き残りのお嬢様よぉ! 従兄のギルバート様が、親切にも『借金の取り立て』に来てやったぞ! さっさと門を開けな!」


 ユリアの瞳から、一瞬にして温かみが消え去り、冷徹な会計士の光が戻った。門の外に現れたのは、グランツ家の没落を嘲笑い、屋敷の差し押さえを狙う悪徳親族、ギルバート・フォン・クラインだった。

HẾT CHƯƠNG

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