家計簿の始まりは、天からの落とし物
極寒の風が、容赦なく灰金色の髪をなびかせる。ユリア・グランツは、凍てつく手袋の中で、亡き父エドワードが遺した分厚い借用書の束をぎゅっと握りしめた。
「……ため息をついても、負債の数字は一ペニーすら減りませんね」
ユリアは銀縁の眼鏡を押し上げ、白いため息を吐き出した。数日前まで、彼女は帝国の宮廷会計士として、国家予算の数式と格闘していた。しかし、お人好しな父が強欲な悪徳侯爵ヴァルターに騙され、巨額の借金を背負って病死したことで、彼女の人生は暗転した。宮廷を追放され、グランツ伯爵家は没落。残されたのは、荒廃した辺境の領地と、破産寸前の古い屋敷、そして気が遠くなるような赤字の山だけだった。
ユリアが今立っているのは、グランツ領の最北端――『世界の裂け目』と呼ばれる、空間が不自然に歪んだ危険な崖の縁だ。天界からの「ゴミ」が落ちてくるというこの禁足地に、何か換金できる遺物でも落ちていないかと探しに来たのだが、そこにあったのは想像を絶する光景だった。
ドォン、と地響きのような音が鳴り響き、崖の下にまばゆい光の塊が激突した。雪煙が舞い上がる中、ユリアが崖の下を覗き込むと、直径数十メートルほどの巨大なクレーターができていた。そこに横たわっていたのは、泥と雪にまみれながらも、この世のものとは思えない美貌を持った五人の男たちだった。
彼らは天界のクーデターによって神力を奪われ、地上へと叩き落とされた堕天神たち――すなわち『墜落(神力ゼロ)』の最弱状態にある神々だった。
「う、うう……」
最初に身を起こしたのは、白銀の髪に蒼氷色の瞳を持つ、威厳に満ちた大柄な男だった。天界の王であった主神オーディンだ。彼は薄汚れた衣をまといながらも、傲慢な眼差しでユリアを睨みつけた。
「ひれ伏せ、定命の人間よ。我が名はオーディン。天界を統べる主神である。我を保護し、直ちにふさわしい神殿と生贄を用意せよ」
その声には、かつて世界を震わせた覇気が込められている……はずだった。だが、彼の神力は完全に失われている。発せられた「王の威圧」は、ただの不機嫌な美男子の空威張りに過ぎず、ユリアの髪一筋さえ揺らすことはできなかった。
ユリアは眉一つ動かさず、冷徹に眼鏡の奥の瞳を細めた。
「却下します」
「何だと……!?」
「オーディン様とおっしゃいましたか。現在のあなたからは、魔力も、神聖なオーラも、一切感知できません。つまり、経済的な交渉力は皆無です。我がグランツ家は現在、破産寸前の赤字経営。あなたのような身元の不確かな方を無償で保護する余裕はありません」
「貴様、この我に向かってなんと不遜な……!」
オーディンが怒りに震えて立ち上がろうとした瞬間、その隣にいた赤髪の屈強な男が、獣のような真紅の瞳をぎらつかせてユリアを一歩踏み出した。不敗を誇る闘神レグスだ。
「おい、小娘。黙って聞いていれば調子に乗りやがって。力ずくで奪われたくなければ、今すぐ食い物を持ってきな」
レグスは拳を握りしめ、物理的な暴力でユリアを脅そうとした。しかし、その刹那、彼の強靭な身体がぐらりと揺れた。
ぐううううう――。
静まり返った雪原に、あまりにも間抜けな、そして凄まじい音量の腹の虫が鳴り響いた。レグスは顔を真っ赤にし、空腹による強烈な目眩に襲われてその場に膝を突いた。神力を失った神の肉体は、今やただの「極度にエネルギーを消費する大食いの人間」に過ぎないのだ。
「……なるほど」
ユリアは懐からペンと小さなメモ帳を取り出し、素早くペンを走らせた。
「骨格、筋肉量から推定するに、そちらの赤髪の男性の維持費――つまり基礎代謝を維持するための食費は、一般的な成人男性の約一・五倍。五人全員を養うとなると、最低でも一日あたりジャガイモ五キロ、塩漬け肉二キロが必要です。現在の市場価格に換算すると、一日で帝国銀貨三枚分の純損失。一ヶ月で金貨一万枚に相当する赤字要因となります。あなた方は、我が家計簿において『巨大な不良債権』以外の何物でもありません」
「ふ、不良債権だと……!?」
レグスは屈辱に顔を歪めたが、空腹のあまりそれ以上言葉が出ない。
そこへ、太陽の光を編んだような輝く金髪を持つ、琥珀色の瞳の美男子が歩み寄ってきた。光を司る神バルドルだ。彼は泥に汚れた顔を拭い、見る者すべてを魅了するような、とろけるように甘い微笑をユリアに向けた。
「ねえ、冷たいお嬢さん。僕たちの麗しい瞳に見つめられて、そんな無機質な数字の話ばかりするなんて悲しいよ。僕たちを助けてくれたら、君の望む『愛』をいくらでも与えてあげる。だから、ね?」
バルドルは自らの神聖な美貌を武器に、無償での奉仕を勝ち取ろうとユリアに急接近した。その距離、わずか数十センチ。
しかし、ユリアの「資産査定眼」が冷酷に発動した。彼女の銀縁眼鏡の奥で、バルドルの顔立ちが「換金不可能な無価値の装飾品」として数値化される。
「顔立ちの美しさは、即座に貨幣価値に換算できません。現在のあなたたちの美貌は、市場での流動性が著しく低く、担保としての価値はゼロです。つまり、あなたたちはただの『顔が良いだけの無価値な居候』です」
「え……? 無価値……?」
バルドルは生まれて初めて自分の美貌を完全否定され、魂が抜けかけたような顔でその場に固まった。背後で、緑がかった銀髪の知恵神エルメが「くくっ、傑作だね。僕たちの美貌が担保価値ゼロと切り捨てられるとは」と、胡散臭い微笑を浮かべながらそろばんを弾く真似をしている。その影には、漆黒の長髪を持つ影神ゼノが、無言のまま気配を消してユリアの出方を見守っていた。
ユリアは、手元の一冊の分厚い帳簿――先代から受け継いだ『グランツ家の家計簿』を胸に抱え、五人の堕天神たちを見下ろした。
「我がグランツ家に住む以上、神であっても例外はありません。掟はただ一つ。『働かざる者食うべからず』。衣食住と最低限のジャガイモを提供してほしければ、私の家計簿に従い、労働によってその対価を支払いなさい。嫌なら、この極寒の雪原で飢え死にするだけです」
五人の傲慢な神々は、屈辱と怒りに震えながらも、目の前にある「物理的な飢えと消滅」という現実、そしてこの冷酷な人間の少女が握る「財布と食糧庫」の絶対的な主導権に、ひれ伏さざるを得なかった。
「……よかろう。その条件を、仮に受け入れよう」
オーディンが悔しそうに歯噛みしながら、同意の言葉を口にした。
「賢明なご判断です。では、まずは我がグランツ伯爵邸の居間へ移動します。そこであなた方の『真名』をこの家計簿に登録していただきます」
ユリアは踵を返し、半壊した古い伯爵邸へと彼らを先導し始めた。しかし、彼女の脳内では、すでに別の冷酷な数式が回転していた。
(神々を屋敷の地下に住まわせる合意は取れましたが……問題は明日の朝です。現在、我がグランツ家の金庫は完全に空っぽ。この大食らいの男神五人を養うための、最初の日銭をどうやって稼ぐべきか――)
凍える風の中、ユリアの家計簿の最初のページが、静かにめくられた。
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